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ポアンカレ予想の奇悲劇、その4〜ハミルトンの挫折と葉巻型特異点の大きな壁

2020年12月22日 03時34分44秒 | 数学のお話

 前回までの3度の記事を簡単に纏めます。
 ポアンカレ予想を簡単に言えば、”3次元閉多様体が1点に収束する”という事に尽きるけど、ペレルマンは多様体の負の曲率に注目し、膨張する筈のリッチフローを逆行させる事で、多様体が1点に収束する事を証明しました。
 これは熱伝導のフロー(流れ)を逆行させれば明らかですよね。つまり、部屋中を温めた熱はヒーターに向かって収束し、最後にはヒーターのスィッチが切れる。
 これこそが、ペレルマンの異次元のアイデアなんですが。
 一方ハミルトンは、多様体が収縮する筈の正の曲率に限定し、ポアンカレ予想を条件付きで証明しましたが、これにも厄介な(葉巻型)特異点が存在しました。これこそがハミルトンの挫折を誘うんですね。

 そこで、中国人数学者のヤウギヤオ”全ての多様体は負の曲率を持つ”事を証明してた(1986年)ので、ペレルマンは負の曲率に限定してフローを走らせる事が出来ました。
 熱伝導のフロー方程式は実際には逆行できないけど、リッチフローは小さな時間という条件付きで、逆行と順行が可能なんですね。というのも、時間軸をtとするとリッチフローは、δₜgᵢⱼ=dgᵢⱼ/dt=−2Rᵢⱼと定義できるからです。gᵢⱼは計量テンソルでRᵢⱼはリッチ曲率でしたから、リッチフローとは、多様体の計量(体積)に時間軸を配置した偏微分方程式とも言えますね。
 但し、フローを走らせ、多様体に突起物が現れる度に丸いキャップで覆い、再びリッチフローを走らせる。これを(有限時間内で)繰り返す事で多様体は丸く小さく収縮し、最後は消えてパッとなくなり、目出度く世紀の難題であるポアンカレ予想を証明しました。
 故に、”その2”でも書いた様に、ヤウがハミルトンを庇い、ペレルマンを嫉妬したのも理解できるけど、ペレルマンのアイデアは数学界を驚嘆させた異次元のレヴェルだったんです。
 以上、寄せられたコメントを補足しました。

 前回”その3”では、ハミルトンのリッチフローとポアンカレ予想の”条件付き”証明について述べました。
 上述した様に、条件付きというのは、正の曲率を持つ多様体に限定して、リッチフローを走らせれば、ポアンカレ予想が成立するとハミルトンは主張した。
 この140pに及ぶ論文「リッチフローにおける特異点形成」(1995)では、特異点解消の為の手術法を紹介します。
 それは、フローを走らせ、特異点を切り取り、傷跡を閉じる。切り取った部分は経過を追い、パッと消える事を確認する。つまりこの繰り返しを延々と行い、特異点を除去しようとしました。
 しかし、”葉巻型特異点”と呼ばれるものだけは、ハミルトンの手術によっても取り除くことは出来なかった。
 

ハミルトンの挫折

 ”その2”の終りで紹介した、親友のヤウ(丘成桐、香港)の勧めもあり、ハミルトンは様々な多様体をリッチフローで変形させました。そしてサーストンが予想した、8種類に分類した多様体のうちの1つが単連結の多様体であり、パッと消えてなくなれば万々歳だ。
 しかし、これを成功させるには全ての条件を満たす必要があった。
 つまり、ボトックス注射はシワ伸ばしに絶大なる高価を発揮するが、万が一、副作用で死ぬような事があれば、FDAに承認される事はない。

 そして、やはり問題があった。
 そう、リッチフローには副作用があり、それもとても深刻なものだったのだ。
 理想的なくびれを追求するが故に拒食症に陥る様に、多様体も”特異点”という致命的な角やクビれを生じた。
 リッチフローの”手術”により、多様体の体積が変化するという”副作用”は、処理前後の体積を一定に保ち、多様体を”括り込む”事で比較的楽に対処できる。 
 しかし、もう一つの副作用である”特異点”の解消は容易くはなかった。つまり、こうした特異点は、曲率が方向によって異なる速度で変化する事で生じるからだ。

 円筒を例に取ると、円筒は1つの方向(x,y)には丸いが、もう1つの方向(z)にはまっ直ぐだ。これをリッチフローにより変形させると、曲がった方向に関してはスケール(長さの尺度自体)が小さくなる為、曲率が大きくなり、円筒は小さく丸まり、細い管になる。
 しかし、真っ直ぐな部分はスケールが大きくなり、その方向に膨張する。結果、どんどん細い管になり、消えてなくなるか?または最後の形が球面であるか?球面でないか?を確認する事は出来ない。
 一方、ダンベル型の多様体を考えると、柄の方は無限にクビれ、ダンベル多様体は(頸掴み)特異点を形成し、球面同士はやがて離れてしまう。
 また、左右の球面の大きさが揃ってないダンベルの場合は、リッチフローで変形させても、球同士は離れないが、柄と小さい方の球が一緒に小さくなっていき、大きい方の球のみが残り、小さな突起物(特異点)が残る。


