写真で綴る想い出

Contar de los recuerdos
del viaje con fotografias

浅草三社祭

2014年05月31日 | 旅行

 


到着した翌日の朝早くからバス・ツアーに出掛けたのは時差もあり疲れただろうと考え、二日目はホテル出発を10時とゆっくりスタートにしました。地下鉄銀座線の日本橋から乗り込むと女性達は直ぐに坐れ、その脇に立ってお喋りしていると、隣に坐っていた外国人ペアが小生を見て、「どうぞ坐って下さい」の素振りをするのです。矢張り齢は隠せないのだなと思いながらも直ぐに降りるからと遠慮したのですが、相手が話すのがスペイン語でした。同じ駅で降りる際に「何処から来たのですか?」と訊ねると「バルセロナ」との答えで、「バルセロナなら5・6回は訪れた。あそこにはスペイン日産の本社があるから」「日産なら良く知っている」と二言、三言話しながら別れました。

今日の最初の目的地は浅草でした。足の悪いご婦人がいるので、出来るだけ上下に動く時はエスカレーターかエレベーターを探したのですが、何時もと勝手が違います。フィリップスに居たアントンは松下幸之助が寄贈した雷門の大提灯が気になったのか、何度も「Matsushita」とつぶやいていました。好き勝手に動ける様に自由行動とし、雷門に12時に集合と伝え、妻と分担して二組に分かれました。バーバラが娘と娘婿に浴衣を買いたいというので、それに付き合っている内にアントンを除いて、他の者達は何処かに行ってしまいました。買い物を済ませ、仲見世通りを寺に向かって歩いていると脇道から掛け声と共にお神輿が現れ、「三社祭」だった事に気づきました。お神輿が出てくる脇道に近くなると、もう歩ける状況ではありません。仕方なく道を逸れて、浅間寺の近くから仲見世通りに顔を出すと、そこには未だ人は居らずやって来るお神輿を最前列で見る事が出来ました。お神輿とは?何の祭りだ?等々質問が増え参りました。それでも当初の予定では前日に来ることにしていたので「三社祭り」を見ることは出来なかった筈で、幸運でした。

 仲見世通りに入る時から混雑しており、何か今日は違うなとの印象でした。

 

お神輿が出て来て「三社祭」と判った次第です。

 

子供の神輿もありました。

 

何とか五重塔と反対側に聳えるスカイツリーだけは見せて置かねばと寺に近づきました。

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大戸屋

2014年05月30日 | 旅行

 


今回の来日で手配に苦労したのはレストランの予約でした。タクシー二台に分乗し、目的地に行くのは嫌だと妻が言うので、ホテルの予約も足場の良い処を探さざるを得ませんでしたが、その点、ホテル龍名館は地下鉄日本橋駅にも東京駅にも近く便利でした。またレストランを予約する場合、日本人は時間厳守が普通ですからレストラン側も余り予約時刻からずれるのを好みません。あるレストランから「30分遅れたら席はないと思って下さい」と言われたケースもありました。

それで一番、困ったのが富士・箱根ツアーから戻った日の夕食でした。バスは銀座に戻って解散になるのですが、道路の混み具合で到着時刻は遅れる事もあると言われ、レストランの予約が出来ません。更にその日は金曜日でしたので、サラリーマン達が週末の夜を楽しむ日でもあります。それでフト思いついたのが、「大戸屋」でした。探して見ると銀座四丁目の交差点に近い場所にあったのです。「今夜は大衆食堂を紹介する」と言って連れて行きました。バスが戻って解散になったのは20時半頃でしたが、「大戸屋」には行列が出来ていました。拙い選択をしたかなと思ったのですが、会計に居た女性従業員に「7名だけど、3名と4名に分かれてもよいので、どれ位で席が空くだろうか?」と訊ねると「20分位でしょう」と言うので、待つことにしました。状況説明をすると女性から文句がありましたが、他を探しても20分位は直ぐ経過してしまうし、レストランを予約出来る状況では無かったのだから・・・と待って貰う事にしました。結果的には10分程で、女性の席が決まり、その後、5分と待たずに男性も坐れました。

メニューは大きなカラー写真入りで、言葉の判らない外国人にも理解しやすく、価格の他にカロリーまで表示されていたのには感心していました。店も新しく清潔で、料理にも特に不満は出ず、安いのには驚いていました。何より注文したビールが直ぐ出て来て、乾いた喉を潤す事が出来た効果があったのか、食べ終わると「Good Choice!」でした。

写真はHPから借用です。

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すき焼きに大満足

2014年05月29日 | 海外体験

 


