晴れていたら白馬岳が見える筈なのですが、曇っていて山は全く見えません。木道を少し外れた処に展望台らしきものがあったので寄って見ると、これまで歩いて来た木道や、栂池自然園の手前にあった「栂池ヒュッテ」や「ビジネスセンター」も見えました。妻は少し疲れたのか一休み。ビジネスセンターで聞いていた「楠川」までは比較的楽に歩いて来られ、妻も大丈夫と言うので先に進みました。楠川を越えた処から岩のある登り坂になります。この辺りまでは良かったのですが、少し汗をかいたので水分補給をと思って、水を買うのを忘れていたのに気が付きました。これは大失敗でした。「銀命水」「モウセン池」付近まで来て、白馬大雪渓を間近に望む「展望湿原」は近かったのですが、妻が「此処までにして置く」と言うので戻る事にしました。晴れていて展望がのぞめるなら頑張ったのでしょうが。
歩き出したのは9時半少し前でしたが、左側の木道を「ワタスゲ湿原」を目指して歩きました。平日で時刻が早かったからか、季節的要因か判りませんが、観光客が多くなかったのは幸いでした。15分ほど歩くと、「風穴」の看板があり、貰ったパンフレットには「岩の間に残雪が冷たい風を吹き出す天然のクーラー」とありましたが、風を感じることもなく、何の面白味もない場所でした。
これが風穴です。
これが風穴です。
天気が下り坂だったので、急いで朝食を摂り、ホテルを出ました。ゴンドラ乗り場の駐車場に車を停めていると、直ぐ脇で若い女性二人が本格登山の恰好をして準備していました。ゴンドラ・リフトは次から次へと出て居り、「栂の森駅」まで20分です。「栂の森駅」ではロープウェイ乗り場まで5分ほど歩く形になります。ロープウィエ駅に到着したのは8:50am頃で、70人乗りのロープウェイは20分間隔で、10分ほど待たねばなりませんでした。先ほどの二人の女性達も追いついて来たので、話をしてみると地元の人で「白馬大池」へ日帰り登山だとのことでした。「自然園駅」の高度は1,829mだそうで、ダラダラ坂を登って行くと道の脇に「登山道の案内看板」がありました。彼女たちが登って行く「白馬大池」までは4時間半とありました。その先のビジネスセンターで、「妻は余り脚力に自信がなく、どの辺まで行くのが良いだろう」と相談すると「楠川付近までは平らな道なので、ひと廻りしてくるのが良いでしょう」と教えて呉れました。木道は左右に分かれて居たので時計回りで歩く事にしました。
ゴンドラは次から次へと出ますが、時刻が早かったせいか、空のゴンドラが殆どでした。
栂の森駅からは、こんな道を歩いてロープウェイ駅まで行くことになります。
ロープウェイは70人乗りと大きく、この日は20分間隔で動いていました。乗ったら5分で着いてしまいました。
登山道の案内看板。白馬岳までは7時間半かかるのですね。
ビジネスセンター
自然園の案内図
栂池自然園の入口
ゴンドラは次から次へと出ますが、時刻が早かったせいか、空のゴンドラが殆どでした。
栂の森駅からは、こんな道を歩いてロープウェイ駅まで行くことになります。
ロープウェイは70人乗りと大きく、この日は20分間隔で動いていました。乗ったら5分で着いてしまいました。
登山道の案内看板。白馬岳までは7時間半かかるのですね。
ビジネスセンター
自然園の案内図
栂池自然園の入口
天気は下り坂と聞いていたので、2日目は朝一番で「栂池自然園」に昇ることにしていました。翌朝、起床して一番にカーテンを開けると雲はあるものの、青空と山が見えました。シメタと何枚か写真を撮っている間に雲の量が増えだし、これは急がねば駄目かなと思い、早く朝食を摂ろうと食堂に向かいました。7時からサービス開始と聞いていたのですが、少し前に行ったのに、食堂は立錐の余地がないほど混雑していました。後で判ったのですが、朝早い時刻に出発の団体が入っていたのでした。現在、ホテル業は団体と外国人観光客を取り込まないとやって行けないのでしょう。ビュッフェ・スタイルでしたが、食べたい物を取れないのでは・・・
