ここ愛媛でも白杖を持ち始めてどれくらいになるかとカレンダーを見てみると、まだ2週間ほどでした。いろいろなことを感じたり考えさせられたので、もっと長い時間が経ったように感じてしまいます。
白杖を持っていないと外見上普通に見えているように見られるので、サポートをお願いするときに初めて弱視であることを伝え、驚かれたり不思議がられたり、説明しても望むサポートが受けられなかったりしました。白杖を持つと、見えていない人と思われ、常にサポートが必要だと思われて過剰なご心配をかけてしまうこともあります。やはり、弱視は中途半端に見えていて中途半端に見えていないので、見えているふりも見えていないふりもしたくないのですが、そのどちらかになってしまうようでやっかいです。まあ、これはどうしようもありません。
今のところ、普段からよく知っている近所では不要ですが、白杖を持っていたり持っていなかったりというのは不自然かと思い、なるだけ持つようにしています。
わたしとしては、一人で歩く時、段差で転びそうになったり、車止めにつまずいたりすることは日常茶飯事ですし、家の中では緊張感が足りないせいかあちこちぶつけて生活してきました。白杖を持たないことで批難されることもありましたが、見えにくいのだから危険なのが当たり前だという感覚だったので、周囲にアピールする目的だけなら持つ必要もないかと思ってきました。
ネットではどんな意見が見られるだろうかと検索してみると、白杖を〝持つ派〟〝持たない派〟の思いが出し合われていました。白杖を持つことで特別視されたり哀れみを受けるのがイヤだというオーソドックスなもの、自分の見え方に慣れていて必要性を感じないから持たないというもの、全盲者のふりをしているように思われるのがイヤだというものなどさまざまでした。そして、「白杖を持っているのに点字ブロックではないところをまっすぐ歩いている人を見た。〝視覚障害者を装った詐欺〟ではないか!」というようなものもたくさんありました。〝詐欺〟や〝インチキ〟といった声に対しては、弱視者が丁寧に解説しているものも見られました。進行性の緑内障の方が、やがては自分も視野の欠け方が大きくなると持たざるを得なくなるのですが・・・と、説明されていたのには質問者も「認識不足だった」と返答されていてほっとしました。また、視力はかなりあるのに、視野が5度という方が、「白杖を持たないと足下が確認できず歩けないけれど、視野に入るところは普通に見えるので、杖を持って本屋で立ち読みもするし、杖を持って映画も見に行く。もし、何か言われたらちゃんと説明できるように障害者手帳を常時携帯している。」と言うのがありました。わたしも視覚障害者団体と関わり始めたころ、白杖を持つ人にひじを貸して道路を歩いていたら、「次の交差点辺りに△△△って書いてある看板がありますよ。」と言われて驚きました。〝わたしには交差点どころか目の前の建物の看板さえ読めないのに!!〟と驚いてしまいました。初対面でしたのでいろいろ尋ねると、視力自体は1.2あるが視野は数%とのこと。会場に到着すると新聞を広げて読み出され、わかってはいてももう一度驚いてしまったものです。
わたしの場合、見え方にばらつきがあるように感じますが、両眼とも0.02とか0.03の視力なので、出掛ければ何かと不便でサポートが必要になります。白杖を持つと、その都度説明する煩わしさから解放されたり、段差か陰かはたまたデザインの配色か見分けのつかないところを自分で確認できたり、いつも危険と隣り合わせで怖かった道路の横断がずいぶんラクになったりとメリットもたくさん実感し、使っていこうと思いますが、視力や視野が普通にないけれど見えている弱視(ロービジョン)も白杖を持つことがあることを広く認識して欲しいと強く感じます。
久しぶりに出くわした夫の友人、わたしが目が悪いとはよくご存知でしたが、白杖を持っていたことに驚き、「嫁さん、見えなくなったのか・・・。」とわたしのいないところで言われていたそうです。夫はちゃんと説明してくれましたが、わたしと歩く時べったり介助しないといけなくなったような気がする・・・弱視も白杖を持たなきゃいけないとか言うのって誰も知らないし、そもそも弱視なんていう存在も知らない人がほとんどだし。」と言っています。
先に書いた、視力はあるけれど視野が狭いために白杖を持っている人が、「もし、何か言われたらきちんと説明する。」というのは本当に大事ですし、そういう人の地道な努力で正しい認識が広まるのだとは思いますが、それはあまりに時間がかかるし、個人では限界があるのではなかと思います。たとえば、公共広告機構などで、視覚障害者と言っても全盲だけでなく弱視が7割もいること。また、弱視にはさまざまな見え方があることを簡潔にまとめてCMにしてもらえたら、ずいぶん速く多くの人に周知されるのではないかと思います。