我が家を含め7名の行動になるので、タクシーの利用は出来るだけ避け、地下鉄の利用を中心に考え、SUICAを購入し手渡しました。SUICAPASMOの様に多用出来る機能はありませんが、この種のカードは1995年にワシントン駐在だったワグナー夫妻の処に遊びに行った際に、地下鉄で採用されており、彼等にとっても特に目新しい感じではありません。然し、SUICAのお蔭でその都度、切符を購入する手間が省けたのは助かりました。

日本食を中心にして欲しいとの希望もあり最初の夜は「すき焼き」を食べに銀座に出掛けました。歯が良いせいか個人的には赤みの歯ごたえのある肉が好きなのですが、彼等には霜降りの肉は美味しかったようで、こんな美味い肉は初めてだとの感想でした。着物を着た美人の仲居さんと写真を撮り、大はしゃぎでしたが、写真添付は控えます。尚、世話をしていると写真を撮る余裕がないのが判りました。

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ホテルの設備に・・・

2014年05月28日 | 旅行

 


オランダのライデン市の近くに住むウェルハールト夫妻の家からスキポール空港までは15分しかかからないし、ウィーン在住のバーバラにしても空港までは30分と言った処で、世田谷から成田までに要する時間にはビックリした模様でした。81歳のバーバラは未亡人で一人旅になるので、「空港には出迎えるから心配するな」と伝えたのですが、迷惑がかかるからとウェルハーールト夫妻と一緒のKLMでウィーン→スキポール→成田のフライトを予約してしまいました。一方、香港の野村証券に勤務する娘の処から廻ってくるモレナー夫妻は羽田着となるので、タクシーに乗ってホテルに向かえる様に運転手に手渡す地図と文章入りの書類を送って置き、成田に迎えに行きました。

到着後の行動を考え八重洲口付近のホテルを探し、富士屋ホテルを見つけ、昨年11月に予約を試みると何と3月で営業停止するとの事で紹介を受けたのが呉服橋にあるホテル龍名館でした。予約時に念の為、空いている部屋があったら見せて貰えないか頼み、ダブルの部屋を見せて貰いました。処がチェックインしてみるとバーバラが泊まるシングルには洋服を吊るすクロークも、下着などを入れるタンスも付いて居なかったのです。更にホテルが自慢げに今流行のコーヒー・メーカーも置いてありません。グループの中では最も贅沢な生活をしてきたバーバラは怒ってしまい、ホテルに激しく抗議。どうやらシングルの客はビジネス客が殆どなので、それで済んでいた様な印象を受けました。

取り敢えず部屋に入って貰いシャワーを浴びている間に大丸まで行き、コーヒー・メーカーと豆、そして大きめの洗濯籠の様なものを購入して、バーバラに渡し納得して貰いました。スタートから躓いた感じでした。尚、ホテルにあった昔の看板からすると由緒のある旅館だった様です。呉服橋は江戸城に近いので大名屋敷でもあったのではないかと思い、江戸切絵図などで調べてみましたが、大名屋敷はなく、更地の様な表示でしたので、旅館があったのかも知れません。

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疲れました

2014年05月27日 | 旅行

 


10日間、滞在して25日に友人達は帰国の途につきました。滞在中の歩行数は146,620歩で距離にして117Kmでしたが、最高齢81歳を考えると強行軍に過ぎたかなとの思いもあります。出来るだけ多くのもの見せたいと考えた結果ですが、全員が大満足だったので苦労も報われた感があります。今回の日本訪問は天気を含め非常にラッキーだった面が多々ありました。先ず浅草では「三社祭り」のお神輿を見る事が出来た事、京都の東寺でも一ヶ月だけ公開している塔内に入る事が出来たこと等々。ひとつだけ番狂わせだったのは16日に出掛けた富士・箱根観光(JTBバス)でした。先ず出発時にイタリア人カップルが現れず20分遅れで出発となり、且つ中央高速が集中工事の関係で使えず東名廻りになり、更に富士山五合目での休息後、フィリピン人の女性3名が戻って来なかった為、更に遅延となり、芦ノ湖の観光船と駒ヶ岳ロープウェイに間に合わなくなった事でした。ガイドさんが走り廻って河口湖で観光船にのり、駒ヶ岳の代わりに大涌谷までロープウェイで昇ったのですが、昇った段階で運転終了まで残り5分と言った具合で、結局、バスに登って来てもらう形になりました。ガイドさんは大変だったでしょう。

 

 

 

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海外体験(54)

