写真で綴る想い出

Contar de los recuerdos
del viaje con fotografias

アサード(3)

2013年05月31日 | 日記

 

アルゼンチンの肉の消費量はどれ位と想像されるでしょうか? フォークランド島紛争の時期でしたから、1982年の事で経済状態は最悪でしたが、新聞に一人当りの牛肉年間消費量が100kgを割る由々しき状況にあるとの記事が出ました。一人100kg.を単純に365日で割ると274g/日となります。貧乏人が世界の富裕層よりも多くの牛肉を食べる国と云われるのも成程と思いました。アルゼンチン人は豚、鶏、羊、山羊、ウサギ等々も食べますが、肉とは牛肉のことなのです。本当に肉食人種だなと思います。大通りで電線の工事をしていた労働者数名がいました。11時頃になると食事係が炭火をおこします。レンガを左右に積みあげて、その上に金網を置き、大きな肉の塊に岩塩をすり込み、網にのせて工事を続けます。途中で一度ひっくり返し、肉が焼きあがった時が昼休みです。彼等が飲むのはブドウ酒ですが、大きな取っ手の付いた5リットル瓶に入った安いものです。これが一番安い食事でもある訳です。

 

これが一般的な家庭で行われるアサードの光景です。

 

 

好きだったアサード・デ・ティラがこれです。

 

 

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アサード(2)

2013年05月30日 | 日記

アサードを食べる時は通常、臓物焼き(Parilla)から始めるのが普通です。モジェーハ(甲状腺)、小腸、腎臓、乳房に、チョリッソ、モルシージャと呼ばれる腸詰、などが大盛りで出てきます。これを前菜にして食べた後、いよいよアサードになります。好んで良く行った店にLa Cabañaがありました。店を入った右側に金網で肉を焼いています。そこでアサドール(肉を焼く人)に「今日、お勧めの部位は?」と訊ねてから中に入り注文していました。所謂、サーロイン・ステーキをビッフェ・デ・チョリソと言い400-500gr程度、もう少し食べたい時にはベビー・ビーフを注文すると、これが800gr、そして一番大きいのがグラン・ベビー・ビーフで1,200grでした。出張者が来ると、記念だからとグラン・ベビー・ビーフを注文させ写真を撮ってあげていました。当然、小生もお付き合いする訳ですが、当時は完食していました。日本から来た出張者で全部食べた人は一人だけでした。然し、2004年にマイアミでドン・シューラと言う全米で10指に入るステーキ屋に行った時には48オンス(1,360gr)のステーキは食べられませんでした。

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アサード(1)

2013年05月29日 | 日記

南米の焼き肉をアサードと言います。基本的には牛肉ですが、羊や子ヤギも食べます。味付けは岩塩だけです。ブラジルではシュラスコと言い、焼き方が違います。アルゼンチン風のアサードよりも、シュラスコの方が日本で食べるチャンスが多いでしょう。例えば表参道に「バルバッコア」があります。

肉好きですから旅先ではステーキを良く食べましたが、アルゼンチンのアサードが一番美味でした。多分、アルファルファという牧草だけで育てる為ではないかと思います。アベルディン・アングス(英語ではAberdeen Angus)というスコットランド原産の黒牛です。アサードとして食べるのはフィレとかサーロインではなく、少し硬い他の部位ですが、勿論、フィレやサーロインをステーキ風に焼いてもらうことも可能です。最もよく食べたのは「アサード・デ・ティラ」と呼ばれる胸肉ですが、厚目にカットした大きな塊を遠火でじっくりと焼きます。また豚の腹肉、マタンブレ・デ・セルドも脂がのって美味でした。

焼き肉で最も大きなものはAsado con cuero(皮つきアサード)で、牛一頭を腹の方から開いて、毛皮が付いた侭、金網に乗せてじっくりと焼きます。特別にアサドール(肉を焼く人)を頼み、大人数でお祭りの時にでもないと出来ませんので、二回ほどしか経験していません。

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ポージョ(鶏)

