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マツタコ

ヤプログが終了したので、とりあえず引っ越します。

明治27・28年戦役

2009-12-18 23:45:05 | 坂の上の雲
adobe嫌いって言ってごめんなさい。
今日の技術サポートの人はとってもわかりやすく
対応してくれて、やっと使えるようになりました。
まだ一部なんですけどね。

さて「坂の上の雲」の第3話。90分はやや長い。
しかし、なによりも気になったのは。
多美さんの「生きて帰ってきてください」
に対する一部の人たちの反応。

父がメールを送ってきました。
「明治27、28年戦争」っていう碑が、昔、近所に建っていたって。

私は、島に行ってはじめてみました。
「明治廿七八年戦役」「明治丗七八年戦役」
って言葉が石に刻みこまれてるのを。


27-28年は、日清戦争のこと。
37-38年は、日露戦争のこと。

軍人さんのお墓はてっぺんに四角錘みたいなのが
のったみたいなスタイルなのもはじめて知りました。


このお墓の横に「明治丗七八年戦役」は刻まれていました。
そして、最後には「陸軍省」の文字も。
ああ、確かにそういう時代があったんですね。
墓の側面には、これこれの年に軍隊に入って、
栄誉ある戦死をしたようなそんな記述もありました。

「栄誉ある戦死」
だから、一部の人たちは、違和感を覚えます。
「生きて帰ってきてください」という多美さんの言葉に。

明治半ばのこの時代に、旗本の、武士の娘である多美が、
「お国のために頑張ってきてください」とは言ったとしても、
現代人の感覚で「生きて帰ってきてください」とは、
言わないだろう、そこが時代を表わしてなくて残念だ、
って、結構断言されてる方が多いんです。

そして、それは、そういう感覚をもった現代人にも
わかりやすく見せるためだとしたら、残念だ。とも。

うーーーん、どうだろう。
太平洋戦争の時代なら、
大人は公道に立って「生きて帰ってきてください」とは、
言わなかったでしょうね。それこそ非国民。
でも、親であったり恋人であったりは、
「生きて帰ってきてください」と心では思っていたと思う。

「死」すらよくわからない子どもたちは、
兵隊さんや栄誉ある戦死に憧れたりしたかも知れませんが。

現代も、太平洋戦争の時代も、
明治も後半に入ってくる、この時代も、
大人たちが思う「生きて帰ってきてください」という
気持ちは、きわめて自然な感情だと思う。
愛する人が戦地に赴き、生まれてくる子供は
父の顔を一度も見ることはないかもしれない。

明治のこの時代は、
「お国のため」と「自分のため」は、
太平洋戦争の時代よりは、ずっと密接だったと思う。
「お国のためにがんばって」が自然なら、
「生きて帰ってきて」も自然だったと思う。

それでも「生きて帰ってきて」という言葉は、
思っていても、口に出さない類のものだったかも知れない。
そもそも、妻が外の仕事のことに口を出すことは、
なかったかも知れない。
でもねえ、わかんないんですよ。実際、どうだったかなんて。

それでも多美さんは言ったんです。
ガマンして抑えてたけど、やっぱり言ったんです。
ガマンしても、自然に涙がこぼれてしまうように。
それは健全な精神だと思います。


だから、この時代はこういうものだ、っていう
意見はわかりやすいんだけど、
今だっていろんな人間がいるのに、
そんなに単純に言い切っていいのか、って
いつも疑問に思う。
ただ、自分が論を組み立てるときにも、
類型化して典型で語るしかないんだけれども。


ところで、島では「戦捷凱旋紀念碑」も多くありました。


でも、この記念碑、真ん中に線が入っているでしょ。
いっときは、半分に割れて、道端にうちやられてたんです。
で、ずっと放置されてたのを、心ある人たちが修復した。
でも、その意味さえ知らない人だって島には住んでる。


松山青空フィズやら

2009-12-15 23:19:17 | 坂の上の雲
さて、夜の道後に行ってきました。
道後ビール(漱石とマドンナと坊っちゃんがあります)もおいしかったんですが、
地元の食材なんかとコラボした変わったフィズがいっぱいあって、
子分Aは、松山青空フィズかなんか、ブルーベリーの入ったビール頼んでました。
私もチョコレートフィズを頼んでみました。意外とおいしかった。


