写真で綴る想い出

Contar de los recuerdos
del viaje con fotografias

海外体験(11)

2014年03月31日 | 海外体験

スペイン語を話すことが出来ずもどかしい思いをし、語学の必要性を感じたのですが、会社には「海外渡航適格者試験」という制度があり、外国語、貿易実務、簿記の3科目の試験が年2回行われていました。全科目がAになると適格者で、確か二科目がAで、一つがBの場合には準適格者となり、初めて会話の試験を受けられます。何れかの科目でCの成績がある間は海外派遣されない事になっていました。入社して配属された部内で先輩諸氏の成績を聞くと全科目Aの適格者は誰も居らず、準適格者ばかりでした。忙しい部署でしたから、勉強などしていられなかった事もあるでしょう。最初の試験結果は簿記がCで、後はAとBでした。二回目の試験は仕事の関係でもあったのか、受けないで終わりました。その内に病気になり、休職扱いとなった事もあり、その後、渡航試験は受けない侭になっていました。この状況で1966年初頭に出張を命じられた訳ですが、その頃は海外出張に辞令が出るほどで、更に辞令と共に「人事紹介票」が付いて来て社長以下の役員に挨拶して廻るという現時点では考えられない、大げさなものでした。

人事部から「辞令が出ていますから取に来てください」との電話があり、人事部長の処に行きました。同じ機械部で次長だった方が、当時人事部長になっておられ、顔見知りでした。「おお、米田君か、ご苦労さん」と辞令を渡して呉れた処までは良かったのですが、挨拶をして失礼しようとすると「チョッと待ってくれ」と引き出しを開け、何やら書類を引っ張り出しチェックし始めました。「おい、君は合格していないではないか! 然も、試験を一度しか受けていない。これは一体どういう事だ」とお叱りでした。然し、一旦出た辞令を撤回するのは問題が多かったのでしょう、「次の試験は必ず受けるな?」「ハイ、受けます」と早々に逃げ出しました。同じ部門の先輩が他地域に出張する予定で辞令を取りに行くと、同じ目に遭い、誓約書を入れさせられたそうです。この経緯を東京商科大(一ツ橋大)出の課長に話すと、講習会をやってやると言われ、帰国後、簿記の不得手な若手社員数名を集め、何回か簿記の講習をしてくれました。お蔭で次の簿記の試験ではAが取れ、準適格者となり、英会話の試験を受ける様に人事から連絡がありました。外国人の試験官と一対一で会話する試験でしたが、まともに受けたら合格する筈が無いので、テーマを決め、試験官と挨拶を交わした後は、準備したテーマに就いて、休むことなく話続け、試験官がOKと言い、Aを貰い渡航試験は終了でした。

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砧公園の桜

2014年03月30日 | 海外体験

一昨日、妻のアッシー君で砧公園に出掛けました。まだ一・二分の咲きでしたので、クローズアップしか撮れませんでした。マクロレンズが無かったので、望遠レンズで撮ったのですが、ピント合わせが難しかった。

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海外体験(10)

2014年03月30日 | 海外体験

当時、コスタ・リカの小型車の販売店には代金支払い遅延問題が発生しており、その回収と同時に、バス組合との大型バス50台の商談がありました。バスの商談の仲介をしていたのが輸入代理店だったので、大型バスの商談を成立させ、発生する手数料で代金回収を計るのが出張目的でした。バス組合は購入したいが、延べ払いにしてくれと言い、輸銀融資を受けるには現地銀行からの保証状が必要だったので、毎日、銀行に出向き交渉を行いました。この時、つくづく言葉が出来ないと不便だなと痛感しました。中南米の場合、英語を話してくれる者は少なくスペイン語での折衝となったので、同期の駐在員に同行を頼み、小生のいう事を伝えて貰う形での交渉でした。日本を出る前に輸銀に赴き、どの様な保証状であったら融資に応じて貰えるか、保証状のひな形を入手し、これと同じ文言の保証状の発行をして貰いたいと言ったのですが、相手側のタクティックなのか、本当に違いが判らないのか、「連帯保証文言」に理解を示して呉れないのです。何日間も同じ交渉の繰り返しになるので、通訳して呉れている同期の者に確認すると、何と彼自身が「連帯保証」の意味が判って居なかったのです。随分無駄な時間を使いました。

