森喜朗(元)会長が失言を発してくれたお陰で、東京オリンピック開催が完全に揺らぎ始めた感がある。
ただ、”女性蔑視”だけが大きく取り沙汰されてるが、森氏の本音は”金にならんオリンピックは止めちゃえ”という事だろう。
もし、このまま東京オリンピックが中止になり、その勢いでオリンピックそのものが廃止になれば、森氏は”商業五輪を死滅させた”功労者として、世界に名を残すであろうか?
そういう私は、元々はオリンピックの大ファンだった。しかし、それも旧ソ連が崩壊する前までである。
そこには、”東西の真剣勝負”という真の醍醐味と感動があった。それに比べ、昨今のオリンピックは、まるで子供のお遊戯に近い。
”楽しみたい”とか、生粋な軽いノリの発言が飛び出すようになったのも、旧ソ連崩壊後のロス五輪の頃からだったろう。
真剣勝負の場でなくなったオリンピック
かのカールルイスなんて、フ○チンで走ってたもんな。メディアはまるで、アスリートをバラドルの様に担ぎ上げ、芸能人も多く詰めかける様になった。
”ドリームチーム”という動物園のゴリラみたいな人種が開会式をシラけさせ、それに逆行するかの様に、放映権やチケットは高騰する。
何度も言うが、そこに”セメント”紛いの真剣勝負が存在する筈もなかった。私が小さい頃に味わった感動の欠片すらなかった。
当時日本が狙えるメダルと言えば、体操かバレーボール、それに軽いクラスのレスリングか重量挙げだけだった。
しかし、そこにも旧ソ連や東ドイツ勢が大きく立ちはだかる。まるで、東西に分かれた世界大戦を見てる様な錯覚に陥った。
日本勢が活躍しなくとも、全てが高質なバトルが展開された。互いの感情と因縁がもろにぶつかりあい、殺気に似た鋭い火花を散らす。
オリンピックというより、アスリート達の壮絶な”熱いカーニバル”だった。地球の裏側にまで、肉と肉と骨と骨がぶつかり合う音が聞こえてきそうだった。
勿論、メダルを期待され、国民の期待を一身に背負い、運悪くメダルを逃そうものなら、そのアスリートの人生は完全に潰えたかの様に思えた。
つまり、あの頃はオリンピックそのものが人生の全てだったのだ。
それが今やなんてザマだ。メダリストは皆アイドル路線に走り、面白おかしくオリンピックを語る。
そうでなくとも、メダリストという事で、医学博士にまでなれる時代。いや、フィギアスケートの女王がヌードの女王になる時代。
今やオリンピックはスケパブやデリヘルに群がるエロ親父と同じで、商業五輪が稼ぎ出す大金に、IOCや政治家も含め、ありとあらゆる人種が群がる。
感動がある筈もないのに、陳腐で浅薄な感動を無理やり掘り起こし、派手にコーティングして高価な商品に仕立て上げる。
日本人は未だに、中華製を”安かろう”と蔑視するが、近代オリンピックも今や安っぽい感動を売る”モノ”として蔑視される時代。
”最高でも最低でも金メダル”
”最高でも最低でも金メダル”という誰かさんの言葉を耳にした時、私が考えるオリンピックは死滅した。
オリンピックは選ばれし、鍛え上げられた者同士の真剣勝負ではなく、場末のストリッパー達が演じる安っぽいヌードダンスに思えた。いや、それ以下と言ったら失礼か?
森会長は川淵氏に後任を任せたいらしいが、川淵氏も森に負けないエロ爺に思える。
せいぜい、夜の銀座でパンツを脱いで豪遊し捲くってもらい、東京オリンピックの廃止へ向け、加速してほしいもんだ。
因みに、現時点では小谷実可子(組織委)が有力だとされるが、これで五輪開催の僅かな希望は全く消滅した訳だ。
しかし、クーベルタン男爵からすれば、”古代ローマ帝国の時代で、既にオリンピックの精神は失われてた”とでも言いたげだろうが。まだまだオリンピックの地球規模の質感と感動は維持できてはいた。
旧ソ連の崩壊だけが原因でもないが、ソ連というかつては世界を東西に二分した超大国の消滅は、アメリカのオリンピック熱もソ連に対する異常なまでの対抗意識も消え失せさせた。
結局、近代オリンピックというクーベルタンが失望し蔑視した現代のカーニバルは、米ソという2大国家の為だけにあったのかもしれない。
事実、ソ連崩壊後の商業オリンピックは、IOCとメディアが無理やり作り上げた世界規模の巨大な舞台装置であり、そこには真剣勝負も感動もない。あるのは、安っぽい虚像と放映権という膨れ上がりすぎたバブルマネーだけである。
こんなオリンピックが存在しても、それを夢見るアスリートが可愛そうなだけである。
かつて、何も知らない若者が戦争という巨大な悲劇装置に操られ、太平洋の海に散っていった様に。
最後に〜オリンピックが消滅する日
最近は、スポーツを見ても何も思わなくなった。我らサピエンスはスポーツに何を求めてたんだろうか?