厄介な問題 
 
 更に問題なのは、”葉巻型特異点”という非常に厄介な忌々しいものがある事だった。
 但し、葉巻型特異点以外にも2種類の特異点が存在する。球面(特異点)円筒(特異点)である。
 まず、サーストンによって仮定された基本構成要素の1つである球面は簡単に取り除ける。しかし、円筒となると少し面倒だ。
 先程のダンベルをイメージすれば、円筒は2つの多様体を連結するパーツか、一方の端で多様体に連結され、もう一方にキャップを被せられた付属物である。
 この円筒上でリッチフローを走らせ、病変が生じた部分は特異点になる前に多様体から摘出し、全ての開口部にキャップを被せて閉じる。
 つまり、球面特異点を取り除いた後、円筒型特異点を切断し、キャップを被せ、再びフローを走らせる。

 但し、この手順は永久に繰り返される可能性がある。それぞれに切り離した部分がサーストンの素多様体の1つである事を確認し、特異点が生成されなくなったら、多様体の残りを検査し、同様に確認する。
 多様体から切断し摘出された全ての断片は、サーストンの予想を満たす素多様体である事がわかる。故に、元の多様体はサーストンの素多様体から構築され、それが自明な基本群を持つ(単連結)ならば、それは球面であり、故にポアンカレ予想が成り立つ。 
 そこで、このハミルトン・プログラムの要になるのが、「標準近傍定理」である。その中でペレルマンは、”強く湾曲した領域が球面や円筒の特異点と類似してる”事を示した。
 結局、この様な領域は球面や円筒の形に少しずつ近づける事が出来、やがて球体へと変化させるか、切り離す事が出来る。

 故に、ハミルトンの手術のお陰で、上で述べた2種類の特異点は解消できた。
 しかし残るは、ハミルトンをも挫折させた、かの厄介な葉巻型特異点だけである。


葉巻型特異点とは

 でも一体、葉巻型特異点とはどんなものなのか?
 両端を切り落とす前の”葉巻”を例に取る。
 葉巻の表面は、局地的に見れば2次元(平面)である。これに1次元の線分を掛け、3次元物体を作り、4次元空間に浮かべてみる。
 無限個の葉巻を線分に沿って貼り付けた束とみなせばイメージし易いですかね。または、丸まった紙を放物線と線分の積と考え、3次元空間に浮かんだ2次元物体をイメージします。
 そこで、葉巻の表面に線分を掛けたものを、リッチフローで変形させたらどうなるか?
 葉巻の端部は曲面であるが故、曲率は大きくなり、どんどん丸く小さくなり、最後には収縮しきってしまう。しかし、もう一つの方向では線分は真っすぐで動かない。
 こうして物体は2つの次元では縮むが、残りの次元ではそのままだ。シャボン玉の様にパッと消えてなくなるのではなく、腹を割かれた風船の様に、パっと萎み、後に残るのは空っぽのシート(膜)だけだ。
 つまり、リッチフローにより物体は潰れるが、完全にはなくならず、そこにある訳でもない。

 ハミルトンは、この”特異点解消”の問題に10年という歳月を費やし、ある解決法を見出した。父が外科医である事からヒントを得て、奇抜な手法を思いついたのだ。
 既に述べた様に、厄介な病変部を切除する如く、特異点が現れる寸前まではリッチフローを走らせ、止め、病変部(特異点)を切り取る。そして、残った多様体の断片に半球状の蓋をあてがい、傷跡を閉じる。再びフローを再開し、特異点が現れそうになったら、同じ”手術”を繰り返す。必要とあらば何度でも繰り返す。切り取った部分は術後の経過を見て、腫瘍を調べる様に検査する。

 1995年、ハミルトンは「リッチフローにおける特異点形成」にて、特異点解消の為のモノグラフを説明した。
 フローを走らせ、止めて切り取る。傷跡を閉じ、走らせ止める。切り取った部分は経過を追い、検査する。
 しかし、ここでも大きな壁にぶつかった。この葉巻型特異点はハミルトンの手術によっても排除できなかったのだ。

 2006年6月、ハミルトンはある晩餐会でポアンカレ予想について聞かれると、”まだ詳細を詰めてる段階だが、絶対に正しいと言われるまでは何も言えない”と、本心はひた隠しにした。
 そしてある日の事、無名のロシア人数学者が”ポアンカレ予想を証明した”と主張する論文をウエブ上に投稿した事を知ると、ハミルトンは流石にウンザリした気持ちになった。というのも、これまでにもデタラメな報道が沢山あったからだ。
 しかし実際、論文に目を通してみると、驚いた事に今回は偽物ではなかった。
 ”今度は本物かもしれない”
 ハミルトンは、仲間にこそっと呟いたという。