 

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海外体験(9)

2014年03月29日 | 海外体験

メキシコまでは、言ってみればお遊びみたいなものでした。本当に仕事をしたのはコスタ・リカ(Costa Rica)のサン・ホセ(San Jose)に到着してからです。コスタ・リカは美人国で有名ですが、ホテルのレセプションに居た女の子はエリザベス・テイラーの若い頃の様でした。写真を撮らせてとも言えなかったのが、今思うと残念です。尤もサン・ホセ滞在中には残念なことがありました。丁度、昼休み直前でしたが、所長室から「チョッと来てくれるか」と声が掛り、作業の手をとめて所長室で2・3分話して、席に戻ると机の上に置いてあったOlympus Pen-Fが無くなっていたのです。カメラにはメキシコ滞在中にレフォルマ大通りを散歩した際に、若いカップルが何組も「チュ」している光景を撮ったフィルムが入っていたのですが、その祟りだったのかも知れません。

サン・ホセ店の所長はHさんでしたが、この方は繊維の出身でした。会社の方針として重工長大路線を目指していたので、サン・ホセ店に出る際に、「戻る部署は無いと心得よ」と言われていた由です。H所長の出発前の打合せの際に、自動車会社の見学をしたいとの要望を受け、案内した経緯があったので、一応顔見知りではありました。話が社内の資格になった際に、病気で一年近く休み休職した事もあり、同期の駐在員と比べてもワンランク下の最低の資格であると答えると、「判った。特別なことはしないが、毎日、昼飯は家に来て食べろ」と言い、その日から45日間、H所長宅でお昼を戴きました。奥様には大変ご迷惑だったでしょうし、ある時はズボンを綻びまで縫って戴いたこともありました。こう言う事をしてくれる方は他には知りません。それから35年後、H所長(退職した時には専務でしたが)から「パソコンを始めたいが手伝って呉れないか」と言った時には、出張時の奥様へのお礼と思って引き受けた経緯があります。H所長は昼食を終えると娘さんに日本語の勉強をさせていたので、その間、応接間でレコード鑑賞をさせて貰っていました。当時の中南米にはまだシエスタ(昼寝)の習慣が残っており、昼休みが長かったので出来たことです。それが3年後にペルー日産に赴任すると始業時刻は朝7時、昼休みは30分と聞かされギョツとしました。

 

 

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海外体験(8)

2014年03月28日 | 海外体験

太平洋航路や欧州向け路線と異なり、南米航路の航空会社は何かランクが下の印象があります。日本から直接、南米まで行く航空会社にCPALがありました。羽田→バンクーバー→メキシコ→リマ→サンチャゴ→ブエノス・アイレスと飛んでいました。後にトロント経由になったのですが、トロントから先の客層は明らかに落ちる印象でした。南米の航空会社のフライトにうっかり乗って事故にでも遭遇すると、補償金をドルで払って呉れないだろうと、出来るだけ北米の航空会社のフライトを利用していましたが、ウエスターンが倒産し、その後に現れたのがブラニフ・インターナショナルでした。確かダラスをベースにしていた航空会社でした。機体の塗装はおかしな色で、CAのユニフォームは独特でした。最近、日本でもSky何とかのユニフォームが問題になっていますが、同じ類のものでした。

定時運行を知らないのではと思うほど、遅延が一般的で、一夜を空港で明かした事もありました。丁度、チリでは戒厳令下で、23時以降は「夜間外出禁止令」が出ていました。サンチャゴからロス・アンジェルスに戻るフライトでしたが、チリ日産に出向していた同僚に送って貰い空港に着くと「遅れています」との事で、友人は「夜間外出禁止令があるので帰ります」と22:30pm頃に行ってしまいました。硬いベンチしかない空港ロビーで待ったのですが、ドンドン遅れて明け方近くなってリマを出たので3時間後には来るでしょうと言った具合で、夜が明けてしまいました。

