マルベージャ滞在も7日目になり、念願のグラナダ観光に出掛けました。アランブラ宮殿はLa Alhambraと書き日本ではアルハンブラ宮殿というのが一般的ですが、スペイン語ではHを発音しないので、現地の人達は一様にアランブラと言います。アランブラ宮殿に就いては高校時代の想い出があります。世界史の馬場久吉先生が旧制中学を卒業するに当って、何か一つ成し遂げたいとアービング著の「アルハンブラ物語」を翻訳し岩波書店に持ち込んだのだそうです。それが岩波文庫として存在して居たのです。馬場先生が御存命の頃は未だ外国への観光旅行などは「夢のまた夢」といった時代でしたから、アランブラ宮殿をご覧になっていないでしょう。アランブラ宮殿の観光は入場券の手当てが大変で、中でも「ナザーレス宮殿」に入るには日時が指定されています。アントンが手配して呉れて居たのは16時30分からのものでしたが、入場は30分毎で、一度に入れるのは300人を限度としている由。これまで何冊かの本を読み、アランブラ宮殿観光は「ザクロの門」から入り、坂道を登って「裁きの門」から宮殿に入るものと思い込んでいましたが、車で行くと駐車場がヘネラリーフェ側にあるので、裏口入学した感じでした。
入場券には3枚の半券が付いていて、それはアルカサーバ、ナザーレス宮殿、そしてヘネラリーフェ庭園でした。という事はカルロス五世の宮殿などは重要でないと言う事なのでしょう。16時30分まで待ってナザーレス宮殿に入りました。此処には大きく云ってメスアール宮、コマレス宮、ライオン宮に分かれますが、12頭のライオンの噴水部分は修復中とのことで、取り外されていたのは残念でした。微細なイスラム装飾は飽きることがありませんが、己の腕では写真で表現するのは難しいなと感じました。アランブラは「赤い城」の意だそうですが、外壁などは決して綺麗とは言えず、見事なのはイスラム装飾の室内です。
マルベージャ滞在5日目はゴルフの後、夕方からロンダ(Ronda)に行きました。マルベージャから北の山間部に40Kmほど入った山間の町です。起伏に富んだ岩肌や、アンダルシア特有の白壁の家並みがロンダの風景です。町を二分するタニ渓谷に架かったヌエボ橋(New Bridage)からの眺めが素晴らしい。此処にはスペイン最古の闘牛場があり、この町、出身の闘牛士ペドロ・ロメロが有名です。アントンは町中を案内して廻りたかった様ですが、ヘルムートが草臥れたと、結局Iglesia de la Virgen de Paz(平和の処女教会)前にある広場で休憩し、その後、闘牛場脇にあるレストランで食事後、暗くなった山道をホテルに戻りました。夜道の運転は好きでありませんが、彼等は苦にしないのは有難いことです。
マルベージャ滞在も4日目になり、ゴルフの後、再び海岸沿いの道を散策しました。前回はマルベージャの西側に広がるヨット・ハーバー付近を歩きましたが、今回は旧市街に近い方に行きました。開発が早かったせいか、高層アパート群も古びた印象でした。多数の「売ります」「貸します」の貼り札が眼につきました。駐車場から海岸に抜ける公園にダリの彫像が幾つも並んでいました。海岸のカフェで休憩中、アントンが指さす方向にジブラルタルの岩山が霞んで見え、その向かいにあるのがモロッコだとか。その後、La Fonda de Marbellaにて夕食。給仕の話し方からアルゼンチン人だと判ったので、何年こちらに居るのかと訊ねると「一ヶ月半」との答えで、ブエノス・アイレスから来たとか。暫くアルゼンチンの話をしていると隣のテーブルを担当している給仕もアルゼンチン訛りなので聞いてみるとこれ亦アルゼンチン人でした。もう一人の給仕がニヤニヤして眺めているので、「君もアルヘンティーノか?」と訊くと、イタリア人でした。
スペインに集まるのに同意したのはグラナダのアランブラ宮殿とコルドバのメスキータに連れて行って貰うことを条件にしてのことでした。一日で長距離を走っての観光には無理がありましたが、長年一度は訪れてみたいと思っていたアランブラ宮殿に行けたのは幸いでした。先ず最初に行ったのがコルドバでした。
コルドバに行くには一旦マラガに戻って北上しますが、高速道路が途中で中断している為に3時間ほどのドライブでした。アルカサル庭園の近くに駐車場を見つけ、メスキータを目指したのですが、道端にテーブルと椅子を並べたカフェを見つけ、一杯飲もうと云う事になりました。日本人観光客なら時間を惜しんでメスキータに行くのでしょうが、彼等の行動パターンに慣れてきたとは言え、この辺がどうも違います。
