大阪フィル(2019.03.23)感想その2です。
もう一週間以上過ぎてしまいました。
理由はいろいろですが、怠慢と体調と多忙、ということにしておきます。
後半プログラムはコープランドの交響曲第3番でした。
以前から書いているように、実はアメリカ音楽はそんなに聴いておりません。
贔屓のバーンスタインは別として、他は、アイヴズ、コープランド、グロフェ等の有名どころを年に数回、といったところでしょうか?
今回、大フィル定期のチケットを入手した昨年8月から、手持ちのディスク(バーンスタインの新旧2種、大植英次指揮ミネソタ管、ドラティ指揮ミネアポリス響の4種)をとっかえひっかえ聴いてきました。
正直なところ、今まではさほど魅力を感じるまでに至っていなかった曲でした。
嫌いではないのです。耳に親しみやすくダイナミックでありながら情感豊かでもあります。
先入観かも知れませんが、カラッと乾燥した大地に根差した風通しのよい曲だと感じていました。
反面、ダイナミックな割に(私には)高揚感が乏しく、あるところで天井を打つ感じもありました。
最後の方は「もう限界」って感じでブルックナーやマーラーなど、よく聴いている他の曲で感じる「さらなる高み」「新しい景色」など無しに終結するという印象でした。
裏を返せば、そんなふうにしか聴くことができない自分であったということです。
最近、ネット上の情報で、現在広く演奏されている第3交響曲は、全てバーンスタインによるカットが施された版によるものであることを知りました。
なんでも、バーンスタインがイスラエル初演で(作曲者に無断で)施したカットを後に作曲者も追認し、その楽譜が出版されて流布したとか・・・。
今回、演奏されたのはスラットキンが「復活させた」カットなしのオリジナル版によるものでした。
コンサート前のプレトークでは、そのいきさつも語られ、スラットキンが50年前に入手した楽譜とレコードで聴いた演奏との違いから、彼がアメリカ国立公文書記録管理局に問い合わせ、見せてもらった自筆楽譜が、自分が手にしている楽譜と合致したことから、このオリジナル版への拘りが始まった、というような話でした(なにぶんにも途中から聞きだしたプレトークですので事実誤認があるかも知れません)。
先年、デトロイト響と来日した際も、その版で演奏していたようですが、なんとも間抜けなことに録画ディスクが行方知らずのため確かめることができませんでした。
また、この事実を知ったのが演奏会直前であったこともあり、ノーカット版フィナーレとディスクで聴いてきた従来版との違いを「ちゃんと」確認することもできませんでした。
まあ、このことは(あとになって録画ディスクも見つかったことでもあり)「後追いスタディ」のひとつとして楽しみに進めていきたいと思っています。
それにしても、このカット版が本命版としてずっと使われてきた経緯については、私がネットで調べた範囲では言及されている解説や資料は無く、一般公開ではないフェイスブックでのやり取りの中で教えてもらいました。
なお、甲斐貴也さん情報によりますと、セル指揮ニューヨーク・フィルの演奏もカットなしのオリジナル版によるものとのことです。
さて当日の演奏ですが、これは聴いていて(観ていて)スラットキンのまさに自家薬籠中のものという感じでした。
やはり、家でのスピーカーによる鑑賞とは全く別物。
圧倒的な説得力でした。
全曲がこんなに短く感じられたのは実演とはいえ、やはりスラットキンと大フィルの、まるで何かに憑りつかれたかのような集中のおかげでしょう。
第1楽章では金管の(猛烈な)強奏の頻発に圧倒されながらも、「これ、奏者の人たちは大変やろな」などと思ったりもしました。
躍動的な第2楽章。
染み入ってくる乾いた叙情と軽い舞曲風の部分がインテルメッツォ風でもある3楽章から、讃美歌風の経過句を経て終楽章に繋がっていきます。
どんなフィナーレなのかワクワクしました。
楽章後半のフーガ部分は聴きものでした。
ある程度盛り上がったところで、ガツンと壁にぶつかる局面がありますが、すぐさま牧歌的な曲想に転じ、再びジワジワと前進が始まるあたりは、勝手に「アメリカ的だなぁ」などと思って聴いていました。
最後のカットの有無部分については、やはり残念ながら、その違いはほとんど分かりませんでした。
「ちょっと長いなぁ」って感じた程度。
ああ無念なり、事前のスタディ不足。
しかし、ディスク鑑賞でよく感じていた盛り上がりの「寸止まり感」は、ここでは皆無。
ある種の「景気良さ」を伴ってどんどん高揚していく、その心地よさは格別でした。
幕切れ2分ほど前からのグロッケン等がけたたましく打つ部分のちょっと前くらいが、もしかしたら本来の楽譜の部分だったのかな?
また来日公演の映像と他の演奏を比べて調べてみます。
スラットキンも演奏内容には大満足だったようで、カーテンコールでオケを盛んに称えておりましたが、それ以上に大フィルの面々がスラットキンを盛大に称えて、両者が見合っているところなど本当に微笑ましかったです。
ということで、久しぶりの大阪遠征はおおいに満足して帰ってくることができました。
今度はセンチュリー響や関西フィル、大阪交響楽団などもぜひ聴きに行きたいものです。
もう一週間以上過ぎてしまいました。
理由はいろいろですが、怠慢と体調と多忙、ということにしておきます。
後半プログラムはコープランドの交響曲第3番でした。
以前から書いているように、実はアメリカ音楽はそんなに聴いておりません。
贔屓のバーンスタインは別として、他は、アイヴズ、コープランド、グロフェ等の有名どころを年に数回、といったところでしょうか?