 次回の”その5”では、ペレルマンの”葉巻の手術”について述べたいと思います。



8 コメント

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参ったかポアンカレ (HooRoo)
2020-12-22 19:04:29
グニャグニャの粘土が最後には1点に収束して消えちゃうのがポアンカレ予想なのね

曲率が正だと多様体の計量が負になり収縮し
曲率が負だと多様体の計量が正になり膨張する
ということでいいのかな

図に書いてあるようにグニャグニャの多様体が真ん丸の球になれば
ポアンカレ参ったかになるのよね👋👋
リッチフローとは (UNICORN)
2020-12-22 19:39:23
堅苦しく言えば、多様体のどの点でも曲率に逆比例した速度で連続的に変化する多様体の発展を記述します。
この事は変形される物体が定曲率の状態を見つけることを可能にする。あるいは、多様体が幾つかの成分に分割されることも許します。
そこでハミルトンは、曲率が正という条件のもとで、これらの成分がサーストンが予想(仮定)した8つの形しか取り得ないことを証明しました。

ただ、このサーストン予想は3次元多様体が基本要素に分解できるというサーストンの命題とは異なり、ポアンカレ予想よりもずっと野心的な企てでした。
つまりポアンカレ予想は単に多様体が球と同値であることでしたから、そういう意味でもハミルトンの証明は、あくまでサーストンの仮定の上で成り立つ為に不十分だったんです。
Hoo嬢へ (象が転んだ)
2020-12-22 23:43:22
正解で〜す。
計量を体積とみなすとわかり易いですね。
ポアンカレ予想とはイメージ的には単純なんですが、これを数学的に証明しようとすると大変なことになるんですが。

でも数学素人にしては、とてもいいとこついてると思いますよ。
おじさんは感心しきりです。
UNICORNさん (象が転んだ)
2020-12-22 23:53:44
お久しぶりです。
毎回毎回、勉強になります。

サーストン予想は自らの仮定の上で成り立ちますから、過去の数学者の挑戦はみなサーストン予想の証明で弾かれたんですね。

ペレルマンがポアンカレ予想を証明する為に、特別な2つの道具を用意したんですが、それこそが放物型リスケーリングと統計物理学で使うエントロピー(計量)でした。これはUNICORNさんが指摘したものと同じですかね。
ポアンカレ予想は”弱いサーストンの仮定”とも言えますから、ペレルマンがサーストンの予想を回避したのは正解だったですね。
サーストンの背後に回れ (腹打て)
2020-12-23 03:52:01
サーストン予想の一般化がポアンカレ予想なんだけど。故に、サーストンから入るとどうしても頓挫しちゃうんだよな。
そこでペレルマンはサーストン予想の背後に回り、葉巻型特異点が存在しないと大胆な仮定をして、それを見事に証明した。
そして、曲率負の他の特異点も有限時間内に消滅できることも証明した。
つまり、ペレルマンの大胆な予想と奇抜なアイデアが生んだ偉業だったのかな。

言い忘れそうになったけど、コメント引用してくれてありがとう。
腹打てサン (象が転んだ)
2020-12-23 05:09:51
こちらこそいつも貴重なコメント有り難いです。
ペレルマンのこの2つの証明が決定打になるんですが、ペレルマンが友人に送った最初のメールでは”サーストン予想を証明した”と書いてたそうです。
しかし、その後の論文で修正し、サーストン予想を上手く躱したんでしょうね。
こうして機転の速さもペレルマンの異次元の才能ですよね。
逆を言えば (paulkuroneko)
2020-12-23 09:04:22
ハミルトンはサーストン予想を正面から強行突破しようとしましたが、それだけ自ら考案したリッチフローに絶大な自信を持ってたからでもありますね。しかし、サーストン予想そのものを完全に証明する必要があり、葉巻型特異点という幻想に取り憑かれました。

しかしペレルマンは、腹打てサンが言ってるようにサーストン予想の裏側を突き、葉巻型特異点自体が存在しないのではと予想し、それを証明しました。言い換えれば、ペレルマンの柔軟なアイデアがサーストンの野心を回避したんですね。

これはリーマンの素数公式がリーマン予想を回避しても導出できたり、弱いリーマン予想から素数定理が証明されたのとよく似てます。
歴史は繰り返すといいますが、難題に奇悲劇というのは常に憑いて回るんですね。
paulさん (象が転んだ)
2020-12-23 13:10:03
それと、セルバーグがエルデシュのアイデアを回避したのとも似てますね。
但し、この時はセルバーグの腹黒い魂胆が見え見えでしたが。
でも、ペレルマンもポアンカレ予想を証明した事で全てを出し尽くしたような気もします。
私も数学のブログを書く時は、それなりに結構負担が掛かりますから。
コメントどうもです。

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