メスキータではオーディオガイドを借り、各自自由行動で一時間後に出口で落ち合おうと別れました。内部は薄暗く、三脚使用が禁止されていたので、已む無くISOを800まであげて手ぶれ覚悟で撮りました。
モスクは何回か拡張され、全体で1,013本の円柱があったそうですが、内部にキリスト教寺院建設で壊され現在は856本に減っているとの説明でした。円柱は下の馬蹄形アーチと上部の半円形アーチで繋がれ、レンガ(赤)と石(白)で構成されているのが特徴です。この構造はローマ水道からヒントを得たものだそうです。
この他にコルドバで眼を引いたのは花々で飾られた中庭を持つ家が多いことでした。門が開け放たれ「どうぞ、ご覧下さい」といった感じです。その数は写真集が作れるほどで、時間さえあればジックリと撮って廻りたいほどです。観光を終えて、駐車場に向かったのですが、朝方コーヒーを飲んだ処に来ると、一杯飲もうと亦一休みでした。
我々が宿泊したホテルです。La Quinta Meliá Golf & Spa Resortと云うMeliá チェーンのホテルでした。
このホテルで便利だなと思ったのは部屋でゴルフ・シューズに履き替えて廊下を歩いて隣接するコースに行ける事でした。最近のゴルフ・シューズはスパイクが変更になりそれほど絨毯を傷つけないからでしょう。この時のゴルフで記憶に残っているのは、或るホールでティー・ショットをフェアウェイに打ち、残り150ヤード程のグリーンを見るとピンの位置が良く見えないのです。同伴プレーヤーだったバーバラに「ピンはバンカーの向こうに立っているのか?」と訊ねると「何を言っているの・・バンカーの手前でしょ」と答えが返って来ました。以前から白内障が進行していましたが、手術を決心した瞬間でした。帰国して5ヶ月後の2007年10月に両眼共に、手術を受けましたが、「白って、こんなに白かったんだ」と思いました。
夕食はIstan Pueblo Blancoという山間部の小さなにあるLos Jaralesと云うレストランに案内されました。こう言う山中のレストランにはパック旅行で観光に来たのでは中々行けず、マルベージャに住んでいる友人のお蔭で有難い事でした。折角、スペインに来たのだからと前菜にはイベリコ・生ハムを注文し皆で突つき、メインは子羊の足(Pierna de Cordelo)にしましたが、美味でした。写真に見えている人造湖はマルベージャの住民の飲み水用に造られたものです。
ゴルフを終え、テラスで昼食後、部屋に戻ってシャワーを浴び、アントンがマルベージャの街を案内すると言うので、16時過ぎから出掛けました。先ず、Banus港に行き、San Pedro Boulevardを散策。大小のヨットが多数係留されています。アラブ王家のヨットも見受けました。港を歩き廻って喉が渇いたので、何か飲もうとスペインの夏の飲物であるサングリアを注文しました。簡単に言うと赤ワインをソーダで割り、そこに果物を加え、氷で冷やしたものですが、その店のものは結構複雑な味がしたので、給仕を手招きし訊ねてみるとブランディ、グランマニエ、桃のリキュール等々を加えてあると自慢げでした。また、単に赤ワインをソーダで割ったものをTino de verrano(夏の赤ワイン)と云い、これも夏のスペインには欠かせないものです。
Marbella(美しい海)に行くにはマラガ空港が最寄りの空港になりますが、ピカソ生誕の地でもあるので、空港の名称にもピカソの名前がついていました。Costa del Sol (太陽の海岸)と呼ばれるこの地域は気候が良い事もあり、欧州各国から引退後の生活の為、移住してくる者が多く、モレナー夫妻もその例です。マラガからマルベージャまでは50-60Kmの道のりですが、地中海に面した高級リゾートとして開発され、アパートや住宅が林立しています。建築ブームだったのでしょう、クレーンが多数眼に入りまた。驚いたのはこの大半が違法建築である事でした。それにはマルベージャ市長を始め、多数の高級官僚が関わっているとバルセロナでもラモンとベルタから聞いていました。モレナー夫妻の住むアパートも違法建築で、未だに名義移転が出来て居らず、結果として電気・水道料金を払っていないと云っていました。全てを見た訳では勿論ありませんが、一見して豪華なアパートも手抜きや雑な工事が眼につきました。更に計画が杜撰で、高価なアパートを購入した途端、目の前に別のアパートが建ち、海側の景色が見えなくなると云うケースもあるそうです。友人の住むアパートは最上階だったので、前に立つアパートで視界を遮る事はありませんでした。アントンからは「スペインに来て住まないか?」と云われましたが、ゴルフと見栄をはった社交だけの生活はもう結構なので、「引越しをする気力もないよ」と答え誤魔化しました。
