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マツタコ

ヤプログが終了したので、とりあえず引っ越します。

帰省

2010-12-29 10:01:48 | おでかけ
今から京都へ帰ります。家で読めるようにいっぱい本をスキャンしたのですよ。それこそクラウドでどこでも読める。パソコンも持っていくけどね。大掃除は帰ってからにしよう。じゃあ行ってきます。


ノダさんフジさんホントごめんなさい

2010-11-23 19:06:27 | おでかけ
勤労感謝の日って新嘗祭の日やったんや。
知らんかった。農家やってる人は知ってるんやろうか。

さて、今日は1日K庵に行ってたのですが、なかなかおもしろかった。
午前中は庵の話をして、午後からは庭の話を聞きました。

樗堂さんは庵を建てて5年後に「庚申庵記」という文章を残しているのですが、
庵を建てた本人がどういう気持ちを持っていたかを書き記していて、
庵そのものも、建てられた場所に残っているのは、本当にスゴイことだと思います。
1800年に建てられた草庵ですよ。
そもそも、草庵でわざと粗末につくられています。部材もすごく細い。
樗堂さんは遺言として「三無益(さんむやく)」という文章も残していて、
それによると追善集も塚しるしも追善会も無用だと言ってるんですね。
草庵を後世に残したい気持ちなんてサラサラなかったと思います。
町方大年寄という立派なお役目についていた方ですが、
名誉欲のようなものもまったくなかった。
その上、当時の全国の俳句の番付に載っている人とはいえ、
子規にも評価されているとはいえ、研究者ぐらいしか知らなかった人です。
ものすごく名の知れた人たちの庵なら残るでしょうが、普通なら残りません。
その樗堂さんの庵がちゃんと残ったのは、本当に元所有者の方が大切にしてくださったおかげと、
庚申庵記という文を残し、本人は意図せずに、庵の価値、
すなわち樗堂さんの心を表している空間として、自らの記録によって立証してくれたからだと思います。

それでですね、今日面白かったのは、
木造の建築物って、地面からの湿気が大敵なんですね。
だから建物を守ろうとして、庵の下はもともとは土だったのに、
修復・復元したときに、全部、三和土で固めたんですね。
これは、建物を保護する、これからも残すという意味では正解なんです。

ところが樗堂さんのこの庵は、私は一言でいえば
文化サロンにしたかったと思っているのですが、
茶室とかと違って、縁側があるんですね。
縁側は人にも自然にも開いてる場所なんです。
だから、自然つまり庭があり、自然と一体となった空間をつくっています。
場所として、庭と庵は一体なんですね。

なので、庭はものすごく重要なのですが、
そこに樹齢200年以上のノダ藤がありまして、
毎年、1週間ほど見事に花を咲かせてくれて、私たしを楽しませてくれて、
私より全然年上やけど、カワイラシイやつなのです。
そいつが苦しがってるのですよ。庵の下を三和土にしちゃったせいで。

庵のすぐ脇に建ってるので、根が庵の下にもあって、庵との間が通路にもなっているのですが、当然そこにも根があって、なのに三和土が上にある。
だから根っこが柔らかい地面を求めて、あっちこっちへ。
根っこの先っちょから栄養を吸うらしいので、
肥料をやってる場所を聞いてビックリしましたよ。
そんなとこまで栄養を探して出向いて行ってるのか。
本当に申し訳ない。

それから、木というのは、根っこのある土を踏まれると、
すごく痛いらしいのです。
とくに人が歩くと、全体重が片足の足の裏にかかるわけですから、
ハイヒールで踏まれたみたいな感じなわけですよ。
だから、飛び石の上を歩くだけでも、直接歩くよりはだいぶん楽らしいのです。

木はあたりまえだけど、生きてるんですよね。
だから、木造住宅も生きてはいるんだけど、
やっぱりね、現役の木々の方を大切にしたいですよね。
たぶん、ノダ藤さんは本当に痛い思いをしてるだろうから。

それと、藤ってね、びっくりするぐらいに手間がかかるみたい。
それだけ愛情を注いでやらないと、きれいに咲いてくれない。

藤の花の天ぷらの話と、藤の若葉がお茶になるって話を聞いて、
売れないかな、って思っちゃった私は金欠病。
でも、藤の花の天ぷらを楽しむ会、とかって面白そうじゃないですか。
お腹こわされたら困るけどね。


