goo blog サービス終了のお知らせ 

ママは弱視 子育て日記

弱視ならではの視点での雑感ブログです
弱視をご存知の方にも そうでない方にも
気軽に読んでいただければと思います

思春期…

2013年04月10日 | 私について
大人になったわたし、協力的な夫はじめ相談できる友人知人に恵まれています。このことには、感謝してもしきれません。“喜びは共有すると倍増し、苦しみや悲しみは共有すると半減する”とよく言われますが、本当にそんな気がします。
でも、わたしが見えにくくなりはじめ、独り悩み暗くて長いトンネルにいた思春期も、決して天涯孤独だったわけではありません。わたしを大事に思ってくれる両親や兄弟、そして、それなりに友達もいました。なのに、日々の不安や将来を絶望してしまう気持ちを打ち明けることは誰にもありませんでした。“こんな気持ち、誰にも解ってもらえない。”と勝手に決めつけていましたし、楽しそうで明るい話題ばかりの友達の輪の中では、その輪を乱さないように同じような態度をとっていたように思います。
わたしに限らず、思春期の子どもとは例えば悩みがあっても他に助けを求めず抱え込んでしまったり、自分の境遇を嘆いてばかりで狭い世界でもがいたり、自分こそが悲劇の人と思いつつもそれを周囲に知られたくないというのか、いろいろな気持ちが混在していて、身近な大人には「両親や先生に相談してくれたら力になるのに。」と思われてもそれができない、理解し難い生き物なのかも知れません。それは知識も経験も乏しい未熟さ故と片付けられない、悩みやもやもや、イライラを抱えつつ、繊細でいてどこか投げやりと言うか怖いもの知らずと言うか、独特の感性で生きていたと思います。
今となっては、そんな世代に何が言えるかと問われても、ただありきたりに「世の中は広くいろいろな道があること、長い一生から見ればそんなすっきりしない時期もほんのわずかな時間に過ぎないことを知って欲しい。そして、自分自身を大切にし、二度と無い時間の貴重さに気付いて欲しい。」としか語れません。ですが、いくら大人が正論を語っても聞く耳を持てない、これもまた思春期独特の感情かも知れません。
もう一度自分のことを思い出してみると、“見えてはいても文字を読むのも大変。これでは勉強するのものろのろ。頑張って勉強したってテストも時間が足りない。普通に読んだり書いたり出来ないし人の顔も見えない。こんなので就ける仕事なんてない。それに、わたしが誰かを好きになったとしても、ハンディのある人間をわざわざ恋愛対象にする人なんていない。こんな人生、大変で辛い思いをし続けるだけで何の意味があるのだろう。終わりにできたらどんなにラクだろう。”という救いがたい思い込みから抜け出せずにいました。終わりにできたらどんなにラクかと幾度も幾度も思っていたのに終わりにせずにすんだのは、その時期を乗り切ったというより、何とかかんとかやり過ごすことができたと言った方がよいでしょう。ただ、わたしの中に両親がわたしのことを大事に思ってくれているという自覚は強くありました。あと、父が「自殺する人間は弱い人間。」と断言していたので、それに反発するような気持ちもありました。自分がどれだけ辛く将来を絶望しているかを両親に思い知らせたいと思う一方で、弱い奴だと思われるなんて侵害だと言う気持ちもあったのです。結局のところ、反発心を持てるだけの力が残っていたのでしょうかね。よくわかりませんが、メソメソしながらやり過ごしている内にそれなりの道が開けてきただけとも言えます。
思春期の自殺にはいろいろな理由があるでしょうが、何かしらの力が作用してしまう時に起こり、それはその時身近にいた人になら「止められる」というようなものではないと思います。その子が歩んで来たそれまでの時間は短いようでその子にとっては全てです。その中でどんなことを経験してきたかだと思いますし、生まれ持った気質もあるでしょう。同じような辛さを負っても、耐える子も逆に逆境をバネにする子もいますし、わたしのようにどうにかやり過ごす子もいます。
まだ何年も先ですが、やがては我が子も思春期を迎えるわけですが、親としてどう導くべきか明確な答えなど見つかりません。その時は、また親として共に悩むのでしょうね。