2014年05月13日 | 海外体験

 


ペルー日産の前身はMaquinarias S.A.という会社で、1956年に当時ペルー勧業省に勤めていた若い役人4名が独立して仕事をしようと設立したのでした。どう言う経緯があったのか定かではありませんが、丸紅が仲介の労をとり、日産自動車の輸入・販売店として業務を開始したのが、1957年の事だそうで、1961年に入社した時の課長から、「白人国への日本車が初めて輸出されたのだ」と聞かされました。白人国と言っても、ペルーは混血が多く、白人の人口比率は12-3%しか無かったのですが。

古いものですが、4人組の写真です。左からキャリオン氏(一時、リマ市長をやっていました)キャポリ氏(彼がこのグループの中核的人物で、ペルー日産社長)、チャベツ氏、ガーランド氏です。

チリ日産に駐在中に世代交代が行われ、キャポリの息子と娘が新制ペルー日産でも中核を占めていましたが、客観的に観察しても、子供たちの代では彼等が一番しっかりしていました。勿論、キャリオンの娘やチャベツの息子も部長職として働いています。

キャポリ夫妻には本当に世話になりましたが、1997年に帰国する際には、態々サンチャゴまで夫妻で来てくれたのが、キャポリ氏とは最後になりました。二枚の写真はその時、社宅に招き食事をした際に撮ったものです。コカ夫人は健在で、クリスマスの挨拶を交わしています。


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海外体験(53)

2014年05月12日 | 海外体験

 


昔の事をあれこれ書いていると、すっかり忘れていた事を思い出すものですね。セビッチェを最後に食べたのは93-4年にペルーに出張した時の事でした。

日産自動車は世界を幾つかのグループに分けて、種々コンテストを行い、各国のディストリビューターの向上を計っています。チリ日産が属していたのは中南米グループですが、メキシコ日産は別格ですから入って居なかったと記憶します。販売、サービス、部品と各部門のコンテストがありますが、記憶では部品のそれが一番早く導入されたでしょう。優勝すると部品部長を夫婦で日本に招いて呉れ、観光旅行もさせて呉れます。サービス部門も同様で、チリ日産は毎年、あらゆる部門で優勝していました。

毎年、部長夫妻が訪日するのはどうかと思ったので、部長を呼び「今年は課長夫妻を行かせてはどうか? 俺が言うより、君から課長に言ってやれよ。来年、勝てば、今度はお前がまた行けば良いのだから。考えてくれよ」と言うと、翌日でしたか課長が現れ「実は部長から、今年はお前で行けと言われましたが、私が行っても宜しいでしょうか?」と言うので、「部長がそういう考えなら反対する理由はないね」と応じ、彼は喜んで出掛けました。

余り、チリ日産ばかりが勝つので、日産から来年はチリを除外してやろうと思うとの意向があり、「勝つから除外と言うのはおかしくないですか? それで他の国が喜びますか?」と答えると、結局、変更はありませんでした。

コンテストの中で他のものと違ったのがありました。南米で何時も成績上位を占めるチリ、ペルー、コロンビアの三カ国を対象にして、販売、サービス、部品三部門の総合成績で競うもので、それぞれの国の販売、サービス、部品部長が他の国を訪問し、どの様に業務を行っているか、相互に判定する仕組みで、2年かかりで行っていました。勿論、日産側からも各部門の担当者が3ヶ国を廻り判定に加わります。個人的な印象ですが、或る年、ペルーとコロンビアが連合を組んでいる雰囲気で、初年度はペルーが僅差で一位になりました。二年目もペルーの意気込みは凄く、社長も最初に審査対象になったチリに出張して来ました。ペルー日産時代にお世話になったキャポリ社長の長男です。チリの採点が終わり次はペルー訪問でしたが、初めてオブザーバー参加する事にし、同行しました。

ペルー日産の事務所に行くと全てのパソコンに「Tenemos que ganar」(我々は勝たねばならない)のテロップが流れていました。オブザーバーですからコメントもせず、審査しているのを眺めていました。

こう会合の楽しみの一つは夕食ですが、チリでは参加者全員を社宅に招き、マリアッチを入れて庭で騒ぎました。ペルー最初の夜は、キャポリ夫妻からグループとは別に食事をしようと招かれ3名で昔話を楽しんだのですが、その次の夜はペルー側主催の夕食会は、男女別れて食べに行こうと行くのもので、連れて行って呉れたのが海岸に新しく出来たレストラン、Costa Verde (緑の海岸) でした。ビュッフェ・スタイルだったので、セビッチェを食べようと取りに行くと調理人がおり、「好みの辛さで作ります」というのは嬉しかったです。久しぶりに食べる本場のセビッチェには大満足でした。