今回、大フィル定期のチケットを入手した昨年8月から、手持ちのディスク(バーンスタインの新旧2種、大植英次指揮ミネソタ管、ドラティ指揮ミネアポリス響の4種)をとっかえひっかえ聴いてきました。
正直なところ、今まではさほど魅力を感じるまでに至っていなかった曲でした。
嫌いではないのです。耳に親しみやすくダイナミックでありながら情感豊かでもあります。
先入観かも知れませんが、カラッと乾燥した大地に根差した風通しのよい曲だと感じていました。
反面、ダイナミックな割に(私には)高揚感が乏しく、あるところで天井を打つ感じもありました。
最後の方は「もう限界」って感じでブルックナーやマーラーなど、よく聴いている他の曲で感じる「さらなる高み」「新しい景色」など無しに終結するという印象でした。
裏を返せば、そんなふうにしか聴くことができない自分であったということです。
最近、ネット上の情報で、現在広く演奏されている第3交響曲は、全てバーンスタインによるカットが施された版によるものであることを知りました。
なんでも、バーンスタインがイスラエル初演で(作曲者に無断で)施したカットを後に作曲者も追認し、その楽譜が出版されて流布したとか・・・。
今回、演奏されたのはスラットキンが「復活させた」カットなしのオリジナル版によるものでした。
コンサート前のプレトークでは、そのいきさつも語られ、スラットキンが50年前に入手した楽譜とレコードで聴いた演奏との違いから、彼がアメリカ国立公文書記録管理局に問い合わせ、見せてもらった自筆楽譜が、自分が手にしている楽譜と合致したことから、このオリジナル版への拘りが始まった、というような話でした(なにぶんにも途中から聞きだしたプレトークですので事実誤認があるかも知れません)。
先年、デトロイト響と来日した際も、その版で演奏していたようですが、なんとも間抜けなことに録画ディスクが行方知らずのため確かめることができませんでした。
また、この事実を知ったのが演奏会直前であったこともあり、ノーカット版フィナーレとディスクで聴いてきた従来版との違いを「ちゃんと」確認することもできませんでした。
まあ、このことは(あとになって録画ディスクも見つかったことでもあり)「後追いスタディ」のひとつとして楽しみに進めていきたいと思っています。
それにしても、このカット版が本命版としてずっと使われてきた経緯については、私がネットで調べた範囲では言及されている解説や資料は無く、一般公開ではないフェイスブックでのやり取りの中で教えてもらいました。
なお、甲斐貴也さん情報によりますと、セル指揮ニューヨーク・フィルの演奏もカットなしのオリジナル版によるものとのことです。
さて当日の演奏ですが、これは聴いていて(観ていて)スラットキンのまさに自家薬籠中のものという感じでした。
やはり、家でのスピーカーによる鑑賞とは全く別物。
圧倒的な説得力でした。
全曲がこんなに短く感じられたのは実演とはいえ、やはりスラットキンと大フィルの、まるで何かに憑りつかれたかのような集中のおかげでしょう。
第1楽章では金管の(猛烈な)強奏の頻発に圧倒されながらも、「これ、奏者の人たちは大変やろな」などと思ったりもしました。
躍動的な第2楽章。
染み入ってくる乾いた叙情と軽い舞曲風の部分がインテルメッツォ風でもある3楽章から、讃美歌風の経過句を経て終楽章に繋がっていきます。
どんなフィナーレなのかワクワクしました。
楽章後半のフーガ部分は聴きものでした。
ある程度盛り上がったところで、ガツンと壁にぶつかる局面がありますが、すぐさま牧歌的な曲想に転じ、再びジワジワと前進が始まるあたりは、勝手に「アメリカ的だなぁ」などと思って聴いていました。
最後のカットの有無部分については、やはり残念ながら、その違いはほとんど分かりませんでした。
「ちょっと長いなぁ」って感じた程度。
ああ無念なり、事前のスタディ不足。
しかし、ディスク鑑賞でよく感じていた盛り上がりの「寸止まり感」は、ここでは皆無。
ある種の「景気良さ」を伴ってどんどん高揚していく、その心地よさは格別でした。
幕切れ2分ほど前からのグロッケン等がけたたましく打つ部分のちょっと前くらいが、もしかしたら本来の楽譜の部分だったのかな?
また来日公演の映像と他の演奏を比べて調べてみます。
スラットキンも演奏内容には大満足だったようで、カーテンコールでオケを盛んに称えておりましたが、それ以上に大フィルの面々がスラットキンを盛大に称えて、両者が見合っているところなど本当に微笑ましかったです。
ということで、久しぶりの大阪遠征はおおいに満足して帰ってくることができました。
今度はセンチュリー響や関西フィル、大阪交響楽団などもぜひ聴きに行きたいものです。
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