その夜はモレナー夫妻宅で夕食で、出迎えに来てくれた彼の車でアパートに向かったのですが、道は曲がりくねり、非常に複雑でカーナビなしに辿り着く自信はありませんでした。小高い丘の上に建つアパートはメゾネット形式の二階になっており、中々豪勢なアパートで広さは310平方米とか。遅い飛行機で来たヴェルファールト夫妻が空港でレンタカーして到着したのですが、小型のカーナビを持参し、それを頼りに来たとか。空港から60Kmほど離れたホテルに間違い無くスーツケースが届けられるか疑問もあったので、21時過ぎにイベリヤ航空に電話してみたのですが、中々繋がらず20分ほど待って、漸く出てきた係員に、現状を訊ねると「クレーム番号と氏名を言え」と言うので伝えたら、途端にコンピューターの自動音声に切り替わり、「該当の荷物はバルセロナから届き、配送業者に渡した。それ以後の情報はない」と繰り返すだけでした。まあ、マラガに到着した事が判っただけでも一歩前進かとは思ったものの、もう少し客扱いの方法もあるでしょう。23時過ぎにホテルに戻るとスーツケースは届いていました。
写真はモレナー夫妻のアパートから地中海を眺めた景色です。
起きて見るとバルセロナは雨が降っていました。ホテルからタクシーで空港に向かうだけなので雨は苦になりません。バルセロナ空港はターミナルがA, B, Cと三つになっていますが、建物自体は横長に繋がっているので、一つのターミナルに見えます。バルセロナからマラガへのフライトはClick Airなど聞いた事もないエヤラインでしたが、イベリヤ航空の子会社で今流行りのLCCだった訳です。朝食抜きで来たのでチェック・インを済ませ、セルフ・サービスの食堂でサンドウィッチとカフェオレを注文しましたが、此処のコーヒーの方がホテルより濃く美味しかった記憶があります。マラガに到着し、妻のスーツケースとゴルフバッグは直ぐに出てきたのですが、小生のスーツケースが出て来ません。荷物が出て来ないと騒ぐ者が10名ほど居たので、これはコンテナーを一つ積み忘れたなとクレーム窓口で手続きをし、マルベージャのホテルに届けるよう依頼しました。マラガ空港でワグナー夫妻と合流し、ホテル差し回しの車で一緒に行く事にしていたので、妻に荷物を見て居る様にと云って、周囲を歩き廻ると一人の男と眼があい、彼が手に持っているカードにYoneda & Wagnerと書いてあったので手を挙げると笑顔を見せながら近寄ってきて「Sr. Wagner?」と訊くのには笑ってしまいました。顔を見たらSr. YonedaかSr. Wagnerか判りそうなものです。間もなくワグナー夫妻も到着し、何時ものハグとキス。荷物が一つ来ていないと言うと、「イベリアは駄目だよ。だから我々はスイス航空にして、積み替えがスイスで行われる様にした。オーストリア航空で来るとマドリッド積み替えになるから」と云うのですが、我々の場合、バルセロナ→マラガでは、どうしようもない訳です。帰国後、ベルタに酷い目にあったとメールすると「De todos modos, en el aeropuerto de Barcelona lamentablemente ya es habitual recibir las maletas con retraso o que salgan de Barcelona en un avion posterior」(とにかく、バルセロナ空港では残念ながら荷物を遅れて受け取るか、或いは次の飛行機でバルセロナを出るかが常態化している)と云って来ました。尚、イベリア航空から受け取ったクレーム受諾書には「この書類は責任を認めたものではない」と最初から責任逃れでした。
写真はマルベージャのホテルの窓から・・・ゴルフ・コースが僅かに見えます。
