
数学は発見か?発明か?
結論から言えば、その答えはYESでもありNOでもある。
例えば、星について考える。新しい星を発見すると、発見者が好きな名前を付ける事が出来るが、これを”発明”と呼ぶ人はいないだろう。星は人間が見つけようが見つけまいがずっとそこにあったものだ。
故に、星を見つけるプロセスは”発見”である。
一方、言語はどうか?
世界中には様々な言語があるが、これらを”発見”と主張する人はまずいないだろう。勿論、失われた少数民族の言語を発見する事はあるだろうが、そういう特異な例外は除く。
例えば日本語が日本人が現れる以前から存在して、日本人がそれを発見して使い始めた、という可能性はゼロだろうから、言語が生まれるプロセスは、ほぼ”発明”となる。
では数学はどうか?
実はこの問題については、数学者の間でも”発見派”と”発明派”に分かれ、統一見解は得られていない。
以下、”数学は発見か、それとも発明か”から一部抜粋です。
発見派の言い分
発見派はこう考える。
数学は、世界のありとあらゆる場面で適用出来る。本書「神は数学者か?〜数学の不可思議な歴史」(マリオ•リヴィオ著、千葉敏生/訳)では、それは”数学の偏在性と全能性”と表現されている。
数学は自然界のみならず、人間の活動を記述する際も使える。
例えば、金融業界にてはブラック•ショールズ方程式というものが存在するが、これは物理学のブラウン運動という現象を記述する方程式から生み出されたものだ。
この様に、自然界の現象を記述する方程式が、人間の営みである金融の世界でも適用出来るというのは、驚くべき事である。
そしてこの偏在性と全能性を説明する為に、発見派は"世界の設計者たる”神”が数学者だったのであり、神は数学を使ってこの世界を生み出した"と考える。
つまり、数学は神が生み出したものであり、数学者はそれを”発見”しただけだと。
この立場を「プラトン主義」と呼び、彼らは、数学は実在するモノだと考えている。
発明派の言い分
一方で発明派は、”数学というのはゲームのルールに過ぎない。だから実在するものとの関連性など不要だ”と。無矛盾性(矛盾する部分がない)が保たれる様に人間が規則を定め、その規則に則って手続きを踏んでるだけと考える立場を「形式主義」と呼ぶ。
確かに、非ユークリッド幾何学の登場により、プラトン主義(発見派)の勢いがどんどん弱まってきてるようだ。しかし「形式主義」の最大の欠点は、”数学の偏在性と全能性”を全く説明する事が出来ない、という点にある。
元々、数学は”発見”するものとして捉えられていたが、現代数学においては、非ユークリッド幾何学の発見など、プラトン主義にダメージを与える要素が様々に出てきた。
しかし形式主義が優勢と言う訳でもなく、形式主義の勝利宣言をしようとしたヒルベルトの野望を、ゲーデルという天才数学者が打ち砕いてしまう。
結局、発見か?発明か?論争は、未だにはっきりと決着がついていない。
非ユークリッド幾何学の衝撃
では何故、非ユークリッド幾何学がプラトン主義に衝撃を与えたのか?