2013年05月28日 | 日記

グランハ・アスール(La Granja Azul)というとリマの人々の頭に浮かぶのはゴルフクラブでは無く、鶏の丸焼きです。リマに住むスイス人が自宅で作って食べていたのが友人達の間で好評で、1950年頃に友人達と共にレストランとして開業したのが、グランハ・アスールだったのです。レストランは15番ホールのグリーンの脇にあり、大きな串に鶏を丸ごと何羽も刺し、それを回転させながら焼き上げます。このレストランは週末ともなると満員でした。鶏の丸焼きとサラダ、ポテトフライが付いて食べ放題で、記憶が定かではありませんが、一人前10ドル程度ではなかったかと思います。グランハ・アスールが当たったせいか、リマ市内にも何軒もの鶏の丸焼き(Pollo a la Brasa)を食べさせる店がありました。下準備の味付けは各店が独自性を打ち出していました。グランハで食べるポージョが一番美味しかった気がします。特に焼きあげたものを直ぐにテーブルに出すので、外側の皮の部分がパリパリとして美味しく食べました。

尚、下記がFacebookのアドレスです。

https://www.facebook.com/granjaazul

 

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グランハ・アスール(2)

2013年05月27日 | 日記

このクラブでもオーストリアの経済省から派遣されていた者と知り合いになりました。妻を連れて行くときは相手も男女二人の方が好都合で、年格好も同じくらいで何度か一緒にプレーしました。余り上手な人達ではありませんでしたが、たまにバーディを出すと奥さんが頬っぺたにチューするのです。西欧社会の風習とはこんなものかと思って眺めていました。当初はクラブで一緒になるだけでしたが、話している内に我が家から100mほどのアパートに住んでいることが判り、「一度、我が家に夕食を食べに来ないか?」と誘った時のことです。奥さんの方が「嬉しいわ、主人も連れて行って良いかしら?」と言ったのには仰天しました。話を聞くとご主人はゴルフを全くやらないので、同僚に奥さんの相手をしてもらっていたのでした。初めてのカルチャーショックでした。

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グランハ・アスール・ゴルフクラブ

2013年05月26日 | 日記

前任者だった先輩から会員資格を譲って戴きメンバーになりました。当時、リマの住宅街にリマ・ゴルフとロス・インカスというクラブがありましたが、日本人が会員になるのは難しく、日本大使が入っていた程度だったでしょう。日本企業の駐在員が多く入っていたのはリマを出てパン・アメリカン道路を一時間ほど北に走ったサンタ・ロサで、此処で日本人会のコンペが行われていました。グランハ・アスールに入っていた駐在員もそれなりの人数いましたが、大体が日本人だけが固まってプレーしており、クラブが主催するトーナメントに参加する者はいませんでした。赴任した当時は31歳でしたから、日本人会の中でも若造の部類だったでしょう。出来るだけクラブの行事には参加しようとトーナメントには参加しました。Aクラスのハンディなしのレベルではとてもプレー出来ないので、Bクラスのアンダー・ハンディに参加し始め、暫くするとAクラスのハンディ3-4程度の会員、例えばアンリカン・スクールの校長とか、アルゼンチン人のリカルドなどと知り合い相手をしてくれる様になりました。駐在して2年ほど経った頃だったでしょうか、クラブの理事長から会社に電話があり、「クラブの行事に積極的に参加してくれているので、ペルーと日本の橋渡し役になって貰いたい。就いては次の期から理事になって貰えないか」という要請を受けました。「日本には長幼の序という慣習があり、クラブの会員になっている日本人の中には多くの先輩がいるので、それは勘弁して貰いたい」と辞退したのですが、どうしてもと説得されてしまい理事になりました。然し、その直後に病に倒れ、何も出来ずに帰国する羽目になりました。それから10年ほど後に出張でリマを訪れ、クラブに行くと壁に年度毎の理事の名前が記載された大皿が飾ってあり、其処に己の名前を見つけた時は面映ゆいものがありました。

 