それが次の出張でロス・アンジェルス空港に行くと「定時に出ます」との事だったので、「奇跡だね」と皮肉を言って乗り込みました。離陸して一時間後に夕食が出され、食べようとした時に機内の電灯が消えたり、またついたりおかしな動作をするのです。機内放送があり、電気系統に故障があるのでアカプルコに緊急着陸すると食事を下げ始めました。隣に座っていたおばちゃんが「大丈夫でしょうか?」と訊ねたのですが、「心配ありませんよ」と答えて置きました。こちらだって大丈夫かどうかは判らないのですが、「大変です」と言っても、どうしようもないのですから。アカプルコには無事着陸したのですが、滑走路の両側に消防車がズラッと並んでいたのは、余り気分の良いものではありませんでした。然し、問題はそこからでした。パイロット達はさっさとホテルに行ってしまいました。こう言う場合には操縦を続けることはないのだとか。ブラニフの地上スタッフが「代替機がダラスから来るまで時間が掛るので、チリ人を除いてホテルにご案内します」と放送しました。当時、メキシコとチリとの間では、アジェンデ大統領をめぐるクーデター問題で、国交が無かったのです。この放送を聞いたチリ人達は一斉にブーイングでした。対応に困ったブラニフは前言を翻し、「全員此処で待って貰います」と言って逃げてしまいました。それから12時間、トランジット・ルームで待ったのですが、サービスされたのはコカ・コーラ一本だけでした。空港だけでしたが、初めてのアカプルコ訪問でした。

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海外体験(7)

2014年03月27日 | 海外体験

アメリカとメキシコでは日産自動車の海外オペレーションを見学するだけでしたから気は楽でした。ロス・アンジェルスからメキシコにはウエスターン・エヤライン(Western Airlines)を利用しましたが、もう存在していません。振り返ってみると当時、利用した航空会社は殆ど倒産して消えてしまっています。

また当時は訪れる国々のVisaを取得して置かねばならなかったのも現在とは違う点でしょう。メキシコ空港には予定通り到着したのですが、「旅慣れないお上りさん」的に見られたのでしょう。入国手続きをする処で、「ビザに不備があるから、脇に避けて待て」と言われました。全ての旅客の入国手続きが終わるまで待たされた揚句、「お土産を持っているか?」と訊くのです。たかられたな、何かやるしか無いかと思い、「スーツケースに入っているから、一つやるよ」と答えると入国は許可されました。元々、ビザに不備などなかったのです。係官が付いて来て「何処にある?」と訊くのですが、スーツケースがありません。「グレーのサムソナイトだけど、一緒に探して欲しい」と言い、スーツケースの出てくる処や脇に置いてあるもの等を一つずつチェックしたのですがありません。弱った事になったなと思っている時に、次のフライトで到着した乗客が続々と現れました。入国係官は「お土産は? お土産は?」と言いながら己のブースに戻って行きました。こちらはスーツケースを探し出せねばならないので、先ずはウエスターン・エヤラインに訊ねるしかないとカウンターに行き、訊ねると「ああ、一つだけ残っていて、放置して置くと盗難の危険性もあるから、此処に持って来てある」と出して来て呉れました。メキシコ会社が予約して呉れていたホテルにタクシーで行ったのですが、これが安ホテルで、1985年9月の大地震で、その隣のレストランと共に倒壊してしまいました。実はこの地震の前日、会議の準備の為、メキシコ入りをしていたのですが、それはまた、何れ・・・

 

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海外体験(6)

2014年03月26日 | 海外体験

米国日産には有名な片山豊社長が居られました。ご挨拶だけして、勝手知ったW氏の案内でファシリティを見学して、事務所に戻ったのですが、「今夜、俺は片山さん宅に呼ばれている。日産本社から輸出担当常務が来ておられるからだ。お前は勝手に夕飯を食え」と言われました。その後、現地採用だったMさん、(この方にはそれからも、大変お世話になりました)から米国日産の業務に就き話を聞き、定刻を過ぎていたので「Mさん、これで失礼します」とホテルに戻ろうとすると「今夜は片山さんのお宅で寿司ですよ」「いえ、私は招かれていませんから・・」「そうじゃなくて、輸出担当常務は川又社長から急遽、メキシコに行けと指示があって、先ほど、出発されました。主役が居なくなったので、米田さんもという事になっていますよ」といった次第で、Mさん運転する車で片山社長邸に伺いました。高台から眼下に海が見えるお宅でしたが、玄関のドアを開けて入ると正面の壁には、当時三菱重工でサッカーをやっていたバックスの片山洋選手が逆さになってボールをクリヤしている大きな写真が飾られていました。そこへ片山社長が現れたので、「三菱の片山選手は息子さんだったのですか・・」と言うと「最近は俺より有名になってね・・」と大変嬉しそうに笑っていました。暫く、玄関でサッカー談義が弾みました。尚、片山選手は2年後のメキシコ・オリンピックで銅メダルを得た日本代表チームの右DFで活躍しています。

然し、日産自動車はどうして、こういう方を役員にしなかったのでしょうか?

