adobe嫌いって言ってごめんなさい。
今日の技術サポートの人はとってもわかりやすく
対応してくれて、やっと使えるようになりました。
まだ一部なんですけどね。
さて「坂の上の雲」の第3話。90分はやや長い。
しかし、なによりも気になったのは。
多美さんの「生きて帰ってきてください」
に対する一部の人たちの反応。
父がメールを送ってきました。
「明治27、28年戦争」っていう碑が、昔、近所に建っていたって。
私は、島に行ってはじめてみました。
「明治廿七八年戦役」「明治丗七八年戦役」
って言葉が石に刻みこまれてるのを。

27-28年は、日清戦争のこと。
37-38年は、日露戦争のこと。
軍人さんのお墓はてっぺんに四角錘みたいなのが
のったみたいなスタイルなのもはじめて知りました。

このお墓の横に「明治丗七八年戦役」は刻まれていました。
そして、最後には「陸軍省」の文字も。
ああ、確かにそういう時代があったんですね。
墓の側面には、これこれの年に軍隊に入って、
栄誉ある戦死をしたようなそんな記述もありました。
「栄誉ある戦死」
だから、一部の人たちは、違和感を覚えます。
「生きて帰ってきてください」という多美さんの言葉に。
明治半ばのこの時代に、旗本の、武士の娘である多美が、
「お国のために頑張ってきてください」とは言ったとしても、
現代人の感覚で「生きて帰ってきてください」とは、
言わないだろう、そこが時代を表わしてなくて残念だ、
って、結構断言されてる方が多いんです。
そして、それは、そういう感覚をもった現代人にも
わかりやすく見せるためだとしたら、残念だ。とも。
うーーーん、どうだろう。
太平洋戦争の時代なら、
大人は公道に立って「生きて帰ってきてください」とは、
言わなかったでしょうね。それこそ非国民。
でも、親であったり恋人であったりは、
「生きて帰ってきてください」と心では思っていたと思う。
「死」すらよくわからない子どもたちは、
兵隊さんや栄誉ある戦死に憧れたりしたかも知れませんが。
現代も、太平洋戦争の時代も、
明治も後半に入ってくる、この時代も、
大人たちが思う「生きて帰ってきてください」という
気持ちは、きわめて自然な感情だと思う。
愛する人が戦地に赴き、生まれてくる子供は
父の顔を一度も見ることはないかもしれない。
明治のこの時代は、
「お国のため」と「自分のため」は、
太平洋戦争の時代よりは、ずっと密接だったと思う。
「お国のためにがんばって」が自然なら、
「生きて帰ってきて」も自然だったと思う。
それでも「生きて帰ってきて」という言葉は、
思っていても、口に出さない類のものだったかも知れない。
そもそも、妻が外の仕事のことに口を出すことは、
なかったかも知れない。
でもねえ、わかんないんですよ。実際、どうだったかなんて。
それでも多美さんは言ったんです。
ガマンして抑えてたけど、やっぱり言ったんです。
ガマンしても、自然に涙がこぼれてしまうように。
それは健全な精神だと思います。
だから、この時代はこういうものだ、っていう
意見はわかりやすいんだけど、
今だっていろんな人間がいるのに、
そんなに単純に言い切っていいのか、って
いつも疑問に思う。
ただ、自分が論を組み立てるときにも、
類型化して典型で語るしかないんだけれども。
ところで、島では「戦捷凱旋紀念碑」も多くありました。

でも、この記念碑、真ん中に線が入っているでしょ。
いっときは、半分に割れて、道端にうちやられてたんです。
で、ずっと放置されてたのを、心ある人たちが修復した。
でも、その意味さえ知らない人だって島には住んでる。
今日の技術サポートの人はとってもわかりやすく
対応してくれて、やっと使えるようになりました。
まだ一部なんですけどね。
さて「坂の上の雲」の第3話。90分はやや長い。
しかし、なによりも気になったのは。
多美さんの「生きて帰ってきてください」
に対する一部の人たちの反応。
父がメールを送ってきました。
「明治27、28年戦争」っていう碑が、昔、近所に建っていたって。
私は、島に行ってはじめてみました。
「明治廿七八年戦役」「明治丗七八年戦役」
って言葉が石に刻みこまれてるのを。

27-28年は、日清戦争のこと。
37-38年は、日露戦争のこと。
軍人さんのお墓はてっぺんに四角錘みたいなのが
のったみたいなスタイルなのもはじめて知りました。

このお墓の横に「明治丗七八年戦役」は刻まれていました。
そして、最後には「陸軍省」の文字も。
ああ、確かにそういう時代があったんですね。
墓の側面には、これこれの年に軍隊に入って、
栄誉ある戦死をしたようなそんな記述もありました。
「栄誉ある戦死」
だから、一部の人たちは、違和感を覚えます。
「生きて帰ってきてください」という多美さんの言葉に。
明治半ばのこの時代に、旗本の、武士の娘である多美が、
「お国のために頑張ってきてください」とは言ったとしても、
現代人の感覚で「生きて帰ってきてください」とは、
言わないだろう、そこが時代を表わしてなくて残念だ、
って、結構断言されてる方が多いんです。
そして、それは、そういう感覚をもった現代人にも
わかりやすく見せるためだとしたら、残念だ。とも。
うーーーん、どうだろう。
太平洋戦争の時代なら、
大人は公道に立って「生きて帰ってきてください」とは、
言わなかったでしょうね。それこそ非国民。
でも、親であったり恋人であったりは、
「生きて帰ってきてください」と心では思っていたと思う。
「死」すらよくわからない子どもたちは、
兵隊さんや栄誉ある戦死に憧れたりしたかも知れませんが。
現代も、太平洋戦争の時代も、
明治も後半に入ってくる、この時代も、
大人たちが思う「生きて帰ってきてください」という
気持ちは、きわめて自然な感情だと思う。
愛する人が戦地に赴き、生まれてくる子供は
父の顔を一度も見ることはないかもしれない。
明治のこの時代は、
「お国のため」と「自分のため」は、
太平洋戦争の時代よりは、ずっと密接だったと思う。
「お国のためにがんばって」が自然なら、
「生きて帰ってきて」も自然だったと思う。
それでも「生きて帰ってきて」という言葉は、
思っていても、口に出さない類のものだったかも知れない。
そもそも、妻が外の仕事のことに口を出すことは、
なかったかも知れない。
でもねえ、わかんないんですよ。実際、どうだったかなんて。
それでも多美さんは言ったんです。
ガマンして抑えてたけど、やっぱり言ったんです。
ガマンしても、自然に涙がこぼれてしまうように。
それは健全な精神だと思います。
だから、この時代はこういうものだ、っていう
意見はわかりやすいんだけど、
今だっていろんな人間がいるのに、
そんなに単純に言い切っていいのか、って
いつも疑問に思う。
ただ、自分が論を組み立てるときにも、
類型化して典型で語るしかないんだけれども。
ところで、島では「戦捷凱旋紀念碑」も多くありました。

でも、この記念碑、真ん中に線が入っているでしょ。
いっときは、半分に割れて、道端にうちやられてたんです。
で、ずっと放置されてたのを、心ある人たちが修復した。
でも、その意味さえ知らない人だって島には住んでる。