次の審査地、コロンビアは時間の関係から断念し、チリに戻ったのですが、ボゴタで行われた最終採点ではチリが逆転し優勝でした。処がその翌日、キャポリの長男が心筋梗塞で倒れたとのニュースがあり、幸い命に別状なく、後遺症も残らなかったのですが、何か後味悪いものが残りました。

 Costa Verde のセビッチェです。

 

この海に突き出たレストランの名前は忘れましたが、女性軍が食べに行った処です。

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海外体験(52)

2014年05月11日 | 海外体験

 


ペルーの郷土料理(Cocina Criolla)の中で最も名が通っているのはセビッチェ(cebiche)でしょう。ライムの果汁を使った魚のマリネと言ったものですが、勿論、香辛料を使っています。最もポピュラーなのがCebiche de Corvina(鱸のセビッチェ)ですが、エビや貝類を使ったものもあります。レストランに依って調理方法が少しずつ違っていましたが、個人的には余り魚の切り身を細かくしないものが好きでした。タタキみたいにするのは敬遠していました。切り身をライムでマリネし、アヒと言う唐辛子と塩で味付けします。写真の上に乗っている赤いのが、アヒですが初めて食べた時には何気なく、それを噛ってしまい、その後の料理は味が判りませんでした。アヒにも幾つか種類がありますが、一番辛いのは緑色のものでした。ペルー日産の食堂には調味料の一つとしてアヒが皿に盛られていましたが、ペルー人は平気で噛じるのです。「辛くないのか?」と訊くと「辛くない」と答えるので、一度、日本料理店に誘い、刺身を食べさせて見ました。「ワサビをたっぷり乗せて食べると美味いよ」と勧めたのですが、全員が涙を流して、「日本人は何て辛いものを食べるのか」と言っていましたが、タイプが違う訳です。セビッチェにはカモーテと呼ばれるサツマイモとチョクロと言うトウモロコシを茹でたものが一緒に出て来ます。多分、辛いので味を中和させる為なのでしょう。セビッチェをレモンで作っては駄目です。チリのレストランで出て来たセビッチェはレモン味だったので美味しくなかったのですが、帰国する頃になってペルー人が開いた店ではキチンとライムでしめていたので美味しく食べました。

セビッチェはレストランでも出て来ますが、アンティクーチョ・デ・コラソン(心臓の串焼き)は大衆食堂や屋台で食べるものです。3-4cm角に切った牛の心臓を横幅が1cmはありそうな太い竹串に刺し、唐辛子、ニンニク、酢などで作ったソースに漬けて、炭火で焼く料理です。

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海外体験(51)

2014年05月10日 | 海外体験

 


食べ物のおいしいのは矢張り、アルゼンチンです。然し、土着の食べ物で言えば、ペルーの料理が一番美味しかったですね。その点、チリはどちらも余り美味しいとは言えません。然し、勤勉さでは抜群なので、その点は日本人に似ているかも知れません。

この三つの国で残念だったのは「パン」が美味しくない事でした。作り方が悪いのか、小麦の質の問題なのかは追求しませんでしたが。ペルーでは未だ若かったし、海外給与も安かったので、美食を追求するほど余裕もなく、ありきたりの食パンを食べていました。アルゼンチンには一応社長として赴任しましたし、

肉料理は美味しいのに、どうしてパンは美味くないのか、アチコチ探して廻った事もありました。或る時、イタリヤ料理を食べに行った時です。出て来たパンは焼きたてで美味しいのです。それでレストランに代金を払うから少し分けて貰えないかと訊ねると、これはお客様に出すために焼いているので、販売するものではないと断られてしまいました。食後、支払を済ませて出口に行くと、「セニョール」紙袋を渡すので、中を覗いてみるとパンが沢山入っていました。アルゼンチン人はこういう対応の仕方をするのかと感心しました。

チリでレストランを成功させるには、「量を多くし、安いこと」に尽きると思っています。友人に誘われて何度か通ったVinndobonaも高かったので短期間に倒産してしまい、残念に思い、そのシェフがどうしたか調べると山の方に少し登った処にあるレストランに雇われていると聞き、ここにも何度か通いました。それでも長続きはしませんでしたが。

こんなパンが一般的でした。

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海外体験(50)

2014年05月09日 | 海外体験

 


語学が不得手な者がスペイン語に就いて語るのもなんですが、習い始めた頃にオヤッと思ったのは、感嘆文や疑問文に付く「!」や「?」のマークが文頭にも付く事でした。然も、この符号をひっくり返したものなのです。即ち「¿」や 「¡」となります。然し、或る意味、合理的ですね。これから疑問文ですよと言って呉れているのですから。例えば、こんな具合です。

¡Que bonita niña!  ¿Es la hija de usted?  (何て、可愛いお嬢ちゃんだ!貴女の娘さんですか?)

