すっかりご無沙汰してしまいました。色々慌ただしく、パソコンに向かう時間も気持ちもなく、すみません。これからもマイペースで続けていくつもりですので、宜しければ時々訪ねて下さいませ。
秋も深まり、侘びの季節を迎えましたね。皆様お楽しみでしょうか。そしてもうすぐ炉の季節、早いものです。
さて、今日は、先日読んだばかりの般若心経の解説本の中に見つけた千宗旦の逸話を紹介したいと思います。
以下引用省略して記載*******************
京都の安居院のご住職が、この寺のめったに咲かない椿が珍しく咲いたので、そのうちの一枝を折って仲の良かった宗旦に届けるよう小僧さんにことづけた。
小僧さんは両手に大切に持って出かけたが、転んで花が枝から落ちてしまった。小僧さん、どうしようと思いながらとぼとぼと宗旦のところへ行き、事の次第を正直に話した。
宗旦曰く「小僧さん、けががなくて何よりでした。椿は残念ですが。今日は日がいいから住職様にお茶を一服差し上げたいのでお越し下さるように伝えて下さい。」
何も知らない住職がでかけた。茶室に入った住職が目にしたのは先ほどの椿。枝は見事に花入に生けてあるが、肝心の花は床に落ちてしまっている。
黙然することしばし、やがて静かに目をひらいて一言。「実に見事ですな。」
宗旦、「ありがとうございます。」
実は茶室には見事にポトリという音が生けてあった、この二人はその音を観たのです。
般若心経、心の「大そうじ」 名取芳彦著 三笠書房より
******************************
さて、このお話、いかが思われましたか。この著者は20代の時に初めてこの逸話を知って、こう感じたそうです。
観音菩薩は、物事を自由自在に何の偏見も拘りもなくありのままに観じることのできる菩薩様、悟りを求めて修行中の人で、人々を救うために具体的に働いている方です。しかし、”観音”は始めから仏様、仏像として存在するのではなく、自分たちの周囲の人々や生活の中にもあるから、この二人が椿の姿の中に音を観たように、私たちも目にみえないものも観じることが大切だと。
調べたところ、お茶を一服頂いたのはご住職様ではなく、お使いを頼まれた小僧さんで、お使いをしてくれた御礼と、花を落としてしまってどうしたものかと困っていた気持ちを優しく労ったという話もあるようです。その話では、宗旦の一服を入れて人をもてなし労う素晴らしい気持ちとして紹介されていました。
いずれにしても、落ちてしまった椿を、枝と花と別々に床に生けた宗旦のセンスはたいしたものです。薄暗い茶室の床に浮かび上がる椿の花を思い浮かべ、美しかったであろうと想像しました。茶花に関する逸話も色々ありますが、今回も新しい話に出会って、茶には色々な趣向があり、人の思いが沢山こめられているなあと思いました。私も人の気持ちを温かくするような趣向を思いついて実践したり、相手の趣向をくみ取れるようになりたいものです。
般若心経の教えは、”心のそうじをして、本来の豊かな心を取り戻し、気持ちが安らかになるための素晴らしい智慧のエッセンス、そしてその心を表した教え、わだかまりやこだわりを捨て、心を自由自在にしていきましょう。それを実践していきましょう。”ということだとか。茶だけでなく、普段の様々な場面でも、心を豊かにし、音を観じる境地にまで至ってみたいものです。
秋も深まり、侘びの季節を迎えましたね。皆様お楽しみでしょうか。そしてもうすぐ炉の季節、早いものです。
さて、今日は、先日読んだばかりの般若心経の解説本の中に見つけた千宗旦の逸話を紹介したいと思います。
以下引用省略して記載*******************
京都の安居院のご住職が、この寺のめったに咲かない椿が珍しく咲いたので、そのうちの一枝を折って仲の良かった宗旦に届けるよう小僧さんにことづけた。
小僧さんは両手に大切に持って出かけたが、転んで花が枝から落ちてしまった。小僧さん、どうしようと思いながらとぼとぼと宗旦のところへ行き、事の次第を正直に話した。
宗旦曰く「小僧さん、けががなくて何よりでした。椿は残念ですが。今日は日がいいから住職様にお茶を一服差し上げたいのでお越し下さるように伝えて下さい。」
何も知らない住職がでかけた。茶室に入った住職が目にしたのは先ほどの椿。枝は見事に花入に生けてあるが、肝心の花は床に落ちてしまっている。
黙然することしばし、やがて静かに目をひらいて一言。「実に見事ですな。」