元々、”幾何学”と呼ばれてるものがあり、この(ユークリッド)幾何学こそが神が創造した永久不変の真理である、とかつては信じれられてた。当時は世界を把握する際に、幾何学が抜群の威力を発揮したのだ。
幾何学は基本的に5つの公理から成り立つ。公理とは理屈抜きの根本命題の様なものだが、”平行線公準”と呼ぶ少しややこしいのがある。簡単に説明すると、”2本の平行線は交わらない”というものだ。
しかし昔から数学者たちは、この”平行線公準”を疑っていた。平行線公準は他の4つの公理と比べ記述が長く、公理と呼ぶには相応しくない。故に、他の4つの公理から平行線公準を導けないかと考えた。
次第に数学者たちは、”平行線公準を否定しても幾何学は成立する”と主張した。
つまり、(ユークリッド)幾何学では”2本の平行線は交わらない”というルールでやってるが、”2本の平行線が交わる”というルールでも別の幾何学を作り出す事が出来ると。
この新たな幾何学を、彼らは”非ユークリッド幾何学”と呼んだ。
発見派であるプラトン主義からすれば、幾何学は一つであるべきで、数学は実在するものであり、何種類も幾何学があっては困るのだ。故に、非ユークリッド幾何学はプラトン主義に大きなダメージを与えた事にはなる。
人間のミスから生まれた「結び目理論」
本書の最後では、「結び目理論」が詳細に紹介されている。
この結び目理論は元々、原子モデルを説明する為に作られた理論だったが、その原子モデルは早々に間違いであると判明する。しかし、結び目理論そのものは純然たる数学的理論なのだ。
つまりこれだけを見れば、やっぱり数学は”発見”するもの、つまり神が創ったのかもしれないと誰もが思っただろう。
因みに「結び目理論」とは、”2つの与えられた結び目が同じかどうか?”を数学的に判定&研究する学問で、”柔らかい幾何学”とも言われます。
結び目の定義は単なる単純閉曲線であるが、2つの結び目が同じである事を数学的に言えば、”ライデマイスター移動という3種の変形を行い、一方の結び目の形を他方の結び目の形に変形できる”事とある。
判り易く言えば、あやとりの要領で同じ形に変形できれば、同じ結び目だとみなすのだ。が、あやとりで作る結び目が全て異なると断言するのは難しい。そこで、数学的に相異を判定する為に、ライデマイスター移動で不変の数量や代数系を見つけ、それらを比較して判定する(河内明夫教授)。
しかし突如、この「結び目理論」は脚光を浴びる。何と、生命の根幹を成すDNAと深い関わりがあると判明。更にこの結び目理論は、宇宙の全てを説明するという”万物理論”の候補として注目される”ひも理論”とも関わりを持つ事が分かっている。
この様に、間違いから生まれた理論が全然別の分野で息を吹き返す、というこの実例は、やはり神は数学者なのではないか?と感じさせるだけのインパクトを持つ。
つまり、人が生み出した理論が神が創造したものを説明する。
勢いからいけば、”神様は数学者だった”のかもしれない。
以上、長江貴士さんのコラムからでした。
最後に〜神と数学は同義なのか?
Paul Diracの言葉に、”If there is a God,he's a great mathematician”というのがある。
直訳すれば、”神がいるとすれば、それは偉大な数学者だ”という事になる。
数学が発見か?発明か?という事は差し置いて、偉大な数学者こそが神になれるのか。
”野球の神様”ベーブ•ルースは生まれたものでも、作られたものでもない。天からポトリと落ちてきたのである。つまり、神様が地上に落ちてきたのだ。
同じ様に、偉大な数学者も天から落ちてくる。彼らは(数学に関してだが)ずっと先の事を見通す事が出来る。いや発見してると言った方がいい。そしてその発見を元に、色んな発明を生み出す。
例えば、リーマン予想はリーマンにより発見されたものであり、リーマンにより発明されたものでもある。そのリーマンが(n次元の)非ユークリッド幾何学を体系化し、プラトン主義に鉄槌を食らわせたのは、皮肉ではあるが現実でもある。
因みに、”多様体の計量関係は曲率によって完全に決定される”とのリーマンの演説は、神の声そのものに聞こえる。
勿論それだけで、リーマンが神様だというつもりもない。彼はれっきとした生身の人間でもあり、間違いも犯したろうし、共同研究者の娘にも熱を上げた。
ガロアだって数学を離れれば、ごく普通の悪ガキだった。アーベルだって、数学の巨人ガウスの事を”古狸”呼ばわりした。
エルデシュですら、セルバーグを卑怯者扱いし、そのセルバーグは馬鹿には容赦しなかった。しかし彼らは、数学の世界では誰もが認める神様である。
彼ら偉大な数学者もごく普通の人間である。しかし、彼らは何事もなかったかの様に神の領域に定規を置き、方程式を描き、大きく脚を跨ぐ。神のように全能ではないが、知能では遥かに神を上回ってると言いたげそうにだ。
神が、我らサピエンスが空想で描いたものであるならば、数学は数学者が空想で描いたものである。しかし、その空想は現実のものとなり、その現実を神も数学も支配している。
つまり、数学が実像(現実)である様に、神も実像と言える。いや、数学が実在するものであれば、神も実在する。
そう考えると、神と数学は同義であろうか?それが私の答えである。
それどころか哲学というより神学
ニワトリが先か数学が先かって論争なんだけど
もうどっちもどっちって感じ
でも最後のリーマンの言葉は非ユークリッド幾何学の登場よりも強烈だわ
だって曲率で全ての幾何学が決まると言い切ったんだから
神様ももう少しわかりやすく説明してくださ〜いとは口が避けても言えないわね👅
各々の位置の曲率(テンソル)を調べる事で、歪んだ曲面の幾何学を解明したんですが、それがアインシュタインの相対性理論に結びつき、神の領域である宇宙の神秘が暴かれつつあります。
リーマンが先か?神様が先か?ってレヴェルですよね。
それとも数学者が発見したのか?