自分の見え方と目のこと

2012年02月15日 | 私について
先日の夕食時、左手に子どものコップを、右手に急須を持ってお茶をつごうとして、じゃあじゃあとこぼしてしまいました。食卓はもちろん、床や子どもの椅子とズボンまで少し濡れてしまいました。「ごめんね~!」と、言いながら、親がこんなハデにお茶をこぼすなんて普通の家庭ではなかなかないよね~」と、笑ってしまいました。全く見えない人なら、逆にもっと注意を払って慎重に上手につぐでしょうに、わたしと来たら、夫に「あ~っ!コップに入ってないよ~!!」と言われるまで、入っているように思い込んでいたというかそう見えていたというか・・・。
こんな風にお茶を注ぎ損ねることは珍しくないですし、その他にも、夫と2人で台所でお料理していて、まな板の上に夫の切った食材がのっているのに、まな板を洗おうとしてせっかく切った食材を流してしまったり、鍋に食材を入れようとしたら、フタがしてあってバラバラコンロにこぼしてしまったり、小麦粉のパッケージを意識的に確認したつもりが、お好み焼きの粉を使ってしまい、奇妙な味のナン(インドのパン)を作ってしまったり。挙げるとキリが無いほどの失敗の数々。どれもこれも思い込みというか、わたしの思い込みに従順な見え方をする目のせいだと思われます。「まな板の上に何もない。」と思っていると本当に何も無いように見えてしまいますし、お鍋のフタはとられていると思い込んでいると、フタが空いているように見えるのですよね。
視野の欠けている中心部分がもしも真っ黒だたとしたら、目の前がいつも一部分邪魔されている感じでストレスフルだと思うので、脳が常に適当に欠けた部分も自然に埋めてくれているなんてとっても有り難いことなのですが、わたしのような注意力に欠ける人間にはやっかいな時もあるのです。
ところで、今さらですが、わたしの目は錐体ジストロフィーと診断されています。簡単に言うと、視細胞には色や形(色覚と形態覚)担当の錐体細胞と、光(光覚)担当のかん体細胞があります。錐体は黄斑部と呼ばれる網膜の中心に集中して存在しているので、黄斑ジストロフィー(黄斑変性症)の一つです。かん体は黄斑部には少なく周辺部に集中しており、わずかな光でも感じることができますが、このかん体が傷害されると暗いところで見えない、いわゆる鳥目(夜盲)の症状や、視野狭窄(視野が狭い)になるそうです。
わたしのように明るいところで働く錐体が傷害されると、色覚と形態覚が普通でなくなるので、色の感度低下、視力低下、中心視野の欠損、まぶしさなどの症状が現れるようです。(素人知識ですのであしからず。)
わたしの場合、だいたいの色の見分けに問題は無いのですが、小さい面積、例えば口紅のサンプルや濃い色の見分け(黒、紺、茶など)が難しい時があります。面積が大きくても「このうすい緑のスカート」と話していたら、「それグレーだけど。」と教えられることもあります。そういえば、中学生の時、自分では色が見分けにくいなど全く自覚が無かったのに、色覚検査表を見せられ、最初のページのグレーに赤ははっきり分かるのに、その他はどれもこれもさっぱりでした。それよりずっと昔にわけなくできたことを覚えていたので、とてもショックだったと同時にできないことが不思議でした。
中心視野が欠けていることも、ドクターに「中心が見えないでしょ。」と言われてもピンと来なかったのですよね。でも、人と話してて「どこ見てんのよ。」といわれたり、自転車で走っていると急に人が現れたり車とぶつかりそうになったり、事故が無かったのが奇跡みたいです。
ちょっとした失敗は話のネタになるのでかまわないのですが、大事故につながらないよう、奇跡が続きますように!!