それともう一つ合理的と思うのはアクセントのあるのは後ろから二番目の母音ですが、単語に依って違う場所に移動しているケースがあります。その時はアクセントのある処に印が付くのです。例えばcaféですが、この場合には最後の母音にアクセントが来るので、eではなくéと表記します。

英語ですとアルファベットは26文字ですが、スペイン語の場合、それにCh, Ll, Ñ, rrが入るので30文字になります。只、rrには大文字はありません。 発音は英語に比べるとハッキリしており、易しいと言えましょう。スペインの発音と南米の発音には違いがあり、初めてマドリッドに出張した時には直ぐにバレテしまいました。ペルー、アルゼンチン、チリのスペイン語を比較するとペルーのスペイン語が一番綺麗で正統派とも言え、最初のスペイン語をペルーで覚えたのは幸いでした。アルゼンチンのスペイン語は特に二人称で親しい間柄での使い方が違い、これは覚えきれないと諦め、最後まで、「お前」ではなく「貴方」と話していました。例えばYou haveに相当するTu tienesVos tenesになるのです。親しくなった獣医には「Vos tenesと言った具合に話したいが出来ないので悪く思うなよ」と何度か言っていました。

この二冊がスペイン語を学ぶのに使った参考書です。頁を捲ってみると余り赤線も引いていないし、勉強しなかったのが歴然としています。スペイン語四週間は大学書林から出版され、昭和38年に発行されたものを購入していますが、既に第36版とあり、他には参考書が無かったので良く売れたのでしょうね。テーブル式「スペイン語便覧」は評論社から発行されていますが、こちらの方を必要に応じ参照しました。

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海外体験(49)

2014年05月08日 | 海外体験

 


我々の時代とは事なり、最近の子供の名前は本当にかわりましたね。女の子に「子」が付く名前が減ったのはスペイン語圏に行く時には好都合です。と言うのはoで終わる名詞はスペイン語では男性名詞なのです。ですから女の子の名前ならMariaですが、男だとMarioになります。最近、漢字を組み合わせて無理な読み方をするなと思う名前が日本では増えていますが、アルゼンチンでは自由に命名する事は出来ません。決まっている名前から選ぶしかないのです。

メキシコ日産に出向していた同僚の処で子供が生まれ、二週間以内に日本大使館へ届けなかった為、日本人として受け付けて貰えなくなったケースがありました。彼は親として申し訳ないと帰国後、関係官庁を走り回り、結局「帰化」という形で息子の日本国籍を取得しました。未だアルゼンチンに赴任する前でしたが、T君の処で女の子が生まれました。それでメキシコのケースを思い出し、「直ぐに日本大使館に届け出ないと日本国籍取得が出来なくなる」とテレックスを送ったのですが、そこに「出生後、二週間以内に」と書くのを忘れました。T君からは「助言、有難うございます」の返信があったので安心していたのですが、忙しかったのか大使館に届け出たのは二週間を過ぎてからでした。彼の場合、どうやったか記憶が定かでありませんが、日本国籍を取得出来ていますので、幸い問題は残っていません。アルゼンチンにも出生届を出し、成人になった時に、どちらの国籍でも選べる仕組みですが、T君は日本の名前を付けて届けた処、受付拒否されたとかでした。そう言う名前はリストに無いというのが拒否理由で、Maria, Ana, Barbara, Claudiaと言った名前から選べと言われた由。そう言う名前は日本人には相応しくないと抗議した結果、それなら理由を付して訴訟せよとの事で、「アルゼンチンに永住する訳ではなく、会社命令があれば帰国せねばならない」と言う理由で係争し、勝訴したと聞きました。



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海外体験(48)

2014年05月07日 | 海外体験

 


アルゼンチンでは日本の車のバンパーは脆弱だという事に気が付きました。路上駐車をする際に、アルゼンチンでは前後に余裕などとらないのです。前と後ろの車にピッタリ付いていても、前後に車をぶつけて隙間を作って出て行きます。日本の車はその様には出来ていませんから、殆どの車のバンパーがやられていました。もう時効だから書きますが本田アコードが特に駄目でした。バンパーの両端を車体に留めてあるボルト(?)が外れてしまい、バンパーの両端が持ち上がってしまうのでした。道幅は広いのですが、一方通行の道路が多く、住宅街では奇数日は右側に駐車、偶数日には左側と言ったルールがありました。