コースは緑ですが、これは散水しているからです。後ろの山を見ると草木が全くないのがお判りでしょう。

 

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リマの冬

2013年05月25日 | 日記

南米というと太陽がさんさんと輝いている土地と思われるでしょうが、冬のリマはどんよりと太陽が顔を見せることもない処でした。4月末ころから厚い雲が垂れ込め、これが冬の間ズット続きます。更に具合の悪いことに湿度がほぼ100%なのです。車を走らせているとフロント・グラスに水滴が付き、時折ワイパーを動かさねばなりません。当時はまだ間欠式ワイパーがありませんでした。然し、アンデス山脈に向かって車を小一時間走らせ高度を稼ぐとそこは「太陽が一杯」でした。入会していたゴルフクラブ辺りまで行くと太陽があるので、週末には特別の用がない限りクラブに行き太陽を浴びていました。雲が低く垂れ込め視界がないので、冬季にリマ空港に着陸するのは怖い思いをします。冬のリマには出張しないとしていた課長もいました。最初の冬は単身赴任でしたので身の回りのことに目が回らず、洋服箪笥にぶら下げておいた黒いスーツがカビで真っ白になっていました。最低気温は11~12度程度なのですが、セーター等を着ても非常に寒く感じました。地場銀行でお喋りしていて、この話をすると「水着を何枚も重ねて着て、水温11度のプールに飛び込んだら、寒くないか?」これが湿度100%での体感温度なのでした。

この様に霧が立ち込めた様な状況がほぼ半年続きます。

 

とても南米とは思えませんね。ロンドンと云っても通りそうです。

車を走らせるとフロント・グラスはこの様になります。時折ワイパーを動かせねばなりません。

 

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チステ

2013年05月24日 | 日記

毎年、年末にはホテルやレストランに全販売店を招集して年次総会と晩さん会をするのが通例でした。その年の状況報告、翌年の計画を説明し、優秀販売店の表彰を行い、その後は食事とショーになります。ショーの中で漫談は欠かせないものでした。スペイン語ではチステといい、ジョークを次から次へと喋ります。政治漫談から始まり徐々に下ネタに移るのですが、言葉を二通りにかけて話すので、スペイン語能力は勿論ですが、政治の話題に通じていないと笑えません。まあ、残念ながら己の語学力では周囲が大笑いしているのに理解出来ずに蚊帳の外でした。当時、本社から語学研修性でチリの大学でスペイン語を学び、その後、実務研修でチリ日産に来ていた若者がいました。漫談家がチステをやると彼だけは販売店に交じって大笑いするのです。「オイ、本当に判っているのか!」と訊ねたくなりましたが、どうやら理解していた様です。

因みに、初代と二代目の社長は外語大のスペイン語専攻、特に初代社長はチリ人の部長連中のスペイン語の誤りを指摘するほどの語学の天才でした。四代目はスペインに語学研修生で留学経験がある者でしたから、三代目の小生が最も語学力が無かったのは間違いのない処でしょう。唯、腹の中では仕事は語学力だけでないぞと思っていましたが。

 

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新社屋

2013年05月23日 | 日記

写真のストックが枯渇したので、ペルー、アルゼンチン、チリに駐在した折の体験談を断片的に書いてみることにします。何れの国に赴任した際にも会社の状態が良かったためしがなく、債務超過の事業所とか辛うじて黒字でも、剰余金がほぼゼロの会社といった状況でした。最期に駐在したチリ日産でも82-3年の経済危機の煽りを受けて、本社命令で固定資産の殆どを売却させられた後に赴任しましたので、事務所は貧弱で狭いものでした。親しくなった銀行の頭取が来社しても社長室に招き入れることが出来ない状態でしたので、唯一あった会議室で応対しました。

