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月下に杯を重ね

日本刀メインの解説サイト?
各項目について、新しい情報を入手するたびに加筆修正し、前に出します。

備前長船長光[初代]

2006-04-16 02:02:20 | 刀工
 建治年間、備前国長船村の鍛冶。
 長船鍛冶の祖光忠の子、また長船鍛冶の代表工である景光の父である。左衛門尉。
 入道して「順慶」と切ると言われているが、近年は別人説が主流となっている。
 
 長光有銘の作刀は多く、鎌倉時代の有銘の作刀の中では最も多く現存している。
 長光は作刀にむらが少なく、技術的な充実が見られる。
 作風は光忠の物を継いでいるが、光忠ほどのおおらかさは見られず、光忠とは異なる長光独特の作風を樹立している。
 大丁子乱が華やか。
 大業物。


名物
○大般若長光
 大般若長光は、長光の作中では最も著名。
 その名称の由来は、室町時代に代金が六百貫であったため、大般若経六百巻とかけたものである。
 足利義輝から三好長慶、織田信長へ、さらに姉川の合戦の功によって徳川家康へ。徳川家康から長篠の合戦の奮戦を賞して、奥平信昌に下賜され、武州忍の松平家に伝来した。

 時代劇「長七郎江戸日記」では、将軍家の血筋松平長七郎の佩刀として描かれている。


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備前長船二郎左衛門尉勝光

2006-04-15 15:05:19 | 刀工
 永正年間、備前の国の人。
 二郎左衛門尉勝光。末備前。
 右京進勝光の子。
 為三左衛門尉と並んで戦国時代を代表する刀工である。
 叔父左京進宗光との合作あり。
 彫物を施したものあり。
 銘は「備前國住長船二郎左衛門尉勝光」「備前国住長船二郎左衛門尉藤原勝光」。
 「刀剣の見どころ勘どころ」(得能一男・光芸出版)には「備前國長船次郎左衛門尉勝光」となっているが、「二郎」の誤りであろうか。あるいは、次郎・二郎のいずれもあるのか。
 重要文化財、銘「備前國住長船二郎左衛門尉藤原勝光」裏銘「朝嵐 永正元年八月吉日 松下昌俊所持」(坂屋胤雄氏所有)の写真で「二郎」が現存していることは確認している。
 大業物。


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青江正恒

2006-04-15 11:27:37 | 刀工
 承元年間、備中国の鍛冶。
 古青江派を代表する名工。
 古青江派則高の子、あるいは門人といわれる。
 則高は本国が備前といわれているので、青江正恒もまた備前正恒と縁のあるものではないかとも言われている。
 青江正恒は備前正恒と年代も近く、混同されやすい。江戸時代から銘の「恒」の字の相違で見分けると伝えられるが、作風が大きく異なるのでそちらで見分ける方が確実であろう。
 銘は「正恒」。


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近江守源久道・久道[初代]

2006-04-15 03:23:28 | 刀工
 延宝年間、山城国の鍛冶。
 生国は江州野州郡野村で、本名は堀六郎兵衛。絶家となった久道家を継ぎ、三品の姓に改め三品六郎兵衛となる。
 寛永元年、近江大掾を受領、同年守に転じた。
 正徳元年に八十五歳で没する。
 二代金道の門人。
 銘は「近江守源久道」「近江守久道」、菊紋を切る。「以肥州島原哲作之」と切り添えるものもある。
 晩年は二代目久道との合作も多かった。
 良業物。

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和泉守兼定(之定)・関兼定二代

2006-04-09 12:57:44 | 刀工
 兼定二代目で永正年間・美濃国関の鍛冶。
 初代兼定(親兼定)の子。
 明応頃は、「定」の字をそのまま切るが、永正の初年より「ウ冠に之」という字に切るため「之定(のさだ)」と称される。
 次郎右衛門、吉右衛門ともいう。
 永正7年から8年頃に和泉守を受領する。永正14年頃、伊勢山田にても作刀。
 永正14年頃は、伊勢の内宮と外宮との間に社領争いがあり、刀の政策を必要とした物と思われる。また、同時期の桑名に初代村正(初代は応仁、二代が文亀の人との資料もあるが、このあたりは村正の項に記す)がおり、両工の作風が相似しているのは技術の交流があったものと考えられている。
 末古刀最上作、最上大業物。
 銘は「濃州関住兼定作」「和泉守藤原兼定作」。