高校受験

2011年09月23日 | 私について
中学を出たら高校に行くものだと思うだけで、全然見えないわけではないので盲学校という選択肢があることを知りませんでした。(学校教育法によると、矯正視力0.3以下を弱視とし、盲学校での教育が受けられます。また、視力低下が見込まれるなどの場合は、その数値の限りではないようです。)当時のわたしの視力はすでに0.05以下だったので、十分その範囲で、進路指導の先生から親には盲学校への進学話しがあったそうです。それは随分後に知らされたことなのですが、「普通学校で学ばせてやりたい。」という両親の意向でお断りしたそうです。
公立高校に合格出来なければ、どこか学力レベルの低い私立高校に行かねばならないとだけ思っていましたが、内情はそんな単純なものではありませんでした。公立高校の受験にルーペや単眼鏡を持ち込む許可を得るために、教育委員会に毛筆書きの仰々しい要望書を提出したり、そもそも、受験させてもらうことから当たり前のことではなかったのです。現在なら、問題用紙の拡大や解答方法の選択(弱視にとってマークシート解答は困難)、試験時間の延長などの配慮がありますが、まだまだそのような時代ではありませんでした。教育委員会からの回答は、「受験してもかまいませんが、もし合格しても入学後も一切サポートはしませんので。」ということだったそうです。進路指導の先生が、「キリスト教の学校なら理解があるかも知れない。」と、ある私立高校に問い合わせて下さったところ、「ぜひ、うちの高校を受験して下さい。出来る限りのことはさせて頂きます。」との返答を校長先生自らして下さったそうです。私立校の校長でありながら、経営者である前に、宗教者・教育者としての姿勢を持たれていたのだと今さらながら改めて感心させられます。その私立高校は自宅から地下鉄、汽車、徒歩で一時間半ほどもかかる田舎にあり、不安も大きかったのですが、試験問階は拡大してあるし先生方がとても良くして下さって、ここで新たなスタートを切るのも一つの道なのかなと言う気持ちがわいてきました。ただ、どこの学校にも入れない学力の生徒、机に向かったことなんてほとんどないような生徒の受け皿的存在だったこともあり、派手で言葉遣いが乱暴な生徒達の集団のように見えました。実際同じ中学からもう一人だけ受験した生徒も、同じ学年で一番目立っていたような生徒でした。
一応、私立高校は滑り止めということで、教育委員会からのそっけない回答のことは露知らず、周囲の友達と連れだって受験しましたが、もちろん不合格でした。
まぐれにまぐれが重なって、もしも公立高校に合格していたら、ただのおちこぼれになっていたことでしょう。多人数クラスでどんどん取り残されて中退していたかも知れないと思うとぞっとします。
そんなこんなで、カトリック系の女子高校に入学することになり、素晴らしい先生方と海外留学のチャンスにも恵まれることとなったのです。
このような道が開けたことには感謝しても仕切れません。

中学時代 その3 (試験)

2011年09月21日 | 私について
もともとごく普通の成績でしたが、中学時代はひどいものでした。通知票はテストの点数に「まじめな生徒」ということで下駄を履かせて下さっていたのでしょうが、それでもアヒルがちょこちょこおりました。
いつの頃からか試験問題に目を通すことすらできなくなっていて、いつも後ろから解答し始めるようにしていました。長文問題からの出題順が多かったからです。試験のために母に何度も音読してもらった教科書の一部が出たとしても、「文中のア~オを・・・」とか「文中の(1)~(4)の・・・」などという問題が必ず出ます。何しろルーペで拡大した範囲の文字しか見えないので、文中の記号や数字を探すこと自体が難しかったのです。運良く見つけることができたら、自分なりに太く濃い鉛筆で印をつけるなどの工夫はしましたが、とにかく、「長文は論外」で、国語や英語はその他の問題を読んで解くだけでも時間が足りないのが普通でした。そして、図やグラフなどは全体が把握できず本当に苦手でした。時間が足りないくせに、試験を終えると、「もう何も読みたくない!!」という疲労感が強く、「もう少し時間が欲しい。」と言うような思いは全くありませんでした。「時間余ったよね~」とか「どの問題難しかった?」とか口々に話す輪には入っていけず、ただ耳を傾けるだけだったことを記憶しています。
特に、一枚レンズのルーペの倍率では教科書が読めなくなった中学三年生の終わり頃から、15倍の単眼鏡を使い始めたのですが、細かい字が読めるようになった反面、ほんの数文字しか視野に入らず文字を追うのに時間がものすごくかかったり、レンズ周りのゴムが目の下に当たって長時間使うと不快になったりで、「文章を読む」という行為そのものが億劫となりました。
すごく頭が良いとか、かなりの努力家ならいざ知らず、わたしのような生徒はその場しのぎで過ごしてしまったのですよね。ですから、成績が悪くても何の不思議もなく当然の結果だったのです。
今思うと、よく切り抜けたものだと我ながら感心してしまいます。
せっかくこういう経験をしたのだから、弱視でも普通学校で学んでいる生徒さんにどんなアドバイスができるだろうかと考えてみました。答えは、拡大読書器やパソコンの活用でしょうか。ルーペや単眼鏡は無理な姿勢での読み書きで効率が非常に悪いです。見やすい大きさや色に設定できる機器やソフトをフル活用して、少しでも無駄な疲労から解放されて欲しいですね。




