医療と適当に折り合いをつける内科医

医師国家試験浪人後の適当な医療を目指す内科医を追います

薬は誰のために飲むのか

2008-01-25 20:07:59 | 日記
という問いを立てたときに、「え、自分のために決まってんじゃーん」と思っていた皆さん、いかがお過ごしですか。久しぶりの文章なので幾分和歌山弁がはみ出してきそうで心配な今日この頃ですが何とか生きて腎臓内科をやっております。

 かくいう私も薬はその患者さんのために出すものであり、自分のために飲むものだと去年の中ごろまで思い込んでいたのですが、透析患者さんたちに大量の薬を出すごとにどうも違うのではないかと、密かに思い始めたわけなのです。結論から言いますと、「薬は周りの人に迷惑をかけないために飲む」ものだったのです。なぜ今のタイミングになってそんなことを言い出すかといえば、この密かな思いに賛同者が突然現れたからなのです。それもあのみうらじゅん大先生と聞けば誰もが納得の話じゃぁないですか。私だってそんな気はしていたのですが、これがまた賛同していただけない気がして言い出せないところ。さすが大先生です、堂々と著作物に述べられてありました。これで私も恥ずかしがることなく声高に言えるようになったと、心から感謝している次第です。

 というのも、透析患者さんにも色々な分類が出来るのですが、ある種族の人たちはおうちに帰ってもあんまり動くこともせず、できず、その割にはどこかが痛かったり、かゆかったり、眠れなかったり、イライラしたりするわけです。そんな人たち相手に薬を出しているうちに、時々ぴったりと薬が合うことがあるわけです。と表向きには言っておくのですが、薬が合ったというよりはおそらくその薬に変えたタイミングとたまたま症状が治まったタイミングが合っただけだと思っているのですが。でもまぁ薬が合ったような雰囲気になったときに、一番感謝されるのはその患者さんの旦那であったり、奥さんであったりするわけです。患者さんが不眠で夜中ごそごそしていたり、痛みが強くていつもさすってあげていたり、症状が出てきた時に気を使うのはいつだって周りの人たちなわけで、自分もまぁ苦しいわけですが気を使ってくれる回りがいるというのはやはり心苦しく感謝するべき状態だと思うわけです。そんな時に薬を自分のために飲むなんて発想はおこがましいにも程があるとわきまえるべきであって、皆さんに迷惑をかけないようにするために飲むんだと、そういう発想で飲んでいただきたいなぁと。

 というのもなぜそんなことを思うかというと、ここのところ病気や症状はあくまで自己表現の一つに過ぎないのではないかと思うに至ったからで、どこどこが痛いのも吐き気が出てくるのも自己表現なわけで、自己という作品のひとつなわけです。と、ここのところは意味がわからないと思うので、まぁそんなものかねぇと読み進めていただきたいのですが、そうなると、自己表現をわざわざしているのにそれを自ら薬で止めるなんて発想があるでしょうか。表面では痛いのはよ止めたいなぁとか、咳はよ治らへんかなぁとか思ってますが実際はすべて自己表現なので、体の奥底では意味があって表現してるんだから薬なんかで邪魔すんなよと思っているわけです。さすれば薬の効きはおのずと悪くなるわけです。自己表現してみたもののよく見れば周りに迷惑かけてるなぁと思えば薬も効果がでてきます。暴走族に「うるさい」と注意しても彼らが「この爆音がおれらの自己表現なんだよ!ばーか」と思っている限り治ってくれませんが、「この爆音、おれの好きなゆみちゃんがいやがってたなぁ」と思えばやめる気になります。やめるきっかけが必要な場合「お薬処方」は非常によいきっかけになります。しんどいときのリポビタンみたいなもんです。「これさえ飲めば元気がでる、はず」みたいな。そういう発想でなんとか望んでいきたいお薬の処方事情でした。終わりのほうのよくわからない話についてはまた後日。