私は小さい頃、絵を描く事が大好きだった。
幼稚園に入る前に、既に遠近法を駆使して汽車の絵が描けたし、親父からは天才?と言われた。
確かに今から思えば、コッホの「ひまわり」に並ぶ「汽車」という傑作にも思えた(冗)。
(数学の巨人である)ガウス風に言えば、”言葉を覚える前に絵が描けた”となる。
事実、幼稚園に通うまでの私は、言葉をほとんど喋らなかった。
隣家の脳性マヒの子供と一番仲が良かった。言葉で通じなくても、感性で通じ会えた。私が彼の似顔絵を描くと、普段は冷淡で末恐ろしい奇怪な無表情の男だが、まるで言葉を喋りかける様な温かい仕草で笑ってくる。
しかし、幼稚園に行く様になり、友達が出来ると、絵を描かなくなった。そして次第に絵が描けなくなった。
小学校に入る頃は、デッサンだけで色が塗れなくなっていた。何度色を塗っても、いや塗り直しても、不完全で奇妙な絵にしか仕上がらなくなっていた。それでもある老画家は、”この子は画家に育てる”よう担任に薦めてたという。
しかし私は、絵を描く事が嫌になった。
私は絵そのものを楽しむ為に、漫画みたいなシンプルな絵を描こうと思った。それまでの私の絵はとても抽象的な構図で、なかなか評価してもらえなかった。
「制作」(ゾラ)のモデルになったセザンヌじゃないが、私の絵には刺激的で即物的な何かが足りなくなっていたのだ。つまり、見る者の心を抉る何かが足りない。
ペンは剣よりも弱し
小学6年生になった時、消防のポスターコンクールの県大会で金賞に選ばれ、西鉄天神駅のコンコースのど真ん中に飾られた。
その絵はモノクロ系の漫画みたいな絵で、クラスメートらは馬鹿にしたが、見る人は見ていた。
愚直でシンプルなもの程、人の心を打つ。”寝タバコ”をテーマにしたポスターだったが、自分では納得の行く(幼稚園の頃以来の)久々の上出来だった。
絵は感性とアイデアで描くものである。決して芸術家気取りで描くものではない。
NYやパリでアトリエを構えたとしても、著名な画家たちの手法を追いかけても、感性が研磨されず、アイデアが奇抜でなかったら、少なくとも、人の心を揺るがす絵は描けない(と思う)。
「ペンは核よりも弱し」に寄せられたコメントに、”イラストは自分で描いたのか?”とあった。
いや、こんなイラストが描ければとくの昔にプロのイラストレーターになってる。それに、タイトルに丁度見合うイラストを偶々見つけたので、そのまま載せた次第である(謝々)。
言い訳じゃないが、このイラストの凄さは絵そのものより、アイデアにあると思う。
事実、イラストのタイトルは”The sword is mightier than the pen”(ペンは剣よりも弱し)なのだ。
この逆転の発想を(敢えて)モノトーンで描く事で、実に威圧感が滲み出る。これがカラーだと、ここまでの破壊力は出せない。
日本人に、ここまで愚直で潔いイラストレーターはそんなにはいない様な気がする。
イラストの片隅に、”Jene.mynell”?とあったから、外国のイラストレーターだと思う。
つまり、私と同じ事を考えてる人が地球の何処かにいると思うと、思わず興奮してしまった。
因みに、このイラストを元にナイフを核弾頭に置き換えて描いたのが(かなり素人っぽくなるが)写真のイラストである。
今の私には、これくらいの絵しか描けない。幼稚園に入る前の頃なら、外国人の傑出したイラストを見ても、(強がりに聞こえるかもだが)そこまで感動する事も刺激を受ける事もなかったろうか。
イラストと戦争とメディア
(洋の東西を問わず)戦争の時代には、こうした挿絵(イラスト)が出回り、現代のメディアを凌駕する程に世界中の世論を興奮させ、賑わせた。
高校の教科書で見た「ナポレオンが食べてるのは地球というケーキ」というタイトルの挿絵も見事な出来で、その絵を見てるだけで世界の大まかな情勢が把握できた。
以下、「戦争絵とは」から一部抜粋です。
因みに、戦争絵(戦争画)とは幕末以降の戦争を題材にした浮世絵の事で、遠い昔話を描いた合戦絵とは異なり、時事をすみやかに伝えるメディアの役割をも担い、爆発的に売れたと言う。また、戦争絵には歴史的事実の記録に加え、大衆の戦意を高揚させる効果もあった。
但し、これには教養がないと本当の意図が理解できず、大きな誤解を生むが故に、難解な物だったとされる。
1868年(明治元年)、明治新政府が発足すると、新聞の発行が認められ、堂々と時事を扱う様になります。
1871年に最初の日刊紙が誕生すると、新聞は”東京土産”になるほど流行した。しかし、新聞は漢字や内容が難しく、知識人でないと読めない。