お昼は少し遅くなるが、子供達をピックアップして彼等が入会しているポロ・クラブで食べようと行ったのですが、テーブルは満席で一時間ほど待たされました。この辺が、クラブ・ライフに対する日本と欧米の差で、南米のゴルフ・クラブでもプレーの後、ゆっくり食事をしたり、一杯やってクラブで友好を広めるのが彼等のやり方です。よく日本人は固まってプレーし、直ぐ帰ってしまうのは何故かと聞かれ返答に窮したものです。
ベルタから9時に迎えに行くとの連絡があり、朝食をホテルで大急ぎで食べたがコーヒーはアメリカン・コーヒーで不味く、米系のホテルとは言え、どうしてスペインでこんなコーヒーを出すのか?と思いました。ベルタは当初、二人の子供を連れてくるとの事でしたが、騒いで迷惑だろうからと実家に預けてきたとかで、またレース好きの夫はF-1観戦に行ったとかでした。モンセラット(標高725m)を仰ぎ見るMonistrol Vilaには立派な屋根つきの駐車場があり、20分毎に登山電車が出て居ました。頂上には880年に建立された教会があり、ベネディクト派の修道院として巡礼者が絶えないとの由。大聖堂には黒いマリア像が安置されている礼拝堂があります。此処にも美術館があり、ピカソ、グレコ、ダリ等の作品が陳列されていました。
ロープウェイは丘の上のミラマール駅からトーレ・ダ・サンセバスティア駅を繋いでいます。グエル邸には高い鉄塔にある中間駅トーレ・ダ・ジャウマからの方が便利なのですが降ろして呉れませんでした。仕方なく終点まで行き、タクシーをつかまえて「グエル邸まで」と云うと、「判りません」との答えでした。モグリのタクシーだったのでしょうか。「それならコロンブスの塔からランブラス通りに入って少し先で停めて」と云って乗り込みました。グエル邸はタクシーを降りた処から直ぐでしたが、工事中で入れませんでした。次に向かったのが「カタルーニャ音楽堂」でしたが、ガイド・ツアーしか認めて居らず、スペイン語、英語と交互に30分毎に行われていました。聞きやすいスペイン語を予約しました。
カタルーニャ音楽堂はガラス窓が多くあるので音響的にどうかなと疑問を持っていましたが、ガイドから「今夜の演奏会の練習をしているので、静かに願います」と注意があり、入って行くと女性のピアニストが練習中で、図らずも音響効果を確認する事が出来ました。ガイドに確認するとガラス窓には振動しない様にクッション材が挿入されているが、この音楽堂は飽くまでもクラシック音楽向きですとの答えでした。
ベルタから電話があり「日曜日にはモンセラットに案内しましょう」と云って呉れたので、それならバルセロナで未だ見て居ない処を廻ってみようと、モンジュイック城、ミロ美術館、グエル邸と廻り、4-Gatsで昼食後、カタルーニャ音楽堂、カサ・ミラと順路を決めました。モンジュイック城には仕事で来た折に、オリンピック・スタジアム等と一緒に連れて来て貰った事がありましたが、城からはバルセロナの街や港が見渡せます。来る時に道路工事でタクシーを途中で降りる羽目になり、フウフウ登ったのですが、ミロ美術館に廻るにも結局歩くほかありませんでした。タクシーがないので、美術館の係員に帰るルートを訊ね、ロープウェイを使う事にしたのですが、料金が二人で18ユーロ。来る時のタクシーが10ユーロでしたからバカ高いのがお判りでしょう。写真はロープウェイの中から、ヨットハーバーを出て行くヨットを撮ったものです。左手奥の方にサグラダ・ファミリアが写っているのですが、この画像では無理ですね。
折角、スペインに来たのだから、美味しいパエージャでも食べようとタクシーを港に走らせました。行ったのはセテ・ポルテス(7 Portes)でした。パエージャを売り物にしている丈あって美味でした。写真は7-Portesのメニューです。此処に行ったのはピカソ美術館がそこから4百米ほどの処にあったからでした。高校時代の友人がピカソ美術館に行った時の話では、「細い路地を探し廻って漸く辿り着いた」との事でしたが、確かにモンカダ通りは狭い道でした。ピカソ美術館の入場料は一人6ユーロだったので、12ユーロ出すと「もしかしてフビラード(年金生活者)では?」と訊ねるので、「わたしが70歳で妻は65歳」と応えると、「それなら二人で8ユーロです。でも若く見えますね。とても70歳には見えません」と云ったのですが、それなら何故フビラードかと訊ねたのでしょう。年相応に見えたからでしょう・・・