或る時、フィゲロア・アルコルタ大通りのアパートに住む大先輩のお宅に夕食に招かれました。彼が住んでいたアパートはワンフロアに二つのアパートがある建物で、反対側には1976年にクーデターを起こし大統領に就任したビデラ将軍が住んで居ました。テロを怖れた軍は隣人が誰か調べに来て、日本人と知って安心したとか。アパートの前に車を停め夕食をご馳走になり出て来ると、車の前後にピッタリと駐車されていました。もう、そんな事には驚かないのですが、更に問題は車の左側にも一台停められていて、二重駐車でした。脱出不可能かと思ったのですが、前後の車を何度も押してスペースをつくり、漸く出ましたが、頭に来たので、二重駐車していた車の後ろに廻り、数十米押して、出て来た者が瞬間盗まれたかと思うようにして帰宅しました。尚、駐車の際にサイド・ブレーキを引いて置いてはいけません。

またアルゼンチンでは女性、特に魅力的な女性は得をする様です。同僚だったK君の夫人は子沢山だったに拘わらず魅力的な方でした。彼女から聞いた話ですが、駐車して友人のアパートに入って行こうとすると警官から「セニョーラ、此処は駐車禁止です」と言われた由。そこで騒がず、「友人とチョッと話があるので、車を見ていてね」と一時間以上お喋りをして降りて来ると、先ほどの警官が未だ居たそうですが、「グラシアス」で済んだとか。

現在はどうなっているか知りませんが、1980年代のAv. Libertadorは住宅街からダウンタウンに向かっての一方通行でした。ご覧の様に10車線ほどの道路ですが、一定速度で走行すると信号がズット緑でした。毎朝、車の間をスラロームしながら走り抜けて行く車を何台も見たものです。

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海外体験(47)

2014年05月06日 | 海外体験

 


ペルー、アルゼンチン、チリで交通違反をした場合の警官の対応は違っていました。ペルーに着任して直ぐの頃でした。或る一方通行の細い道路を走っていたのですが、大通りに出る最後のワンブロックだけが、逆方向に走る様になっていたのです。全く気が付かず、信号のある大通りで出る処で停止した時に、交通整理をしていた警官が笛を吹き寄って来ました。一体、何だろうと怪訝な顔をして窓を開けました。スペイン語が殆ど出来ない時でしたから、何か言われたのですが、良く判らない侭、国際免許証と車検証を出しました。書類と顔を交互に見て、何か言うのですがサッパリ判りません。車検証には所有者が「ペルー日産」と記載されているので、日本から来たばかりの者だとは判った様でした。どうやら警官は仕方が無いなとでも思って呉れたのでしょう、どちらの方向に行きたいのかとジェスチュアをするので、行きたい道を指さしました。書類を返してくれ、5叉路の交叉点の中央部に歩いて行くと、大きく笛を吹き、各方向から来る車を全部停めて行きなさいと合図して呉れたのです。

ペルーの警官は親切だなと思ったらトンデモナイ。先輩達に訊ねると違反をしたら、車に乗って来て人通りの少ない処まで運転させ、其処で賄賂を取るのが常套手段だというのです。ペルーでは違反を2回やりましたが、一度目はダウンタウンでの会議に遅れそうになり、一本道筋を間違え、一方通行の逆方向に曲がってしまったのですが、この時は先輩達が言った通り、寂しい処まで運転させられ、「許して欲しいか?」など訊くのです。先輩達からは違反の罰金を調べて置き、25%程度を免許証に挟んで渡せば解決すると言われていたので、その通りにして済ませました。もう一度は、それまで左折(日本なら右折)可能だった処が突然、禁止になっていました。何時もの通り左折して駐車場に入れようとしたら警官が停まれと言うのです。少しはスペイン語も話せる様になっていたので、理由を訊ねると「左折禁止の処を曲がって来た」と言う訳でした。「此処は左折が認められていたので、何時も曲がっていた」と言うと、2・3日前から禁止になったとの事で、車から降りて道路標識を確認に行くと禁止マークがありました。猶予期間を設けるべきだと主張したのですが、駄目の一点ばりで、周囲を見回すと5・6台の車が停められて、警官の手には運転免許証が一杯でした。仕方なく、免許証を渡し、車を停めて来るからと何時もの駐車場に停め、戻って来ると、免許証を取られた者達が抗議していました。一緒になって抗議したのですが、駄目でした。時間の無駄と思い、財布から紙幣をだし、此れしか持って居ないと免許証と交換したのですが、癪に障ったので、駐車料金が払えなくなるから、その分だけ返して呉れと言うと素直に応じました。