少なくとも発明ではない
だって素数は
自然数の中に埋もれてるのだから
だったら自然数は誰が生み出したのか?
アラビア数字(1〜9)というくらいだから
アラビア人だろうか
いや実はインド人(インド数字)なのだ
ではアラビア数字がなかった時代は
人は簡単な記号で数を数えた
ローマ数字は5(Ⅴ)を一区切りとしたし
漢字では正を使えば同じ5が一区切りだ
だったらゼロを発見したのは神様か?
いや紀元前500年頃の古代バビロニア人だ
ただ”0”という表記を使わず
楔形文字を使ってたという
しかしゼロを定義したのは
7世紀のインドの数学者ブラーマグプタだ
仏教でゼロとは空っぽのことだ
何もないではなく、無があるという意味
つまり”0”という数字が存在する
しかしこれ以上突き詰めると
カルト宗教っぽく偽善ぽくなる
でもそう考えると
数も素数も人間が発見したことになる
昔は神学と数学は密な関係にあった。数は万物だったからです。
しかし、#114さんがコメントしたように、数はインド人が作りました。つまり、数は万物じゃなかったんです。
その後、ゼロが定義され、神が創造したとされるユークリッド幾何学が、数学者が発明した非ユークリッド幾何学に置き換わると、神学と数学は逆転しました。
だからといって、神学を軽視すべきでもないが、数学が神学を呑み込んだ形となりました。
ヒルベルトとゲーデルの論争は所詮は、数学を哲学に置き換えての争いです。特にヒルベルトは実直すぎる所がありました。アインシュタインとの論争も無理がありましたし。
私も数学が神を取り込んだとまでは言いませんが、”数学⊆神”、かつ”数学⊇神”とした所で、”数学≡神”といった所でしょうか。
このコメントだけで3000文字のブログ書けます。
つまり、数学の起源も神様の起源もインドの山奥にあったという事ですよね。
ゼロの定義が7世紀に生まれたというのは、少し衝撃でした。
とても勉強になります。いつもコメント有り難うです。
私もこの記号(≡合同)を使いたかったんですが、敢えて(数学的に言えば)同義という言い方にしました。
素数にしても、発見でもあり発明でもあります。そういう意味では、オイラーやガウスの存在ってとても大きいですね。
コメントどうもです。
これは数学は自己の無矛盾性を証明できない事を示し、大きな話題となりました。
特に数学が完全だと信じ切ってる形式主義者にとっては大きな打撃でもありました。
しかしこれは、よく考えれば明らかな事で、数学は完全でないにしても、未だに進化を続けてる学問です。
素数の謎すら解明できてない現代数学に、絶対という文字はない筈です。
神様が完全ではないように、数学も完全ではありません。ヒルベルトの無矛盾性というのも強引すぎますが、ゲーデルの不完全性定理というのも抽象概念に過ぎません。
そういう意味で双方の決着がついてないと言うんでしょうか。
私は数学は元々神と同じく完全な存在であるけれど、われわれ人類は未だにそれを完全に解明していないから完全ではないと思っている。空には星雲と呼ばれるほど多くの星が存在しているけれども、われわれはその全存在は知らないように完全な数学の姿を今は知らない。知ることができたら、人類が神になったということかも。
ヒルベルトは少し極端ですが、ゲーデルはやはり凄いです。
でもpaulサン言われるように、単に数学が完全じゃないという事を証明しただけなんですが、これが当り前のようで当り前じゃない。
ゲーデルも多少の迷いがあったみたいで、それでも最後は突破しました。
何だか書いてて頭おかしくなりそうです。
コメントとても勉強になります。
一方数学は、常に絶対であっては困る訳で、また絶対である筈もないですよね。でももうこの時点で抽象論です。
そうなると、哲学や宗教的考えがニョキニョキとせり出してくる。こうなると手がつけられなくなる。
個人的には数学は自然科学の縁の下の力持ちで留まって欲しいんですが・・・
コメントどうも有り難うです。