3枚目の写真と4枚目とでは40秒しか違いません。雲の激しい
動きが判るでしょう。
3枚目の写真と4枚目とでは40秒しか違いません。雲の激しい
動きが判るでしょう。
今回は3泊だったので、ホテルに夕食は洋・和・洋にして欲しいとお願いしました。最初の晩、レストランに行くとテーブルには葉書サイズの紙に白馬大橋から撮った松川と白馬岳を背景にした写真とメニューが印刷されたものが置いてありました。デジタルの時代になったから出来ることですね。プリントしてあったメニューは・・・
アミューズ
魚介のクリュとビスタチオのガラティン
オニオン・スープ
オマール海老のソテー 又は 牛フィレ肉のステーキ
デザートの盛り合わせ
パン
コーヒー
とありました。オニオン・スープにはチーズ・スティックが付いていましたが、矢張りスープにチーズを入れて欲しかったし、熱々を飲みたかったです。
アミューズ
魚介のクリュとビスタチオのガラティン
オニオン・スープ
オマール海老のソテー 又は 牛フィレ肉のステーキ
デザートの盛り合わせ
パン
コーヒー
とありました。オニオン・スープにはチーズ・スティックが付いていましたが、矢張りスープにチーズを入れて欲しかったし、熱々を飲みたかったです。
ホテルの壁面に古いスキーが飾られていました。1924年にフランスのシャモニーで、第一回冬季オリンピックが開催されましたが、これはその当時使われていたスキーとストックのセットだそうです。1998年の長野オリンピックの成功を祈念してシャモニー観光局から寄贈されたものだとの事です。幼少時、旭川でスキーを始めた頃のスキーとビンディング(締め具)に似ているなと懐かしく思いました。誤解を招くといけないので書いて置きますが、1924年には未だ生まれておりません。念の為。
「通行禁止」の看板があったのは、この辺りの撮影ポイントでもある「大出の吊り橋」に近くだったので、道路脇にあった駐車場に車を停め、吊り橋に行ってみました。吊り橋を前景に、背後には雪を被ったアルプスと言う写真を見た事がありますが、生憎、曇っていて、山は見えませんでした。時期的にも未だ冠雪していないので、春の雪融けの前か、もう少し秋が深まってから撮るポイントですね。人混みが嫌いなので、季節外れに行く為、良い写真が撮れません。
釣り人が一人居りましたが、対岸だったので何が釣れるのか訊ねることが出来ませんでした。
釣り人が一人居りましたが、対岸だったので何が釣れるのか訊ねることが出来ませんでした。
ホテルのチェックイン・タイムは15時なので、何処かで時間を潰さねばなりません。穂高神社で道路地図を広げて見ると国道148号線沿いに「木崎湖」「青木湖」があったので、青木湖に立ち寄ってみましたが、余り魅力的な場所ではありませんでした。天気も下り坂で雲が厚くなっており、再び車を走らせました。未だ時刻が早いので、国道406号線の様子を調べ、当初計画とは逆に走る事も出来ないかと、ホテルに折れる道を通り過ぎて、406号線に入って行くと直ぐに「大型車通行禁止」の立て看板がありました。
シルバー・ウィークには人出があったのかも知れませんが、青木湖のボート乗り場には誰も居ませんでした。
スキーのゲレンデが眼に入りました。手前は蕎麦畑でしょうか。
国道406号に入って700mほどの処にあった看板です。当分の間は駄目なようですし、元々国道としては道幅の狭い、貧弱な道路の様ですね。他に長野市に抜ける道は無いのか探して見ましたが、更に南側の県道33・31号線しなく、戸隠の「鏡池」には行けません。
シルバー・ウィークには人出があったのかも知れませんが、青木湖のボート乗り場には誰も居ませんでした。
スキーのゲレンデが眼に入りました。手前は蕎麦畑でしょうか。
