Casa Galarina

映画についてのあれこれを書き殴り。映画を見れば見るほど、見ていない映画が多いことに愕然とする。

CURE キュア

2006-08-21 | 日本映画(か行)
★★★★★ 1997年/日本 監督/黒沢清

「戦慄のラストカット。傑作」


私は未だかつてこれ以上恐ろしい作品を見たことがない。あのラストシーンを見たときは本当に背筋がぞっとして、しばらく動けないほど怖かった。そして、思った「黒沢清なんて大嫌いだ」と。

しかし、この作品の魅力に抗えないのも事実なのだ。大嫌い、大嫌いと何度心の中で叫んでも、この作品の持つ魔力にがんじがらめにされてしまう。これほどのアンビバレンツに苦しめられる映画は、他にはない。思い切って降参してしまえばいいものを、なんだか無性にそれは嫌なのだ。そして、新作ができるたびに黒沢清の映画を見て、やっぱりこの人は嫌いだと唱える自分がいる。そうせずには、悪魔に魅入られてしまいそうで怖いのだ。

今作品は精神学的にも哲学的にも非常に深い考察ができる傑作だと思う。いわゆる猟奇殺人ものとは完全に一線を画している。しかし、私がこの映画に感じる嫌悪感は、「近寄ってはいけないモノ」だという本能だ。バカげた話かも知れないが、私は子供を産んでから明らかに嗜好が変わった。生命をおびやかすもの、健やかな精神を害するものを遠ざけようとする本能が生まれた。これは紛れもない事実だ。誤解のないように言っておくが、それは全ての女性に共通しているというわけではない。あくまでも個人的な体験。そのアンテナがこの作品には強烈に反応する。針が振り切れんばかりに、近寄ってはならぬ、と警告するのだ。しかし、物語が始まると、逃げようにも足がすくんで動けない強烈な魔力を放つ。ああ、本当に恐ろしい。

さて、今作の持つ悪魔的な魅力をさらに高めているのは二人の主演俳優であることは間違いない。癒しの伝道師、間宮を演じるのは萩原聖人。出会った人々を独特の話術で催眠にかけ、殺人者に仕立て上げる記憶喪失の放浪者。彼の人を食ったような話し方は、本当に不快だ。執拗につぶやく「あんたは誰だ」というセリフが頭から離れない。精神に異常をきたしているのは明らかだが、悟りを得たかのような雰囲気が出会う者たちを惹きつける。そういう難役を萩原聖人は見事に演じている。個人的には彼の一番の作品だと思っている。

そして、刑事の高部を演じる役所広司。この人が画面に出るだけで、非常に暑苦しい。この暑苦しさが黒沢清のダークな世界と組み合わさると、もう息苦しくて仕方がない。役所広司が悩み、苦しみ、叫ぶたびに観ている私は酸素不足ではあはあしてしまう。黒沢作品に欠かせない存在になるのも納得。精神を病んだ妻を支える一見妻思いの刑事が、間宮と出会うことで妻への殺意を表出させる。そして、間宮を追い詰め殺すのだが、伝道師としての役割は高部に引き継がれたのだった。しかも、その能力が格段に上げられた形で。

薄暗い病院の内装、間宮の異様な部屋、ひからびた猿、どこを走るのかわからないバスなど、人々の精神を逆なでするような映像の洪水。しかし、最も気分を悪くさせるのは、精神を患った高部の妻が回している空っぽの洗濯機の音だ。ぶぅんぶぅんと四六時中鳴り続ける洗濯機の音。あんな音を聞かされていたら、誰だって頭がおかしくなってしまうだろう。

ファミレスのラストシーンには、心底戦慄を覚える。しかも、これが非常に引いたショットで、まるで他人事のように醒めた視点の映像なのだから余計に怖い。誰かが死んだり、血が流れたりなどという直接的な表現ではなく、「示唆する」という方法でここまで人々に恐怖を与えることができるのだと思うと、映像表現の力とは何と大きいものだろうか、という感慨すら覚える。もし、万一街で黒沢清に出会っても、私は絶対に話しかけたりしないと思う。

最新の画像もっと見る