中学時代 その2

2011年09月12日 | 私について
高校時代のことを書こうと思いましたが、もう少し書き足してからにしようと思います。
中学時代は視力低下についていけず、とまどうばかりでした。「こんなのも見えなくなったのか。」と、父に残念そうに言われるのもたまらなくイヤでした。「見える」「見えない」だけでなく「目」という単語でさえ、口にするのも耳にするのも避けたかったほどです。
母は教科書を音読したり新出漢字をマジックで書き出してカード帳にしてくれたり、父は教科書を拡大コピーしたり楽譜を大きな紙に見やすい色のマジックで書き写してくれたり、いろんなことでサポートしてくれていました。けれども、そのことに感謝する気持ちがわいてくることはその当時ありませんでした。「普通に見えたらこんなもの要らないのに。」と思っていたからです。
そして、いつものように京大近くのコピーセンターに教科書を拡大コピーしに行った帰り、父が感謝するようにというようなことを言いました。本当はそんな趣旨ではなかったのかも知れないのですが、わたしにはそう聞こえました。コピーの間、面倒かけるのがイヤだなという気持ちでしたが、有り難いとは思っていませんでした。何と返答したのか思い出せないのですが、父に刃向かうようなことは言いませんでした。心の中では、「好きで目が悪いわけじゃないし、拡大コピーしたからってルーペを使わないと読めないし、すらすら読めるようになるわけでもない。こんなのが何だっていうのよ。」と、ひねくれた感情がわいて来たことを覚えています。実際、一ページずつ分厚い教科書をコピーするのは手間もお金もかかったのですが、感謝のかけらもしていませんでした。罰当たりではありますが、それが本音でした。本音だからこそ、今でも記憶にあるのだと思います。甘い考えかも知れませんが、もしもそういう思いでいる子どもがいたら、わたし自身もそうであったのだから、その気持ちに寄り添うことはできます。未熟な者の未熟さはできた大人にはわからないと思うからです。
もう一つ、いつもお風呂や寝床でこっそり泣いていたこと、実は感情をコントロールして感情吐露し、自分が壊れないようにする術だったのだと思います。ある夜、少し離れて母と話していた時に思わず涙がこぼれました。母の視線も感じ、「あっ、気づかれたな。」と察知しました。気づかれたくないと思う反面、気づいて欲しい、弱音を吐かせて欲しいと言う思いが強くあったのです。でも、母は何もなかったかのように話を終えてその場を去りました。わたしは悲しくてたまらず、涙がどっとあふれてきました。母に「弱音は聞きたくないの。」と、突き放されたと実感したのです。このことでますます孤独感が強まり、暗くて長いトンネルに置き去りにされたような思いでした。そして、相変わらず独り泣いていたのです。大人になってやっと母にいろいろぶつけた時、「一度あなたの涙を見たけど気づかないふりをしたことがある。」と、言ったのです。まさしくあの夜のことだなとその時の情景が浮かびました。そして、「だからこそ、今の強いあなたがあるのよ。」と続けました。そうなのかも知れません。それが母の育て方だったのでしょう。でも、弱いわたしには辛い辛い記憶です。
これも甘いのかも知れませんが、わたしなら弱音を吐かせてあげたいと思います。
でも、今のわたしを否定しないなら、母のやり方も否定できないのですよね。ものごとのやり方はひとつではないし、まして我が子の育て方には誰もが迷いながら一所懸命だと思います。
長い年月を経た今なら、当時のサポートを有り難く思えます。
遅ればせながら、本当にありがとうございました。