国道406号に入って700mほどの処にあった看板です。当分の間は駄目なようですし、元々国道としては道幅の狭い、貧弱な道路の様ですね。他に長野市に抜ける道は無いのか探して見ましたが、更に南側の県道33・31号線しなく、戸隠の「鏡池」には行けません。
ルート変更した結果、時間的に余裕が出来たので、穂高神社に寄ってみました。この本宮の他に、上高地の奥宮、奥穂高岳山頂に嶺宮があるとの由でした。天照大神の兄弟である綿津見神の子供にあたる、穂高見神が御祭神で、次の記述がありました。穂高見命は海神族 (かいしんぞく)の祖神(おやがみ)であり、その後裔(こうえい)であります安曇族は、もと北九州に栄え主として海運を司り、早くから大陸方面とも交渉を もち、文化の高い氏族であったようです。
拝殿で、本殿はこの後ろにあります。
神楽殿ですが、まことに新しいものでした。
奉納されている安曇野の銘酒だそうですが、飲んだことのあるものは一つもありません。
昭和45年5月に川端康成、東山魁夷、井上靖の三巨匠がご夫妻共々で参拝された折に絶賛された欅の木で、井上靖の小説「欅の木」に掲載された古樹との由。
健康長寿の道祖神。長野県は平成25年に発表された全国平均寿命で男女ともに第一位の長寿県になったのを記念して建立したとの事。
また安産祈願の風習があるとみえ、この種のお札が多数見られました。
拝殿で、本殿はこの後ろにあります。
神楽殿ですが、まことに新しいものでした。
奉納されている安曇野の銘酒だそうですが、飲んだことのあるものは一つもありません。
昭和45年5月に川端康成、東山魁夷、井上靖の三巨匠がご夫妻共々で参拝された折に絶賛された欅の木で、井上靖の小説「欅の木」に掲載された古樹との由。
健康長寿の道祖神。長野県は平成25年に発表された全国平均寿命で男女ともに第一位の長寿県になったのを記念して建立したとの事。
また安産祈願の風習があるとみえ、この種のお札が多数見られました。
大王わさび農場付近の川の流れをみると誠に複雑で、例えば犀川が何本もの流れになっている他、穂高川、高瀬川も幾筋もの流れで、これが大王さわび農場の北500m強付近で犀川に合流し、長野市近くで千曲川に合流しています。ドローンでも使って上空から撮影すると面白いのではないでしょうか。
更に大王わさび農場内では湧水が100%の蓼川と一般河川である万水川とが中之島を挟んで流れています。湧き出る水の量は一日に70万トンもあるそうで、この二つの川も犀川に流れ込んでいます。
水車がみっつありましたが、それを撮るにはゴムボートに乗らねば撮り難いのですが、止めておきました。また、わさびを生育している場所も太陽光線からわさびを守るためでしょう、黒い幕で覆われていました。
わさび農場はこの図の通りで広大なものでした。
実際に使われているのか、単なる飾りかは知りませんが、このような水車が三つ並んでいました。蓼川をゴムボートで案内していましたので、それに乗ったら正面から撮れたのでしょうが・・・
少し下流に歩き、万水川を撮ったものですが、左手奥から流れているので、湧水の蓼川で、水のいろは違います。
わさびを生育している処はこのような黒い幕で覆われています。
カメラを低く構え、黒い幕の下からわさび畑を無理矢理撮ると・・・
更に大王わさび農場内では湧水が100%の蓼川と一般河川である万水川とが中之島を挟んで流れています。湧き出る水の量は一日に70万トンもあるそうで、この二つの川も犀川に流れ込んでいます。
水車がみっつありましたが、それを撮るにはゴムボートに乗らねば撮り難いのですが、止めておきました。また、わさびを生育している場所も太陽光線からわさびを守るためでしょう、黒い幕で覆われていました。
わさび農場はこの図の通りで広大なものでした。
実際に使われているのか、単なる飾りかは知りませんが、このような水車が三つ並んでいました。蓼川をゴムボートで案内していましたので、それに乗ったら正面から撮れたのでしょうが・・・
少し下流に歩き、万水川を撮ったものですが、左手奥から流れているので、湧水の蓼川で、水のいろは違います。