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海外体験(5)

2014年03月25日 | 海外体験

海外出張の場合、支店のある都市に行く場合にはホテルの予約を依頼すると出張者の資格により適当なホテルを海外店が予約して呉れます。この時、予約されていたのはロス・アンジェルス支店の近くにあるMayflower Hotelでした。(現在はHiltonが買収したのか写真の屋上には、そう書いてあります)確か宿泊費は5-6ドルでした。

朝食の時にこんな事がありました。朝はトーストにハムエッグとコーヒーで済まそうと「ハム・アンド・エッグ・プリーズ」と注文すると返ってきた質問が全く理解出来ないのです。要するに卵の焼き具合を聞いていたのです。一度、覚えてしまえば何という事はないのですが、彼女が訊いたのは、“How would you like your egg?  Up?  Easy?  Over?” だったのです。UpはSunny side upで、easyは Over easy、そしてOverはTurn over なのです。二・三度聞き返したのですが、結局、判らないので、”The last one, please”と誤魔化しました。 朝食を食べ、事務所に行くと待っていたのは東京外語の英語科を出て、ロス・アンジェルスに13年駐在していたW氏でした。「おう、来たか。朝飯は何を食べて来た?」「ハムエッグを食べましたが」「そうか、卵の注文が出来たか」とお見通しでした。意地が悪い。翌朝は、スクランブル・エッグを注文しました。

午後から、W氏に連れられて米国日産に挨拶の為、出掛けました。処がW氏の車はVWビートルなのです。「日産の仕事をしていながら、VWじゃ拙いのではないですか?」と訊ねると、10年ほど駐在した後で帰国命令が出たので、車を含め家具など処分したら帰国命令が撤回され、これしか買えなかったとの説明でした。数か月後、W氏が自動車課長として直接の上司になってしまったのですから世の中、何が起こるか判らないものです。

実はその日の朝、事務所に行くためにホテルを出ると、通りを隔てた反対側に聳える様にあったのが、ビルティモア・ホテルでした。ビルティモア・ホテルに就いては数学者の藤原正彦が「数学者の言葉では」(新潮文庫)の中でこう書いています。

「ダウンタウンにあるビルティモア・ホテルはハワイでのモダンなものとは違い、古いだけあって天井は高く、廊下もやけに広かった。どこか格式を感じさせないでもない」

藤原正彦はチャンと宿泊していたのです。然し、社内で最低ランクの社員には泊まれるホテルではありませんでした。折角来たのだから見学だけでもしておこうと昼休みにビルティモアの中を歩き回り、足跡を残すため、昼食にクラブハウス・サンドウィッチを食べました。

 

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海外体験(4)

2014年03月24日 | 海外体験

当時は投資資料集めだけで海外出張させてくれる程、甘い状況ではありませんでした。コスタ・リカでの債権回収と大型バス商談が絡んでいた事のフォローなどがありました。

その頃の旅券は帰国すると失効し、何度も使える数次旅券は一般的ではなく、特別申請をして始めて貰えるものでした。代表取締役が署名・捺印した文書を外務省に提出し、数字旅券を発行して貰いました。1966年1 月5日発行の旅券が出て来ましたので写真をご覧戴きます。有効期間は2年間で、渡航出来る国はパスポートに列挙した国々だけに制限されていました。実は出発前に行く予定していた国は、アメリカ、メキシコ、コスタ・リカ、パナマ、ペルーだけでした。それがコスタ・リカ滞在中に二輪車を担当していた隣の課からベネズエラで問題が発生しているので、解決して貰いたいと言うテレックスが飛び込み、立ち寄ったのですが、パスポートにベネズエラが入って居なかったら面倒になる処でした。尚、この3年後の1969年1月にペルー日産への出向が決まったのですが、この時の旅券は数次ではありませんでした。「この旅券は、発行の日から帰国するまで有効である」と記載されています。会社側も一時帰国など考えて居なかったのでしょう。