あと、トマトとかスイカとかいろいろありました。
2品ほど、注文と違うのが出て来てしまいましたけど、
ごはんもおいしかったんで、よしとしときます。

で、その店のすぐ前がこの建物。

「坂の上の雲」では秋山真之が父と温泉に浸かってましたが、
当時は道後湯之町は独立した町で、
町長は伊佐庭如矢(いさにわ ゆきや)という人。
この方が、古くなっていた道後の温泉を建て替えたんです。
お金がかかるなどの反対派の意見を抑えて。

それが先日書いたように、明治27年竣工の明治28年の春にオープンした、
現在の和風3階建で、てっぺんに赤いギヤマンが目立つ振鷺閣を持つ
道後温泉本館です。


だから、ドラマで真之と父が入ったときには、この建物はまだできてなかった。
でも、漱石は明治28年に松山にいたので、まさしくこの建物に訪れてるんですよね。
入口の軒唐破風のところに湯玉がついてるのわかります?
私、この湯玉ちゃん、好きなんですよ。
あっちこっちにデザインとして使われてるの。大好き。

で、撮影に使われた「神の湯」っていう一般庶民の入るお風呂はこのときに建てられてます。
その5年後に身分の高い人用の霊の湯とか皇室の方用につくられた又新殿とかが、
つくられて、さらに時を経て、事務所棟みたいなのが増築されて、
今のような複合的な建物になってるんです。


元気な長電話

2009-12-13 22:53:49 | 坂の上の雲
20時から普通に「坂の上の雲」を見ていたのですが、
途中で、今日、昼間にFAXを入れていた方から電話が来ました。

なので、また今から3回目の「坂の上の雲」をつけております。
何回見るの?わたし。それも全部中途半端に(笑)
道後温泉外観は撮らなかったのかな?
これ、何年の話かな?
確か、明治28年(1895)に今の道後温泉本館の建物は建てられたんですけどね。
夏目漱石が松山に英語の教師で赴任したのがちょうど明治28年です。

で、さっきのその電話、長くはなったのですが、
すごい充実した電話になりました。
何より、「坂の上の雲」じゃないですけど、
やる気に満ち満ちているんです。
離島の方なんですけどね。

今日は、昼間は島の調査の打ち合わせとまとめをしていて、
マップもイラストレーターとか使わずにやる方法を考えて、
それをやってたのですが、そのときには、
島の地域資源の活用策について、
高齢化もすすんでるし、わりと暗い話をしてたのです。
まあ、実際、その電話の主の島も高齢化率7割です。

でも、さっきの電話で、
「島も全然捨てたもんじゃないじゃん」って気に
すごくなりました。
単に、私がとっても単純なだけではあるんですけどね。

島の自給自足の生活って、
以前にも書いたと思うのですが、
結構、これからの時代、ひとつの生活スタイルだと思うんです。
電話の方は、それを楽しく実践されている方だったので、
こういう生き方、そして稼ぎ方をに共感する人たちが、
島にもっと戻ってきて住めばいいのに。
って思いました。

そんな生活の仕方があることすら、
都会人の人たちは知らない。
あっ、そういえば、松山は都会でもない田舎でもない
中途半端って考えている人が多いんですよね。
私はそのゆるさが好きですけどね。
都会にも行きやすいし、田舎にもすぐ行けるし。

つまり、物事は捉え方次第でして、
「離れている島であることの強み」を
積極的に評価したいよなあって思いました。

みかん畑の邪魔者である山ブドウの木。
山ブドウをジャムやソースのような加工品に変えて、
その方は商品にしておられるんですが、
島の人たちの常識でいうと、
わかめも、ひじきも、あおりイカも、かたくちいわしも、
みんな採るんだけど、売るためじゃなくて、
自家用であったり、親戚や知り合いへの進物用なんだそうです。