わさびを生育している処はこのような黒い幕で覆われています。
カメラを低く構え、黒い幕の下からわさび畑を無理矢理撮ると・・・
白馬に3泊して来ました。当初の計画では関越道から長野に出て「善光寺」にお参り、その後、国道406号線を走り、戸隠の「鏡池」に立ち寄る計画でしたが、大雨で鬼怒川が氾濫した状況だったので、当日の朝になって山道は避け、中央道から国道147/8号線を北上するルートに変更しました。昼食に立ち寄ったのが大王わさび農場で、蕎麦を美味しく戴きました。白馬に到着し、ホテルに入る前に、チョッと国道406号線の様子を見て置こうと入って行くと「大型車通行禁止」の看板があり、矢張り何処かで崩れている部分があるのだと判りました。ホテルでチェックイン後に貰った「白馬山麓エンジョイガイド」と言うパンフレットに、国道406号就いて「道幅狭い、通行注意」とあり、同じ国道でも北海道の道路とは大分違うのだなと思いました。
着任した時のサンチャゴ国際空港は掘っ立て小屋の様な貧弱なものでした。飛行機の便数が多くないので、滑走路が一本しかないのは、それ程問題ではありませんでしたが、サンチャゴ空港の最大の問題点は冬場に霧が立ち込めることでした。東京からロング・フライトで飛んできて左側にアンデス山脈が見える頃になるとまともに高度を下げて呉れるか、毎回のように心配せねばなりませんでした。冬場は霧で着陸出来ないことがよくありました。霧が濃いとアンデス山脈を越えて隣国アルゼンチンのメンドーサ空港に降りるか、400Km南のコンセプション空港で待つかでしたが、機長の判断が悪く、暫く待てば晴れるだろうと旋回し、燃料不足になり、メンドーサに着陸すると、既に何機かが待機しており、晴れても出発は最後という経験も何度かしました。
まだ新しい空港ビルが出来る前に出張で訪れた時のことです。駐在員に送って貰いチェックインすると搭乗予定の便が遅れていました。仕方なく二人で街に行き夕食を食べ、空港に戻ると更に遅れて居るとの事でした。当時は軍事政権下で「夜間外出禁止令」があり、22時になると駐在員は「申し訳ないけど帰ります」と帰りました。ロビーの板張りのベンチに坐って待つしかなかったのですが、飛行機が到着したのは朝になってからでした。駐在していて困るのは、お偉いさんが来る時です。出迎えに出ても、飛行機は降りて来ず、何時着陸するか判らないので、空港で待機せねばならないのが宮仕えの辛い処です。
日本の銀行から、融資するから空港ビルを立て直さないかとの話が持ちかけられたのを知っていますが、チリ政府は「無償で呉れるなら兎も角、返済せねばならないなら、自己資金を準備してから建て直す」と申し出を断っていました。それが帰国するすこし前に、新空港ビルが完成し、現在は滑走路も2本、また空港への高速道路も完成しており、チリ政府は手堅い経済運営をしています。
まだ新しい空港ビルが出来る前に出張で訪れた時のことです。駐在員に送って貰いチェックインすると搭乗予定の便が遅れていました。仕方なく二人で街に行き夕食を食べ、空港に戻ると更に遅れて居るとの事でした。当時は軍事政権下で「夜間外出禁止令」があり、22時になると駐在員は「申し訳ないけど帰ります」と帰りました。ロビーの板張りのベンチに坐って待つしかなかったのですが、飛行機が到着したのは朝になってからでした。駐在していて困るのは、お偉いさんが来る時です。出迎えに出ても、飛行機は降りて来ず、何時着陸するか判らないので、空港で待機せねばならないのが宮仕えの辛い処です。
日本の銀行から、融資するから空港ビルを立て直さないかとの話が持ちかけられたのを知っていますが、チリ政府は「無償で呉れるなら兎も角、返済せねばならないなら、自己資金を準備してから建て直す」と申し出を断っていました。それが帰国するすこし前に、新空港ビルが完成し、現在は滑走路も2本、また空港への高速道路も完成しており、チリ政府は手堅い経済運営をしています。