アルゼンチンでは幸い違反経験はありませんでしたが、前任者から聞いた話では、スピード違反をして捕まった時に、違反切符を切られると同時に、「車を道路脇に寄せて3時間停まっていろ」と命じられたとか。面白い罰もあるものですが、これはキツカッタとの事です。

チリでは事情がチョッと違っていました。チリでは刑事警察をPoliciaと言い、交通警察はCarabineroと言います。着任した時には既にCarabineroが運営している孤児院に定期的に寄附をしている関係であった事から、Rompe-Filasと言う証明書を貰って呉れました。これは交通違反を認めるものではなく、警察が何らかの事情で交通遮断した道路でも通行を認めるというものでした。カラビネロの高官からは、建前はそうだが、もし違反をしたら、先ずは警官の言い分を良く聞き、それからこのカードを出して「貴方の言う事は判ったけど、私は貴方達の友達だよ」と言いなさい、便宜を計ってくれるでしょうと言われていました。このカードのご厄介には二回なりました。

最初は妻と南部に旅行した時です。追い越し禁止ゾーンで前をノロノロ走るトレーラーが居たのですが、黄色い線が無くなるまで後ろをゆっくり走り、白線に変わったのでウインカーを点灯させ、追い越したら前方に警官がおり、停まれと言うのです。制限速度の100Km/hしか出していないがと理由を聞くと、トラックを追い越した直後に渡った橋の部分だけ制限速度が60Km/hだとの事でした。「そんな事は外国人には判らないよ」と言ったのですが、認めて呉れませんでした。免許証と言うので、ロンペ・フィラを一緒に渡すと、相棒を振り返り、「ロンペ・フィラだよ」と言い、「気をつけて行きなさい」と無罪放免でした。

二度目はパナソニックの友人夫妻がブエノスから遊びに来た時でした。海岸まで行こうとダウンタウンの大通りを走っていると、道路が閉鎖されて大勢の警官が出動していました。クーデターの折に自殺したアジェンデ大統領の未亡人がメキシコに亡命したのですが、民政移管されたからと戻って来て、ミサを挙げる関係で大通りが通行禁止になっていたのです。ロンペ・フィラを示して、「通して貰えないか?」と訊くと「判った」と閉鎖していた標識をどけてくれたのですが、100m行くと次の閉鎖があるので、窓からロンペ・フィラを出して徐行して行くと次から次へ、障害物をどけてくれるのです。何やら、水戸黄門の葵の印籠を示している感じでした。

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海外体験(46)

2014年05月05日 | 海外体験

 


 ペルーの電話事情が悪い事は書きましたが、10年ほど後のブエノス・アイレスの電話事情も決して良くありませんでした。その原因がアルゼンチンの先進性にあったのですから皮肉なものです。ブエノス・アイレスを訪れると判りますが、電柱がありません。電灯線、電話線共に早くに地中に埋没させる仕組みでした。第二次世界大戦では漁夫の利を占め大儲けしたのですが、その後の経済運営がなって居らず、保守整備が全くなされていなかったのです。ペルー(但し、1970年頃)の様に受話器を持ち上げても音がしないと言ったことは無かったのですが、繋がりが悪く、混線は日常茶飯事でした。特に雨の日は頻繁に起こりました。

その為、電話がかかってきて受話器を取り上げると、”Con quien hablo?” (私は誰と話しているのですか?)とか”Quien habla?” (誰が話ているのか?)という声が聞こえるのが普通でした。 当初は「かけて来たのはお前だろう!」と言いたくなりました。幸い相手に繋がり話していると、突然、Quien habla?などと声が聞こえる事があります。混線です。こちらは話している訳ですから、「通話中だから邪魔するな」と言うと、何と相手は「おい、電話を切れ!」など言うのです。こちらが電話を切ると、相手に繋がるチャンスが生じるからなのです。電話で知らない相手と何度、喧嘩したでしょうか。この問題を避ける為、電話線を私設するケースが結構、ありました。例えば、ある銀行と新たに取引を開始すると「電話線を引きましょうか?」など言われるのです。その結果、電灯線、電話線は地中に埋設してあるに拘わらず、ブエノスの市街では私設の電話線が風景を台無しにするほど多く見られました。仕事上でも、「何故、回答して来ない!」など言うと「何度、電話しても繋がらなかった」と言われると、それが本当かどうかは別にして、追求は出来ませんでした。