五重塔

2010-11-19 23:21:03 | おでかけ
さて、興福寺の特別公開に先週行ってきました。
まず、五重塔の初層に入ったのです。
興福寺の五重塔は50.1mあって、京都の東寺の五重塔に次ぐ高さなのだそうです。東寺の五重塔も電車乗ってたら見えて、本当にランドマークだもんね。むかし、興福寺の五重塔の基壇に座って食べた焼き芋がおいしかったのを今でも覚えてますわ。

初層の真ん中には、塔の先端まで伸びている心柱がありました。
中世以降のものは、二層目から心柱が出てるのも多いんだけど、
ここは1426年に再建されたものではあるけど、興福寺自体は8世紀の天平時代の創建。日本の建築って、再建するときに、構造強化などの理由では新しい技術を入れたりするんだけど、姿をできるだけ元の姿でつくるんですよね。これも六代目なのにほぼ創建当時の姿なのです。

この考え方って唯一神明造の伊勢神宮の式年遷宮が有名ですよね。20年ごとに隣の敷地にまったく同じ姿で材料だけ新しいものにして遷宮するのが式年遷宮。1993年に第61回の式年遷宮が行われたので、次回ももうすぐですね。

さて、再建の興福寺の五重塔も昔の姿にならって古代風に初層のまださらに下から心柱が建ってます。
軒下を見えるようにしてくれてて、そこから心柱が心礎という礎石の上に軽く建ってるだけなのを見れました。
この下に仏舎利(お釈迦様の焼骨のこと)が納められてるそうです。
つまり、心柱は塔の真ん中をてっぺんまで貫いているのだけれど、建物を支えてるわけじゃないんです。
法隆寺の五重塔なんか、心礎が地下にあるから、心柱の下の方は腐ってたらしいですからね。
それでも、しっかり建ってますから。

そして、心柱を囲んで東西南北それぞれの方向に仏さんが安置されています。東が薬師三尊像、南が釈迦三尊像、西が阿弥陀三尊像、北が弥勒三尊像。ちなみに入口は西を向いてます。
この仏さんたちは、創建当初の時代の伝統を受け継いでるとのことですが、大きくなくてずいぶん素朴な感じの仏さんたちでした。

私は五重塔の初層では、法隆寺の五重塔が好きです。他のを知ってるわけではないけれど、ここは東西南北の各面に「塔本四面具」と呼ばれる塑造の群像が安置されているんですが、その白くて生々しい感じが好きなんです。東は「文殊菩薩と維摩居士の問答(維摩方丈)」、南は「弥勒の説法(弥勒浄土)」、西は「分舎利」、北は「釈迦涅槃」、釈迦の入滅を悲しむ羅漢たちの表情や姿が生々しくって好きです。

興福寺の五重塔の仏さんたちはおとなしい感じでした。
長くなったので、もう一個見た東金堂はまた今度。


夕方からは神輿落とし

2010-10-10 20:40:55 | おでかけ
さて、火事まつりの後半戦は国津比古命神社での階段落ちです。
4時半から宮入りがはじまるのですが、境内は人でいっぱい。
そこに大きな屋台が入ってきます。
境内にいた人はみんな脇の方へ逃げます。


そのあとは1台ずつ神輿が鳥居をくぐり、階段の上へ。


階段の上から、神輿を下へ落として、壊すのです。


1回で壊れるわけもなく、


何度も壊れるまで、上に引き上げられて壊します。


そして、御神体が出たら、それを奪い合って、誰かが奪ったら終了。
全部で4つの神輿が壊されてました。

もっと、音がすごいのかと思ってましたが、そうでもなく、
もっと、破片が飛び散るのかと思ったらそうでもありませんでした。
でも、なかなかの見ごたえでしたよ。

あんまり、はげしい祭りって見たことなくて。
京都って葵祭りとか祇園祭りとかも静かやし、
周りの人が「もっとケンカしろ、やる気ないんか」みたいな雰囲気やったんが新鮮でした。


朝はやくから祭り

2010-10-10 05:51:25 | おでかけ
あたいは今から寝るのさ。今朝?は2:50起きで、風早まで火事まつりの宮出しを観に行ってきたのです。


小学校に屋台が終結して、正岡地区の人が総出で、みんなハッピを着てて、
普通なら提灯のぶらさがってるところが、ネオンになってる屋台もあって。


桜っぽく見えるでしょうが、近くでみると、白地に赤の紙が大量についてるんですよ。
白と赤を混ぜるとピンク。


ところがカメラのデータ容量がいっぱいになり、大した写真が撮れなかったのでした。
夕方の宮入りで、今度は階段の上から、屋台を落として壊すってやつを観に行きます。

さっ、まず寝よう。
あっ、朝に買ったいろはすの温州みかん味の水。おいしかった。
前にも言ったけど、これはいいわ。