それでこないだ聞いた話を思い出したのですが、
知り合いが島に行ったら、イカがおいしそうに干してあって、
これがぜひ欲しいと、10月か11月に行ったときに、
買いますから譲ってくださいと言ったら、
売り物じゃないから、と1つも売ってくれなかったのだそうです。
その話をすると、10月・11月のあおりイカは柔らかくておいしくて、
そりゃ、知り合いとかにあげなきゃいけないのにくれないわ。って。
でも、仲良くなればくれるよ。って。

そうでした。そうでした。
島の人にいろいろとたずねて歩いてたら、
こないだもみかんでいっぱいになったもんな。

その方が子供だった頃の海や砂浜には、
もう戻ることはできません。
島に戻ってきたときに一番ショックだったのは、
昔の美しい風景がなくなっていたことだったそうです。

砂浜に打ち寄せる波の音は、とても優しかったといいます。
今は、コンクリートの護岸工事によって、
波の音は壁にぶちあたる轟音になってしまった。

この島、1972年のナショナルジオグラフィック誌で、
「神の住む島」として紹介されたんだそうですが、
その頃は白砂青松だったのが、
その後の高度経済成長時の価値観の中で、
海はコンクリートにより、砂がなくなり、
魚が卵を産みつけていた「あまも」が減って、
さらに乱獲や海水温の上昇もあって、
魚はどんどんいなくなってしまったのだそうです。

あっ、長電話並みに長くなった。
つうことで、好古の結婚の話になったので。
テレビに集中いたします。

「今は言えんがね」ってじらしすぎ(笑)


明治を支えたのは普通の人々

2009-12-13 19:05:13 | 坂の上の雲
帰ってきて、テレビをバチバチ変えてたら、
「えっ、松さん」
あれ、もう坂の上の雲やってるの?
って思ったら、BS-hiでした。
今日だけで、3回も放送するんやねえ。
びっくりした。

で、今、途中から見てるわけですが、
私、臆病で平和主義者の伊藤博文は好きです。

で、同じ貧乏人の出でも山縣有朋は嫌いです。
その嫌いな感じがうまーく演じられてました。

たみさん、よかったよ。
軍人さんの奥さんというのは、大変やねえ。
気持ちがしっかりしてんとあかん。

「坂の上の雲」がいいのって、
明治の時代を支えたのは、総理大臣とか元帥とか、
そんなエラーイ人ばっかりじゃなくて、
一平卒であったり、それを支えた家族らであったり、
普通の人たちだってとこにあるんじゃないかなあ、
って気がしました。
途中からしか見てないけど。

「坂の上の雲」はそういう普通の人たちが、
この国を動かす自分もその礎になろうという
そういう気持ちによって、
坂の上の「一朶の雲(いちだのくも)」を目指すように、
将来を夢見たところがイイんだろうね。

さて、20時からはちゃんと最初っから見ようっと。


四隅に押しピンの穴

2009-12-07 23:47:35 | 坂の上の雲
本日は夜の会議が遅くなってしまいました。
終わりかけの頃は、お腹がへってへって。
さっき、遅いけどやっと夕食にありつきました。

会がはじまる前に
ドラマ「坂の上の雲」について雑談してたんですけど、
律が真之を追いかけて走った距離がおかしいって話に。
子規の家のあった中の川通りから、
船の出る三津までずっと走ったことになってるけど、
そんな距離じゃないんですよね。
それに屋根付き橋は、愛媛県ではあるけど、
あれがあるのは松山じゃなくて、内子だし。

って、感じで、つっこむつっこむ。

ドラマなんだし、まあいいわけですが、
つっこみが面白いのでありました。

なんか子規のシーンで、押しピンで四隅をとめた何か
が出てくるシーンがあるらしいんです。
何か子規が書いたものだとは思うんですが、
現存しているものの四隅にちゃんと押しピンの穴があるらしい。

ある方がそのシーンを予告で見たらしくって、
そういうところまでちゃんと勉強してつくっているのは感心する。
ってなことをおっしゃってました。

なんか、最後のクレジット見てたら、
宮尾登美子先生も入ってる諮問委員会みたいなんがあるみたいだし、
作り手たちは、大変なことだったでしょうね。
でも、私の周りでは大変評判がいいです。
何よりも「見やすい」し。