放映権だけが膨らみ、空洞化が止まらないプロスポーツの悲しい行方。空洞化という点では、民主主義や資本主義も勿論だが、オリンピックやSNSも同じだろうか。
全てが空洞化していく人類社会。そして、コロナ渦により空洞化が加速する。
スポーツとは元々、”暇”という意味である。ヒトは暇潰しにスポーツを楽しんでたに過ぎない。やがて、その”暇”を利用し、お金を稼ぐ競技者が現れ、プロスポーツは世界中に蔓延した。
地球上から全てのプロスポーツが消滅したとしたら?我らサピエンスはパニックに陥るのだろうか?それとも何事もなかったかの様に、日常生活を送るのか?
1896年(アテネ)から始まり、1世紀以上も続いた近代オリンピックがもし消滅しても、当り前の様に普通の生活に戻れるのか?
答えは勿論、YESの様に思える。
因みに、293回を数えた古代オリンピックは、数々の戦乱を乗り越え、1169年(紀元前776〜393)の歴史を持つ。もしローマ帝国の支配がなければ、もっと長く続いてたであろうか。
10世紀以上もの伝統を持つ古代オリンピックと比べるべくもないが、僅か1世紀弱で行き詰まりを見せた近代オリンピックとは、雲泥の差である。
サピエンスは、もはやイベントには感動しなくなってる。特に、スポーツイベントが飽和状態にある今、スポーツは感動をもたらすコンテンツとしての存在を失った様にも思える。
スポーツがビジネスとして機能しなくなりつつある今、オリンピックに代わる新たな”熱いカーニバル”を模索する必要があるのだろうか。
私は最初から反対でしたが、開催が決まってからはますます反対の気持ちが強まりました。今や開催するメリットは全くありません。滝川クリステルの「お·も·て·な·し」もオリンピックによって「お·か·ね·な·し」になるのではないかと懸念されます。日本は現在貧困国家にまっしぐらです。
大体、滝クリのこの発言こそが癌だったんですよ。森発言よりも質が悪い。
でも、世界中で変異株が広がりつつありますから、300%開催は無理ですね。それに森の後任も無能しかいないし。
たしかに冷戦時代のオリンピックは鬼気迫る迫力がありましたね。
メダリストという英雄になれば、カネや生活が保障されるソ連~東欧の選手たちは、ドーピングも何のその。人生を賭けていました。
それに対抗する西側の選手たちも、なかなかの覚悟があったように思います。
最近のオリンピックを観ていて思うのですが「覚悟が軽い」気がします。戦い終えてマイクを向けられた日本人メダリストから、よく笑顔で「(支えてくれた方々へ)感謝したい」というコメントを聞きます。つまり「あざーっス」って言ってるのと同じ?
かつて昭和なら安堵の表情、あるいは涙と共に「(支えてくれた方々に)やっと恩返しができた」というニュアンスだったような。
もちろん今も真剣な競技者はいるでしょうが、時代の差・違いを感じます。
では、また。
オリンピックだけでなく、プロスポーツも軽くなりましたもん。
でも森前会長も、命を賭けた割には悲しい結末になりそうですね。今時のオリンピック開催に命を賭ける人って理解に苦しみますが。
時代の違いを感じますよね。
応援します。
オリンピックは社会の一部と言ってたけど
政治の一部と言ったほうが
無観客で開催との声もあるけど
お金にはならないよね
森が逃げ出すのも無理はないな
既に賞味期限が切れた腐った商品が売れるはずもない。ここら辺が丁度いい潮時だと思うけど、森も自身の利権の為に浮かれすぎたのかな。