そこで、平仮名しか読めない大衆でもと、登場したのが”錦絵新聞”だった。記事を元に落合芳幾浮世絵を描いた新聞だったが、視覚的に分かり易く、フリガナ付きの解説文が添えられ人気となる。
そんな錦絵新聞も、1877年に西南戦争が勃発すると、殆どが戦争の内容に取って替わった。錦絵新聞に描かれた戦争絵は、戦況を速やかに伝えるメディアの役割も担うようになる。
しかし、西南戦争の浮世絵の多くは実際に取材したのではなく、新聞の記事を元に浮世絵師が想像して描いた物。しかもセンセーショナルで目新しく刺激的な錦絵が望まれた為、事実ではない情報が描かれる事もあった。更に、錦絵は制作に時間が掛かり、メディアにとって必要な速報性から脱落していく。
やがて、速報性の高い”小新聞”(フリガナの付いた記事に挿絵が施された物)が生まれ、錦絵新聞は衰退していく。
84000人の死者を出した日露戦争(1904-1905)までは、事実の記録は浮世絵で行なっていたが、この日露戦争の時期に終焉を迎えた。そして浮世絵の代わりに使用されたのが”写真”である。
この写真の技術は、既に1848年(嘉永元年)に日本にもたらされてたが、1888年(明治21年)に、イーストマン社(米)が小型軽量カメラ”コダック”を発売。一方で、日本でも小型カメラが開発され、戦場で撮影できるまでに実用化された。
以上、刀剣ワールドからでした。
最後に
この様に、イラスト(浮世絵)は写真とは異なり、戦時の戦意の高揚を目的として描かれたが、写真に代わり、戦争の悲惨な記録と記憶が我々大衆の目に焼き付く様になる。
しかし、戦争の悲惨さをイヤという程に見せ付けられ、経験させられても、現代の戦争は延々と繰り返される。
いや、”百害(いや億害)あって一理なし”と解りきってても、敢えて戦争をしでかす。
結果、戦争で負けた者たちは”テロ”呼ばわりされ、勝った者たちはどんな惨殺行為をしでかしても”英雄”とみなされる。
つまり、戦争とは矛盾に満ちた現代の浮世絵なのであろうか。
ウクライナの首都キーフ近郊の都市であるブチャ市民の虐殺は400人を超え、”悪魔の兵器と呼ばれる”対人地雷も相当な数が埋まってるとされる。
まるで、屠殺場の家畜みたいに人の死体が転がってる生々しい動画を見せ付けられると、(私も含め)平和ボンボンな日本人にはどんな言葉が残せるのだろうか?
そんな中、プーチンは(そんな残酷な現状を知っていながら)何食わぬ顔をして、停戦合意と無差別殺戮を交互にチラつかせ、ウクライナを骨抜きにしていく。
一方で、有名人や著名人がメディアやSNSなどで派手に戦争反対を訴えても、逆にプーチンの狂った頭に油を注ぎ、あざ笑うかの様に狂人の残虐行為は益々過激になる。
ペン先で、プーチンの脳みそを突き刺さない限り、”ペンはプーチンよりも弱し”の状態は延々と続くのだろうか?
それとも、プーチンの狂った頭の中には、どんな残酷絵巻が描かれているのだろうか?
おはようございます。やはりイラストうまい!ゴッホに並ぶ「汽車」の絵見てみてみたいです。今日も面白かった。いえ学ぶこと多かったです。デビ夫人ブログでも学ばせていただき、美しくも醜くく年を重ねていきます。
お褒め頂いて恐縮です。
デビ夫人は悪い意味で学ぶ事が多いですよね。
こちらこそ、紫苑サンの記事から学ぶ事はずっと多いですよ。
これからも宜しくです。
エアコンの効いた心地よいスタジオの中で、そこそこのギャラを貰ってるから、聞こえのイイ建前ばかり言ってるけど、もっと斬新な事を叫んだ方がいいんじゃないのかな。
プーチンがやってる事は、令和版のホロコーストであり、重犯罪の極致である。
かつては科学王国とされたドイツだが、ごく一部の狂人により、2度の世界大戦で凋落し、科学の中心はゲッティンゲン(独)からプリンストン(米)へ、世界の中心もヨーロッパからアメリカヘ移行した。
キューバ危機の時は知将フルシチョフのお陰で、アメリカと並ぶ世界の強国となったソ連だったが、今や狂人プーチンのお陰で、昔のロシアの3等国家である‹大きな北朝鮮›に成り下がる。
狂ったバカが上に立つと、全くロクな事はない。今こそロシア国民はフルシチョフに学ぶべきだろうな。
専門家もブツブツと無難な事を言って
どうも誤魔化してるみたいで・・・
今の時代、専門家って本当に必要なのだろうか?と思います。
単に知識の集積だけならGoogle辞書で十分だし、そこに思考とか発想とか独創性がない限り、模索も解決もない。
ゼレンスキーの国連での演説みたいに、”悪いものは悪い”とはっきり主張しないと国民の声にすら届かない。
結局、専門バカは一生専門バカであり、結局は無知を生み出し、役立たずのタレントになり果てるだけなんでしょうね。