アントファガスタ空港と市街とを繋ぐ国道から海岸に出た処にある岩礁です。Portadaは建物の正面とか、本の表紙と言う意味ですから、アントファガスタ市への入口と言う意味なのでしょう。Wikipediaで調べたら、高さ43m、幅23m、 長さ70mとありました。
日本で市販されている世界地図では判り難いのですが、チリの南部は島が多く、また海が奥深く入り込む、丁度ノルウェイのフィヨルドの様な形状になっている氷河地帯です。サンチャゴ市から南に1,000Km程のプエルト・モン港から氷河観光の船が出て居ます。船中で5泊ほどせねばならないツアーでしたので、最近は時間短縮の別ルートが開発されている様です。実はサン・ラファエル氷河(幅2km, 高さ70m)にも観光で訪れませんでした。それはアルゼンチン駐在の折りに、アルゼンチン側にある有名なペリート・モレノ氷河(幅5Km 高さ74m)観光に行っていたので、同じ様なものと判断したからです。違いは氷河が流れ下る処が海か湖かの違いでしょう。
船からボートに乗り移り、氷河に近づきます。
プエルトモンから出る観光船Skorpio IIです。
船からボートに乗り移り、氷河に近づきます。
プエルトモンから出る観光船Skorpio IIです。
サンチャゴ市から1,650Kmほど南にコジャイケ(Coyhaique )という町があります。陸の孤島とも言える地域で、道路は繋がっていませんでしたので、車は70Kmほど北西のAysenと言う港で陸揚げしていました。人工は6万人弱と言った処でしょう。此処にも販売店があったので一度だけ訪ねて行きました。こう言う辺鄙な場所に行く時は、販売部長を連れて行くより、サービス部長に同行させる方が便利でした。と言うのは、サービス部員は、どんな処も走り廻っていましたから。一応、飛行場はありましたが、有視界飛行でしたので、少し天候が悪くなると欠航するのが普通で、一泊で出掛けたのですが、サービス部長からは「三泊する覚悟はして置いて下さい」と言われました。
この町で日本人は高く評価されていました。此処20年ほど、チリ産の鮭を口にされていると思いますが、両国合意の下、1969年に鮭養殖を最初に手掛けたのがコジャイケで、それに携わったのが、白石芳一博士であり、長澤有晃さんという方でした。1972年にはサクラマスの移植実験を開始し、1974年には日本産シロサケ発眼卵をチリに送り、チリにおけるシロサケふ化放流事業を開始したのです。然し、残念な事に白石博士は卵の到着を待つことなく1972年11月に脳内出血の為、チリで急死されました。享年56歳でした。コジャイケでは博士を偲び、養殖場は「コジャイケ白石孵化場」と名付けられています。長澤有晃さんも2011年に亡くなられましたが、お二人共、北海道の出身でした。
尚、鮭は南米には生息して居なかった魚で、養殖の成功で、チリの輸出産品が増えたのですが、環境破壊がないか、今後の推移が注目されます。
この町で日本人は高く評価されていました。此処20年ほど、チリ産の鮭を口にされていると思いますが、両国合意の下、1969年に鮭養殖を最初に手掛けたのがコジャイケで、それに携わったのが、白石芳一博士であり、長澤有晃さんという方でした。1972年にはサクラマスの移植実験を開始し、1974年には日本産シロサケ発眼卵をチリに送り、チリにおけるシロサケふ化放流事業を開始したのです。然し、残念な事に白石博士は卵の到着を待つことなく1972年11月に脳内出血の為、チリで急死されました。享年56歳でした。コジャイケでは博士を偲び、養殖場は「コジャイケ白石孵化場」と名付けられています。長澤有晃さんも2011年に亡くなられましたが、お二人共、北海道の出身でした。
尚、鮭は南米には生息して居なかった魚で、養殖の成功で、チリの輸出産品が増えたのですが、環境破壊がないか、今後の推移が注目されます。