取り合ってもらえるのかはわかりませんが、働きかけてみましょうかね。
白杖を持っていないと外見上普通に見えているように見られるので、サポートをお願いするときに初めて弱視であることを伝え、驚かれたり不思議がられたり、説明しても望むサポートが受けられなかったりしました。白杖を持つと、見えていない人と思われ、常にサポートが必要だと思われて過剰なご心配をかけてしまうこともあります。やはり、弱視は中途半端に見えていて中途半端に見えていないので、見えているふりも見えていないふりもしたくないのですが、そのどちらかになってしまうようでやっかいです。まあ、これはどうしようもありません。
今のところ、普段からよく知っている近所では不要ですが、白杖を持っていたり持っていなかったりというのは不自然かと思い、なるだけ持つようにしています。
わたしとしては、一人で歩く時、段差で転びそうになったり、車止めにつまずいたりすることは日常茶飯事ですし、家の中では緊張感が足りないせいかあちこちぶつけて生活してきました。白杖を持たないことで批難されることもありましたが、見えにくいのだから危険なのが当たり前だという感覚だったので、周囲にアピールする目的だけなら持つ必要もないかと思ってきました。
ネットではどんな意見が見られるだろうかと検索してみると、白杖を〝持つ派〟〝持たない派〟の思いが出し合われていました。白杖を持つことで特別視されたり哀れみを受けるのがイヤだというオーソドックスなもの、自分の見え方に慣れていて必要性を感じないから持たないというもの、全盲者のふりをしているように思われるのがイヤだというものなどさまざまでした。そして、「白杖を持っているのに点字ブロックではないところをまっすぐ歩いている人を見た。〝視覚障害者を装った詐欺〟ではないか!」というようなものもたくさんありました。〝詐欺〟や〝インチキ〟といった声に対しては、弱視者が丁寧に解説しているものも見られました。進行性の緑内障の方が、やがては自分も視野の欠け方が大きくなると持たざるを得なくなるのですが・・・と、説明されていたのには質問者も「認識不足だった」と返答されていてほっとしました。また、視力はかなりあるのに、視野が5度という方が、「白杖を持たないと足下が確認できず歩けないけれど、視野に入るところは普通に見えるので、杖を持って本屋で立ち読みもするし、杖を持って映画も見に行く。もし、何か言われたらちゃんと説明できるように障害者手帳を常時携帯している。」と言うのがありました。わたしも視覚障害者団体と関わり始めたころ、白杖を持つ人にひじを貸して道路を歩いていたら、「次の交差点辺りに△△△って書いてある看板がありますよ。」と言われて驚きました。〝わたしには交差点どころか目の前の建物の看板さえ読めないのに!!〟と驚いてしまいました。初対面でしたのでいろいろ尋ねると、視力自体は1.2あるが視野は数%とのこと。会場に到着すると新聞を広げて読み出され、わかってはいてももう一度驚いてしまったものです。
わたしの場合、見え方にばらつきがあるように感じますが、両眼とも0.02とか0.03の視力なので、出掛ければ何かと不便でサポートが必要になります。白杖を持つと、その都度説明する煩わしさから解放されたり、段差か陰かはたまたデザインの配色か見分けのつかないところを自分で確認できたり、いつも危険と隣り合わせで怖かった道路の横断がずいぶんラクになったりとメリットもたくさん実感し、使っていこうと思いますが、視力や視野が普通にないけれど見えている弱視(ロービジョン)も白杖を持つことがあることを広く認識して欲しいと強く感じます。
久しぶりに出くわした夫の友人、わたしが目が悪いとはよくご存知でしたが、白杖を持っていたことに驚き、「嫁さん、見えなくなったのか・・・。」とわたしのいないところで言われていたそうです。夫はちゃんと説明してくれましたが、わたしと歩く時べったり介助しないといけなくなったような気がする・・・弱視も白杖を持たなきゃいけないとか言うのって誰も知らないし、そもそも弱視なんていう存在も知らない人がほとんどだし。」と言っています。
先に書いた、視力はあるけれど視野が狭いために白杖を持っている人が、「もし、何か言われたらきちんと説明する。」というのは本当に大事ですし、そういう人の地道な努力で正しい認識が広まるのだとは思いますが、それはあまりに時間がかかるし、個人では限界があるのではなかと思います。たとえば、公共広告機構などで、視覚障害者と言っても全盲だけでなく弱視が7割もいること。また、弱視にはさまざまな見え方があることを簡潔にまとめてCMにしてもらえたら、ずいぶん速く多くの人に周知されるのではないかと思います。
取り合ってもらえるのかはわかりませんが、働きかけてみましょうかね。