旅行費用の外貨割当も一日35ドルでした。現在では考えられない事ですが、持ち出し外貨額までキチンとパスポートに記載されています。余程、ドル現金を持ち歩くのが怖かったのか、或いは誰か先輩の助言に従ったのかは記憶にないのですが、T/Cで1,800ドル、現金で180ドルを東京銀行丸の内支店で購入した記載がパスポートに残っています。更に羽田税関で円貨11,600円が携帯輸出金額として認められています。然し、丸紅の旅費規程では、最低のランクだった若手社員でしたから与えられた日当15ドルしかありませんでした。出張は結果的に大赤字で、不足分を帰国後、会社に円貨で払いました。

先ずロス・アンジェルスで米国日産を見学し、次にメキシコに飛び、建設中のメキシコ日産、クエルナバカ工場を見学、次に大型バスの商談があったコスタ・リカに立ち寄り、パナマ、ベネズエラ、ペルーと廻る75日間でした。ペルー市場を担当しているにも拘わらず、相変わらず南米には興味がなくスペイン語の勉強をしていませんでしたので、出張時に覚えていたのは「幾ら」「高い」「まけろ」の三つの単語だけでした。ですから夕食を一人で食べる時は、メニューを貰い、上にあるのが前菜だろう、中央がメインであろうと推測して、指を指して注文するしかありませんでした。ホテルでスペイン語会話手帳を調べて、今日は鶏肉でも食べようかとうろ覚えの単語をメニューから選び、待っていると出て来たのはシイタケという事もありました。それでも75日も滞在しているとある程度は覚えるもので、最後の頃には余り間違える事もなく注文した記憶があります。そういう状況ですから駐在員が「今夜は一緒に食べに行きましょう」と言ってくれると、本当に嬉しく思ったものです。

そもそもロス・アンジェルス空港に到着した時には若輩の小生を迎えに来て呉れる筈もありませんから、荷物を受け取ったらタクシーで予約して呉れていたホテルに一人で行くしかないと覚悟していました。ターンテーブルに自分のスーツケースが出てくるのを待っていると年上の日本人から「米田さん?」と声を掛けられました。「そうですが・・」と応えると「Mさんに頼まれて迎えに来たよ。最初は苦労した方が本当はよいのだけどね・・・日立の人が同じ便で到着するので、序だけど・・」と一言ありましたが、暗くなっての到着ですから有難かったですね。後日、判ったのはジョー・Kと言う現地採用の方でした。

当時、羽田から乗ったのはJALのDC8でしたが、給油の関係でハワイに降り、其処で通関手続きをすませて、ロス・アンジェルスに向かいました。従ってロスでは荷物を引き取るだけでした。当時は現在の国際ターミナル、Tom Bradleyはありませんでしたが、この建築物だけは良く覚えています。

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海外体験(3)

2014年03月23日 | 海外体験

ペルーを担当させられたのは規模がそれほど大きくない事と、業務が安定しているので、新入社員の訓練には手ごろな案件だったからでしょう。ペルーを担当したにも拘わらず、スペイン語を学ぶ気にはなれず、仕事を教えて呉れた先輩社員が昼休みに「スペイン語四週間」で勉強しているのを知ってはいましたが、屋上に出てバドミントンに興じていました。その後、仕事を教えて呉れた先輩社員がペルーに派遣され、更に組立令が出て、完成車の輸入が禁止となり、日産、丸紅、現地の三社合弁で組立工場建設へと進みました。当時、日産自動車の輸出部門は大手町ビルの2階に事務所があり、小生の勤務する丸紅東京支社は8・9階でしたので、打合せなどを行うには本当に便利でした。時には日産・中南米部部員と示し合わせ地下のコーヒー店で落ち合い、駄弁って居た事もあります。

当時はまだ日本の外貨準備高が20億ドル程度しかない時期で、海外への資本投下には日本政府の許可を必要としました。投資許可取得は商社の役割だと言われ、通産省、大蔵省、外務省、経済企画庁、輸出入銀行等々に説明して廻り、最後に「投資説明会」をレストランの個室を借りて各省の担当官に出席して貰い説明せねばならなかったのです。説明後は昼食を差し上げると言う日本独特のやり方に違和感を覚えました。この点、日産自動車中南米部は接待を強要する事が無かったのは誠に有難く思いました。