然し、幸いにチリ経済は危機を脱出しつつあり、車の販売も上昇傾向にあったので、大量解雇して最小人数になっていた社員を少しずつ増員し、体制を整えました。労働組合との交渉でも、「一律20%カットされた給与を元に戻して欲しい」が最初の要求でした。増員しても事務室がなく、廊下に机を置き、そこで執務して貰った事もありました。社員達には、「任期中に新社屋を建設し、より良い環境で仕事をして貰う様にするから」と約束したものの、直ぐに手を付けることは出来ません。結果的には、帰国した年に新社屋建設に着工し、引き渡し直前に帰国と相成りました。契約上では帰国の2ヶ月前に引き渡しだったのですが、南米の常で納期遅延でした。従って、小生自身は新社屋での執務経験はありません。

この写真は帰国直前に撮ったものです。左側の半円形の部分が社長室・会議室等で、中央が入口、右側のガラス張り部分がショールーム並びに事務室となっています。

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レコレタの墓地

2013年05月22日 | 日記

ブエノス・アイレスの中心部に近い場所、東京で言えば六本木にでもあたるでしょうか、レコレタと言う繁華街があります。その一角に古くから墓地があり、多くの著名人が埋葬されていました。例えば、エビータの墓も其処にありました。誰でも自由に入れるので、来客があると連れて行ったりしましたが、墓石というより小屋程度の大きさがあるのが普通です。今思うとエビ―タの墓前で記念写真でも撮って置くのでした。 他の二枚の写真はCementerio de Evita Peronと入力して出て来たものを借用したものです。駐在中は軍事政権下でしたので、ミュージカル・エビータは禁止されており、聴くことが出来ませんでした。ニューヨークに出張した際にブロードウェイで観に行き、カセットに入った音楽を持ち帰りました。

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アルゼンチンの焼き肉

2013年05月21日 | 日記

アルゼンチンの獣医から犬を取りに来いと云われ、ブエノス・アイレスまで週末を利用して言った時の写真です。ペルー、アルゼンチンと一緒だったパナソニック駐在員夫妻とアサードを食べに行きました。焼かれているのはチビート(子ヤギ)です。勿論、一人で一頭分食べる訳ではありませんが、どの部分を呉れと云うことは出来ました。何時も注文したのは腎臓のある部分でした。ご覧の様に内蔵は外されており、唯一、残っているのが腎臓だったのです。

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アルゼンチンでは犬もサッカーを・・・

2013年05月20日 | 日記

アルゼンチン時代の写真が出て来ました。欧州では犬の躾が良く出来ていますが、日本は全く駄目ですね。南米三カ国に駐在しての記憶では、ペルーでは何故か殆ど飼い犬を見かけることがありませんでした。二カ国目のアルゼンチンではペットとして飼っている印象が強く、週末公園に行くと大きな犬から小さな犬までが一緒になって遊んでいる光景を良く見ました。吠えられた記憶はありません。それがチリに行くと番犬として飼っているのか、犬の居る家の前を歩くと必ず吠えられました。坂道を登って左折し三軒目が社宅でしたが、一軒目にはグレートデンが3頭、二軒目にも同じくグレートデンを一匹飼っており、良く吠えられました。あの犬はBravo(獰猛)だから注意する様にと云われた事があります。

この写真は車で15分程の公園に週末に連れて行き遊ばせた時のものですが、アルゼンチンでは犬もサッカーをやるのです。

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二軒目のアパート

2013年05月19日 | 日記

これが二軒目のアパートの写真です。Google Mapからの借用です。この様な立体的な写真が出て来る時代になったのですね。手前にある八角形の様な建物です。ワンフロア一軒で、最上階にはシティバンクの支店長が住んでいました。左手の低いフラットな屋根は駐車場です。このアパートに友人夫妻何組かを招いた後、フィリップス社長だったアントンから「お前の小さなアパート・・・」と云われたのには、「エッ」と思った記憶がありますが、その後、フィリップスの社宅に招かれ、成程と思いました。少し早目に到着したので、車を道路脇に停めて待とうとすると、門扉が静かに動きだし、警備員から「どうぞ中に入って下さい」と云われました。アントンに訊ねると24時間常駐の警備体制をとっているとかで、日本企業との違いに驚きました。