○土方歳三の愛刀か?
 刃に魔性があると称された利刃。
 司馬遼太郎の「燃えよ剣」の中で、主人公の土方歳三の愛刀として登場。
 ただし、土方の佩刀は「和泉守兼定」としか記録には残っていないため、11代兼定(会津兼定)説の方が説得力があると思われる。

○西郷隆盛の愛刀
 さて、土方の兼定には諸説あるが、西郷隆盛の遺愛刀は之定に間違いないようだ。
 東京上野にある西郷隆盛像が腰に差しているのが、その脇差である。

○木村重成の愛刀
 もう一人、之定を愛した人物を紹介しよう。
 豊臣秀頼配下の木村重成である。
 端正な容姿ながら、大坂冬の陣で講話の使者として家康との会見に臨んだ際、家康が押した血判が薄かったため堂々とやり直しを求めるほどの剛胆さを秘めた人物であった。
 そんな彼の愛刀之定には、金象嵌で「道芝の露」の銘が切られていたという。

○その他
 現存する之定では、銘脇に「臨兵闘者皆陣列在前(へいのたたかいにのぞむものはみなじんれつのまえにあれ)」という言葉が切られている物が有名。
 この敵が生身の敵であったのかどうか。
 「人外の何かではないでしょうかね」という言葉を、とある宗教学の教授に聞いたことがある。


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相州貞宗

2006-03-26 02:11:39 | 刀工
 元徳(1329-1330)・元弘(1331-1335)年間から南北朝時代、相州の鍛冶師。
 貞宗は正宗(相州正宗)の直門で、後に養子になったと伝えられる。
 鎌倉から南北朝にかけての鍛冶師であるため、鎌倉様式のものと南北朝様式のものが現存する。
 その作風は、正宗が創始した相州伝の鍛法をそのまま受け継ぎ、その技量も師に継ぐものがある。
 師である正宗との相違は、やや大振りでそりのついた平造の脇差や、振幅が広く鋒(きっさき)の大きく伸びた太刀や片刃造の太刀や脇差がある点である。また、刃文においてもこの工は同じ湾れを焼いても正宗ほどの変化や働きが見られず比較的単調である。
 貞宗の門下の信国[初代]・法城寺國光・備前元重の三刀工を、師正宗正宗十哲になぞらえ貞宗三哲としている。

 貞宗には有銘の作が、太刀・短刀を問わず一振りも残っていない。しかしながら、その門下に信国[初代](貞宗三哲の一人)がおり、弟子の作から師である貞宗の作刀を推定することが出来る。


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長谷部國重

2006-02-20 01:15:54 | 刀工
 建武文和・延文年間、山城の国の人。本国、大和。
 千手院重信の子、長兵衛。
 南北朝時代の山城京五条坊門猪熊に在住した名工。
 彼の作刀には文和四年(1355年)・延文二年(1357年)等の年紀がある。
 正宗十哲の一人に数えられ、作風は前時代までの京風とは一線を画し、相州風をよくする。
 同時代の相州鍛冶、広光・秋広に似通っているが、乱込んだ帽子が相州伝ほど尖らないなど独特の特徴を持っている。
 銘は「長谷部國重」。
 在銘の物はほとんど存在せず、大磨上の物が多い。
 名物「へし切長谷部」も大磨上で本阿弥光徳が長谷部國重と鑑定し金象嵌を施した物である。

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備前長船長義(ちょうぎ)

2006-02-20 01:00:05 | 刀工
 延文年間、備前国長船の鍛冶。
 銘は「備州長船住長義」。
 長船派は鎌倉中期に名工光忠の出現により俄に栄えた流派であるが、この長義(ちょうぎ)は光忠を祖とする主流派でなく、別派の異色の刀工である。
 古来より「備前物中最も備前らしからざるもの」とされている。
 それは作風が相州鍛冶のそれであるからと思われ、正宗十哲の一人と数えられる所以とも言える。
 しかしながら、年代的には長義は正宗よりもやや時代的に下る。
 長義の兄に長重がおり、長重の作刀には建武年紀(1334~)のものが現存する。
 長義においては延文年紀が最古となり、時代的に見ても正宗とのつながりはむしろ長重と考える方が妥当ではなかろうか。長義は長重を介して相州伝を会得したと考える方が自然であろう。
 作刀は短刀が多く、太刀はまれである。なお、まれと言われる太刀は現存し重要文化財に指定されている。