投資資料集めに初めて出張したのが、1966年1月でした。リマ空港に着くと当時の羽田より立派な建物でした。空港はホルヘ・チャベツ国際空港と言う名称でしたが、彼は世界で初めてヨーロッパアルプスを飛行機で超えたパイロットで、ペルーの誇りだったのです。Jorge Chavezと入力してインターネット検索すると画像が沢山出て来ます。

 空港には先輩社員が迎えに来て呉れていました。「これからゴルフに行くので、ホテルで休んでいてくれ」と言われ、シャワーを浴び、暫く寝ていましたが、そろそろ迎えに来てくれるだろうと起きだして、窓の外を見た印象は最悪でした。高いホテルの窓から見えたのは、何十年と積もった埃を被った建物の屋根でした。雨が降らない地域ですから必然の結果なのです。

 この写真はGoogle Map Street Viewからの借用ですが、初めて訪問した時の印象と余り変わりはありません。当時からモダンな建物でした。

 

これもGoogle Mapで、上空から見た光景ですが、埃の蓄積で何処も高い処から見ると灰色です。市の中心にあた広場とその北側にある大統領官邸、右手にはピサロが葬られているカテドラルがあります。小生がうんざりしたのもご理解願えるでしょう。3年後にペルーに赴任する時には嬉しくはありませんでした。

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海外体験(2)

2014年03月22日 | 海外体験

中学生の頃、ペルーに住んでいた事のある社会科の教師が、何かと言うと「ペルーは良い処だ」と話すので、たちまち「ペルー」と言う渾名がつけられましたが、その頃、ペルーは小生には遠い存在で、後に住むことになるとは思っても居ませんでした。

高校、大学と進んでも南米は頭の片隅にもなかったのですが、入社して最初に配属された部署でペルー向けの自動車輸出を担当させられました。入社二年目でしたか、ペルー側の輸入代理店の社長夫妻が来日し、週末のアテンドを命じられ、東京を案内した際に夫人から「ペルーは良い処だから是非、いらっしゃい」と言われた時に、何年か振りに中学時代の教師の言が頭に浮かびました。然し、社交辞令も知らないガサツ者でしたから、「ペルーに行くつもりはありません」と大変失礼な返事をしてしまいました。

当時の写真は殆ど手元にないので、インターネットなどからの借用する形になります。先ず、Google Mapのリマ市の地図をご覧下さい。ピサロがインカ帝国を征服した後、何故、リマを首都として構えたかですが、昔、読んだ本に二つの説が紹介されていました。一つは、ピサロは海に開けた処を首都として選んだと言う説(地図の左側にあるのがカヤオ港です)と、もう一つはスペイン軍に復讐する為に、インディオが不健康地であるリマ地区を勧め、スペイン人が健康を害して出て行くことを期待したという説でした。南半球ですから、夏と冬が日本とは逆になりますが、リマ地区では4月後半から11月半ばまでの約半年間、雲が上空、200mほどの高さに厚く垂れ込め太陽が顔を見せる事はありません。冬季、リマ空港に着陸するのは本当に怖く、窓の外を見ていても何も見えず、突然、接地します。それが為、出張しないと言う職制もいました。(若手社員を出張させる癖に・・・)尚、不健康地という点に就いては外務省のHPにも記述があります。

更に湿度がほぼ100%というのですから、本当に陰鬱な時期です。子供のいる駐在員は週末になるとアンデス山脈に向かって車を走らせます。高度を稼ぎ、雲の上に出るとそこは燦々と太陽が輝いているのです。

さて地図に戻りますが、印の付いたサン・イシドロ地区に我々が住んでいたアパートがあります。その左側にLGと記したのがLima Country Clubで日本大使しか入会が認められなかったゴルフ・クラブです。空港は左上の滑走路でお判り願えましょう。空港から約5Km東に走ったN印の処にペルー日産(Nissan Motor del Peru S.A.)がありました。

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海外体験(1)