更にシェル石油の社長交代パーティに招かれた後、アントンと共にシェル社長宅に招かれた事がありました。生憎、来客を招いており行けなかったのですが、「どうだった?」と訊くと「あれは、お城だよ」との答えが返って来ましたから、相当なお屋敷だったのでしょう。

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サンタ・マリア・デ・マンケウエ(5)

2013年05月18日 | 日記

チリにはアルゼンチンで親しくなった獣医から貰った犬を二匹連れて赴任しました。その犬が二軒目のアパートで原因不明の侭、続いて亡くなり、獣医から「一匹あげるから取りに来い」と云われバスケットを持って貰いに行った犬がまた亡くなりました。それで暫くは犬を飼うのは止めようと話していたのですが、ゴルフクラブの友人達が「飼え、飼え」と言うのです。皆、自分達が飼っている犬種が一番良いと思っているのでしょう、フランスの外交官夫妻はシェパード、オランダの友人はボクサー、そしてアメリカ人はゴールデン・リトリバーが良いと勧められました。それでも暫くは飼わなかったのですが、或る日突然、アメリカ人の奥さん(ブラジル人)から電話があり、「あれから毎日、新聞広告をチェックしていたが、今日、ゴールデンの子犬の広告があったから、直ぐに行きなさい」と言うので、退社後、妻とその家を探して行くと、何とあるパーティで一緒になった夫婦でした。子犬を見ると結局、飼うことになり、それがこの写真のパティです。急いで引っ越さねばとサンタ・マリアの家を探した次第です。パティは泳ぎが好きで、プールの階段の処から勝手に入ってしまい、濡れたまま、家に入って来るのには困り、フェンスを置いた次第です。

それから数カ月して、突然、アルゼンチンの獣医から「今朝のフライトで犬を送った」との電話があり、それがアメリカン・コッカースパニエル(ボビー)でした。この二匹はその後、日本に連れ帰りました。二枚目の写真の背後にある金網の見えるものは焼き肉(アサード)をする炉です。社員達を交代で招いてアサードをよくやりました。一軒目のアパートにはこの炉がテラスに付いていましたが、それ程アサードンは南米ではポピュラーです。

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サンタ・マリア・デ・マンケウエ(4)

2013年05月17日 | 日記

今はもう、そう言うバカな事は云わないのでしょうが、我々の時代には「海外駐在は24時間勤務だ」と人事部見解でした。来客があると空港への送迎、自宅接待、週末にかかると希望を聞いて観光案内やゴルフが普通です。500回空港送迎をすると帰国出来るとの説を耳にしたことがあります。或いは500回ディズニー・ランドに案内すると帰国出来るとロス・アンジェルス駐在員が言ったのかも知れません。

南米路線のフライトは最終目的地であるブエノス・アイレスに出発・到着時刻を先に決めて計画するので、その途中になるリマ(ペルー)は最悪でした。殆どの便が真夜中の出発・到着でした。当時、電話事情が極めて悪く、単身赴任時に借りたアパートには一階の管理人事務所に一つあるだけでした。到着確認の電話をして空港に行けば良いのですが、中々繋がらない事もあり時刻表通りに空港に行くと2時間遅れなど表示がありガッカリしたのは数え切れません。

 

この写真はチリの社宅の庭から見たマンケウエ火山です。傾斜地に建っている事が判るでしょう。この写真は引っ越して間もなくのものです。妻が木々や草花を植えたので帰るころにはもっと綺麗になっていましたから。

 

こちらは日産自動車が行っていた「販売・サービス・部品」コンテストの折に撮ったものです。南米ではチリ、ペルー、コロンビアのディストリビュータの成績が良く(ブラジル、アルゼンチンは自由に輸入が出来ませんでした)この三カ国でお互いのオペレーションを視察して評価しあうコンテストがありました。その折に参加したペルー、コロンビアからの代表を招いたのですが、食堂には入りきれないので、庭に組立式のテーブルと椅子を準備し、余興にバンドを入れたものです。

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