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マツタコ

ヤプログが終了したので、とりあえず引っ越します。

経営者の話

2010-11-08 23:45:59 | 地元の話
今日は面白かった。いろんなお店を訪問して経営者の方にお話を聞いたのです。
中小企業診断士の先生が、中心に聞いてくださったので、気楽にためになるお話を聞けてラッキーでした。

印象的だったのは、どこも儲けることよりも、自分が大切に思うことを仕事を通してやっていこうとしていること。
とくに地元や人を大切にしている人が多い。
そして、先をちゃんと見据えて今をがんばっている。
あと、やっぱ今の世の中はみんなお金を使わなくなってるみたいで、厳しいらしい。

行ったのは、4件。みなさん、いい方たちでした。
明治28年創業の酒屋。酒造で発売してるすべてのお酒が試飲できる店舗です。アルコールの化粧水も。
一味ちがったこだわりの旅館。砥部焼の作家さんたちがデザインしたお部屋が売り。朝一番の採れたて野菜を朝食に。
こだわりの珈琲が売りのコミュニティカフェ。大きなテーブルに人々が集うことが目標。
ナチュラル感いっぱいの雑貨屋。什器もてづくりで、ディスプレイ次第で売れるものも変わってくるそうです。

あっそうそう、スタバはカフェではないらしいです。
あれは喫茶店で、喫茶店というのは、イギリスのパブからアルコールを提供しないコーヒーハウス、ティーハウスになったものが発祥らしいです。
カフェは、たしかフランスですよね。文化人たちの集うサロンが発祥だと思う。
お店の人は、アルコールの提供があって、交流があるのがカフェだと言っておられました。


実物大の模型

2010-10-26 23:56:06 | 地元の話
今日から急に寒くなっちゃいましたよね。
もう、おこた出したいんですけど、いいかなあ。
さむい、さむい。
で、今日はK庵に会議で行ってたのですが、
「伊予松山三庵めぐり」って小冊子と「連句が語る一茶と松山」っていう本をK庵から出版しました。
なかなかよいですよ。両方とも。でも、売って資金を回収しないといけないので、大変なんですけどね。
三庵のひとつ愚陀仏庵は、7月の大雨でつぶれちゃったので、再建の話しが出てるのですが、本来、漱石と子規が過ごしていた場所とは、まったく違うところに建とうとしてるんです。これはいけませんねえ。実物大の模型ならもうすでに子規博の中にあるしね、同じものを縁もなり場所に、そんな大金を出して、建てるべきじゃないですよ。本来あった場所に建てるなら別だけどね。
漱石も子規も色街に住んでたことに知らない間になっちゃったら、あの世でビックリだわ。
(注:漱石と子規が住んでいた愚陀仏庵は町中にありました。決して色街ではありません。)

さて、明日の朝のための準備物を一部、職場においてきてしまったので、
今日は、今から議事録作成いたします。半分は会議しながら打ってるんだけど、さすがに会議中に完成はさせられないので。


勉強になった話

2010-10-13 23:53:45 | 地元の話
今日は夜にNPOと企業の協同についての会議がありまして、県内の事例をいろいろピックアップしてました。
私はあんまり情報を持ってないんだけど、みなさん、くわしいくわしい方ばかりなので、すごく勉強になりました。

まあでも、環境問題系とか福祉系とかが、やっぱり話題にもなりやすいし、関わりやすいのかなあ。
そんなんが多かった気がする。
地元のまちの魅力の掘り起こしに関する企業との連携みたいなんないかな。
それだと、観光になっちゃうのかな。
企業のCSR活動から調べてみるとおもしろいかも。

で、その会議の後に、別の話で、
防災訓練を地域の人を巻き込んで行っている小規模の高齢者施設(宅老所・グループホーム)の話になりまして、
昨日話してた防災マップにも災害弱者の方をみんなで守る「福祉のページ」がつくれたら本当にいいなあと思いました。


人はすぐ忘れる

2010-10-12 20:29:09 | 地元の話
さて、今日は防災マップのワークショップに行ってたのですが、
「人ごと」を「自分ごと」にするのが目標のひとつなんです。

むずかしいですよ、この目標。
災害なんて、自分の命に関わることでも、
しばらく何も起こらないと、すぐに人は忘れちゃうんですよね。
静岡県って防災対策はやっぱりすすんでるんだけど、
それでも、もう30年も同じことを言ってて、何も起こらないと、
どうしたって、何も起こらないだろう、って思ってしまうんです。

これって、定期的に新しい刺激で、思い出すしか仕方がないですね。

災害が起こったときに、自助・共助・公助の割合って7:2:1になるらしいです。
それだけ、自力とご近所の力が大事なわけなんですよね。
だから、自分が災害から身を守る知識を持って、
いろんなことを自分で判断できるようになっておく必要があるんですが、
そのためのガイド冊子をつくろうとしてるんです。

ご近所のチカラってのは、自分のためにってだけじゃなくて、
ご近所の災害弱者の人のためにも、ってことですよ。

今、地域のコミュニティが壊れてしまってるから、むずかしい、というのではなくて、
だからこそ、「災害にみんなで立ち向かおう」という共通の目的を武器にして、
コミュニティを復活させる、ってきっかけにもなると思うんですよね。
いいものができるといいな。


「活船」なんて読むか

2010-09-05 23:15:47 | 地元の話
報告書を書くのに、安居島のことをいろいろと調べてたのですよ。
分担したうち、一番小さい島からやろうと思ったんだけど、思ってた以上にいろいろ出てくる。
言っちゃ悪いが、斎灘にポツンとある島で、平地は少ないし、おいしいヒジキは採れるけど、現在は隠居島みたいな島なんですよ。
なんで、こんなところ開発したんだろう?って不思議だったのです。
で、中島を調べたときにも出てきたんだけど、たいてい無人島がその所領をめぐって争うのって、島の藻場としての価値と、その近海の漁場なわけです。藻は江戸時代には農業のための貴重な肥料だったので。
でも、それだけなら開発までする必要ないでしょ。だけど、やっと松山藩領として決着がついたその島も誰かが見張ってないと、すぐに規則は破られて、権利のない者が勝手放題してしまうわけです。それだけ生存競争も厳しかったんでしょうね。

そこで、当時の代官が考えたのが、番人代わりに島を開拓して定住してくれる人の募集。
で、それにノッタ3人が最初に島を開拓したわけです。1人は農民で、2人が漁民かな。
帆船の時代には、それまでも、島影に緊急避難するような島であったから、そこに港ができたことで、その後、風待ち・潮待ちの港として大発展するんです。お約束の遊郭までできて。
その後も明治・大正頃は、韓国と交易したりしてて、結構、グローバルなんですよ。
最初のうちは韓国のあたりで取れた「活魚」を、そのまま阪神へ運んだりしてね。
それを「活船(なません)」って呼ぶんです。
そんだけ、魚にはお世話になってるから、島の神社には魚霊塔があります。漁村でときどき見かけますよね。

今は、どうみても老人の島なのに、不思議なもんだ。