2014年03月21日 | 海外体験

中南米と言うと、どう言う印象を持つでしょうか? ペルー、アルゼンチン、チリと20年近く駐在し、また近隣国を旅して感じるのは、「中南米」と一括りには出来ないという事です。それぞれ良い点、悪い点があるのは当たり前ですが、うっかりコメントして、予想外の反応があった事が何度もあります。例えば、アサード(バーベキュー)をする時、アルゼンチンでは生肉に岩塩をすり込んで炭火の上に乗せますが、チリではいきなり火の上に乗せ、片面が焼けると裏返し、焼けた処に岩塩をかけるのです。これはどう考えてもアルゼンチンスタイルが美味いに決まっているので、そうコメントすると部下達から「セニョール・ヨネダはアルゼンチン贔屓だから・・」と非難の眼を向けられた事があります。これからポツリ、ポツリ書く体験談は感じた事をその侭書くだけで、何れの国をも非難する意図はありません。

先ず中南米の地域ですが、多くの人が勘違いしているのが、メキシコ(公用語はスペイン語)です。実はメキシコは北米地域なのです。例えば北米自由貿易協定(NAFTA)はカナダ、アメリカ合衆国、メキシコの三カ国で結ばれています。中米はグアテマラ、ホンジュラス、エル・サルバドル、ニカラグア、コスタ・リカ、パナマまでで、ベリーズ(英語)を除き、何れもスペイン語ですが、カリブ海諸国には英語、フランス語、オランダ語を母国語にする国々があり、南米でもブラジルがポルトガル語、ガイアナは英語、スリナムはオランダ語、フランス領ギアナは当たり前ですが、フランス語を公用語としています。

語学を苦手とする者にとっては勤務地が何れもスペイン語であったのは幸いでした。尤もこれまた、スペイン語と一括りに出来ない点もあるのですが。中南米のスペイン語と本国、スペインのスペイン語の違いは先ず「発音」にあるでしょう。1976年夏に初めてマドリッドに出張した際に、取り敢えずは妻に到着した旨、絵葉書でも出して置こうとホテルの売店に行った時です。「スペイン語が上手だね。でも、此処で覚えたのではないね」と売店のおばちゃんに言われてしまった経験があります。

お断りして置かねばならないのは、当時はまだデジタル・カメラなど無い時代でしたし、フィルム・カメラ撮った写真も整理が悪いので、何処にあるのか判らない、或いは既に無いのかもしれない状況です。従って、インターネットに公開されている写真を借用するケースが多々あること。特に、最近はグーグル・マップのストリートビューには驚かされるものがあります。それと仕事で駐在した関係から、どうしても仕事を離れる形にはならないだろう点をご了承下さい。

取り敢えずは南米の地図を頭に入れて下さい。 では旅立ちましょうか。

 

 

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江の島(3)

2014年03月14日 | 日記

結局、夕空はそれ以上焼けなかったので、諦めて海辺まで降りて来ると既に建物には電灯がともっていました。普通に撮っても面白くないので、初めてアートフィルターから「ドラマチックトーン」を選んで写してみました。お遊びと言った感じですね。

 

 

 

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江の島(2)

2014年03月13日 | 日記

トンビを撮った後、空が焼けないかと友人夫妻と柵に寄りかかって待っていると南の空から爆音が聞こえて来ました。見上げると厚木基地に着陸するのでしょうか、PC3(?)が飛んでいました。350mm相当のレンズで撮って見ましたが、飛行機を狙うにはもう少し長いレンズが必要ですね。

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江の島

2014年03月12日 | 日記

この齢になるまで江の島に行った事がありませんでした。小田急江の島駅には何度か降りているのですが、何れも別の用事があり、島に渡った事が無かったのです。その話を横浜在住の友人にしたら「案内してあげる」と誘われ、友人夫妻のガイドで初めて江の島を隅々歩き廻りました。富士山を絡めて夕陽を撮るには良い天気ではありませんでしたが、夕方近くなってお茶屋で休息中に友人が「帰路近道をして戻る途中に大きな木が立っており、其処にはトンビがとまっている。運が良ければトンビを点景に夕陽と富士山を撮れるかも」と言ったのです。その場所まで降りて行くと、何と本当にトンビが撮ってくれと言わんばかりに木にとまっていました。残念ながら富士山は見えませんでしたので、烏帽子岩を点景にして撮ってみました。

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