公衆電話には別の問題がありました。それはコインではかけられないということでした。インフレ率が高いので、電話を掛けるにはキオスコなりでfichaと呼ばれる「代用通貨」を購入し、それを使わねばかけられないのです。幾らお金を持っていても、フィチャがないと電話をかけられない経験をしました。困っていると判るらしく、fichaを呉れたり、こういう点、アルゼンチン人は親切でした。

話が脱線しますが、タクシー・メーターもインフレの亢進と共に、切り換えねばならない仕組みで、政府が値上げを決めるとタクシードライバーは切り換えに行列を作ります。切り換えないとタクシー・メーター通りに支払われても文句は言えませんから。駐在中にはインフレ亢進が余りにも進んだので、この対応が出来なくなり、公的機関から支給された「換算表」に従って払うシステムに変わりました。応援出張で来て貰った経理の専門家がタクシー・メーターの桁数が余りに多いので一桁多く支払って「此処はタクシー料金高いですね」と言ったケースもありました。

独立宣言をした記念日である「79日」大通りです。道幅は120mほどでしょうか。何車線あったかは正確に覚えていませんが、双方向合わせ20車線近かっただろうと思います。

 

左側の3車線は79日通りの側道です。

 

常時、歩行者天国になっているフロリダ通りです。少しだけ電話線が空中に見えますね。もっと何本もの電話線が空中に張り巡らされている写真を探したのですが、見つかりませんでした。

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海外体験(45)

2014年05月04日 | 海外体験

 


日本ではチリ・ワインの方がポピュラーですね。チリの銀行の部長と昼食を共にした時に「チリ・ワインでは何が好きか?」と訊ねられた事がありました。「Santa Rita社のCasa Real」と答えると「それも良いワインだけど、Don Merchorを飲んでみたら良い」「それは何処のワインか?」「Concha y Toroだ」「Concha y ToroだとMarques de Casa Conchaか、Casillero Del Diabloなら知っているが」と言ったやりとりがありました。然し、その当時、ワイン・ショップに行ってもDon Merchorを売っている処はありませんでした。ある日、オーストリアの外交官だった友人から、「Sheraton Buenos Airesでシェフをやっていたオーストリア人がVindobona(ウィーンの昔の名称)と言うレストランを開いたので食べに行こう」と誘われ出掛けた店にDon Merchorがあったのです。暫くはDon Merchorを飲むために通いました。

1997年にチリから帰国した頃には一本\2,900.-で売っており、時折飲んでいたのですが、最近は\12,000-13,000程度になっている様です。帰国する時にゴルフ仲間のチリの友人から、「ワインを手掛けている友人に、お前にはCasa Realを10ドルで売る様に手配して置く」と言って呉れたのですが、外交的辞令と受け取り、利用した事はありません。このワインも現在は8千円程度です。尚、Santa Rita社にはワンランク下にMedalla Realと言うワインもあり、1995年頃にはアメリカン・エヤラインのビジネスクラスで提供されていましたが、どうなっているでしょうか。

チリ駐在中にフランスの某銀行支店長宅に招かれ、出して呉れたのがMontes Alphaでした。最近、スーパーで見掛けるのはワンランク下のClassic Seriesで、\1,500.-程度ですが、これは飲みやすくお勧めです。金を出しても美味しいのをと言うなら同社のMontes Alpha Mがあります。価格はDon Merchorと同じ位でしょう。尚、銀座にMontes Alphaがレストランを開業していました。確か、Casa Montesでしたが、友人達と昼でも食べるかと入った店でしたが、Montesのワインが並んでいたので訊ねて判ったので、それ以降行ってないので、どうなっているでしょうか。


Don Merchorは高級ワインになってしまい、高くて手が出せなくなりました。

これがMarques de Casa Conchaですが、赤、白 各種あり、美味しいワインです。

このCasillero del Diabloが最も名前が通っていますね。ワイン庫で盗難が多かったので、あの蔵には「悪魔」(Diablo)がいると脅かした処から、この

名前がついたのだそうです。

Santa Rita社のCasa Realで大好きなワインです。これは輸出用。

国内向けのCasa Realでこれには酸化防止剤が入っていません。

アメリカン航空で出されたのが、これです。

Montes Alphaのワインで、中央がMontes -Mです。両脇のタイプを飲んでいます。





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