宗旦、「ありがとうございます。」
実は茶室には見事にポトリという音が生けてあった、この二人はその音を観たのです。
般若心経、心の「大そうじ」 名取芳彦著 三笠書房より
******************************
さて、このお話、いかが思われましたか。この著者は20代の時に初めてこの逸話を知って、こう感じたそうです。
観音菩薩は、物事を自由自在に何の偏見も拘りもなくありのままに観じることのできる菩薩様、悟りを求めて修行中の人で、人々を救うために具体的に働いている方です。しかし、”観音”は始めから仏様、仏像として存在するのではなく、自分たちの周囲の人々や生活の中にもあるから、この二人が椿の姿の中に音を観たように、私たちも目にみえないものも観じることが大切だと。
調べたところ、お茶を一服頂いたのはご住職様ではなく、お使いを頼まれた小僧さんで、お使いをしてくれた御礼と、花を落としてしまってどうしたものかと困っていた気持ちを優しく労ったという話もあるようです。その話では、宗旦の一服を入れて人をもてなし労う素晴らしい気持ちとして紹介されていました。
いずれにしても、落ちてしまった椿を、枝と花と別々に床に生けた宗旦のセンスはたいしたものです。薄暗い茶室の床に浮かび上がる椿の花を思い浮かべ、美しかったであろうと想像しました。茶花に関する逸話も色々ありますが、今回も新しい話に出会って、茶には色々な趣向があり、人の思いが沢山こめられているなあと思いました。私も人の気持ちを温かくするような趣向を思いついて実践したり、相手の趣向をくみ取れるようになりたいものです。
般若心経の教えは、”心のそうじをして、本来の豊かな心を取り戻し、気持ちが安らかになるための素晴らしい智慧のエッセンス、そしてその心を表した教え、わだかまりやこだわりを捨て、心を自由自在にしていきましょう。それを実践していきましょう。”ということだとか。茶だけでなく、普段の様々な場面でも、心を豊かにし、音を観じる境地にまで至ってみたいものです。
わたしも毎日元気にしています
『みる』は見る・観る・看る・視ると禅語では使い分けられていますね
また『ある』も有る・在るなど…
『音を観る』という感覚を外人さんに説明するのは、英語で何と説明するのだろう?
と、留学生を指導していた時に良く思いました
稽古場で禅の話をするとき良く、手をポンとたたいて『さぁ~どっちの手の音がなった?』
白隠禅師の『隻手の声を聴け』の話しをよくしました
逸話の話をしただけで、難しい説明もなく不思議とお弟子さんは理解する
2回目ポンとたたくと、ちゃんと右側の手の音だけを聴くんです…日本人なんですね~
宗旦の逸話は多分なが~く茶道をしている方は同じことをしたのではないでしょうか?
花入れに枝葉を差し床に花…龐居士の『好雪片々不落別処』の心境でしょう
また客となった住職さんも、たしたもの…主客の力量がなせる逸話ですね
m-tamagoさんに質問です?
花入れに枝葉を差し、花は上から落としたままの床の景色にしますか?
それとも住職が床の前に座って床を拝見した時の、床の景色を考えた花の位置・向きにしますか?
私は未熟者ですから、一度落として床前に座り花をいじるでしょうね…笑
禅の世界の”みる”、色々と学ぶことはまだまだたくさんあると思います。
本当に外国の方にその差を説明するのは難しいでしょうね。感覚の部分も大いにあるでしょうから。
そういう微妙なニュアンスを感じとれるってなんだかいい、日本人でよかった~って思います。
落ちた花の飾り方ですが、、、
私は気持ちとしては自然に落ちたままにしたいと思います。といっても自然に落ちたものじゃないから難しそう。やはり実際にはいじって向きを変えたり試行錯誤してしまいそうです(笑)。お客さんにいかによく見えるかって考えている間はまだまだですかね~。
コメント頂いたのにすっかり時間が空いてしまいました。
お元気そうで何よりです。
私も元気にしています。日本はここのところすっかり寒くなりました。
夕食後に盆点てで楽しまれている様子、そういうのがお茶の本来の姿だと思います。素敵ですね。
私も毎日慌ただしく、反省することもしきりですが、今はそういう時期と乗り切るつもりです。
でも、yukaさんは一服頂くお気持ちがあるんですから、ゆとりがあるように感じますよ~。
お互いぼちぼち頑張りましょう。
Yukaさんもお身体お大切にお過ごし下さいね。