今日は父の命日。
9年になる。
父が亡くなった日のことは、今までにも何度も書いたと思うから繰り返さないが、あの日は偶然が重なって、たまたま居合わせることができたのだった。
父は、はっきり言うことはなかったが、反戦主義、反天皇制であったことは間違いないと思う。
残っている父が書いたものに、そういう記述がいくつもある。
その想いの源になっているのが、たぶん、召集されて鳥羽近辺で送った兵役生活ではないかと思う。
戦地こそ行っていないが、「狂気の訓練」の毎日だったようで、心を病んで命をなくした友もいたらしい。
そんな父も、東京旅行で真っ先に訪れたのは靖国神社であった。
「戦争で死んだ友達に会える唯一の場所」だったらしい。
違憲だとか公式参拝だとか違うとか、そんなこととは全然別のところに靖国に対する父の思いがあったのだと思う。
父関係の記事の一部↓
父の命日だったが・・・
年忌
命日
父の手紙~1945年5月
9年になる。
父が亡くなった日のことは、今までにも何度も書いたと思うから繰り返さないが、あの日は偶然が重なって、たまたま居合わせることができたのだった。
父は、はっきり言うことはなかったが、反戦主義、反天皇制であったことは間違いないと思う。
残っている父が書いたものに、そういう記述がいくつもある。
その想いの源になっているのが、たぶん、召集されて鳥羽近辺で送った兵役生活ではないかと思う。
戦地こそ行っていないが、「狂気の訓練」の毎日だったようで、心を病んで命をなくした友もいたらしい。
そんな父も、東京旅行で真っ先に訪れたのは靖国神社であった。
「戦争で死んだ友達に会える唯一の場所」だったらしい。
違憲だとか公式参拝だとか違うとか、そんなこととは全然別のところに靖国に対する父の思いがあったのだと思う。
父関係の記事の一部↓
父の命日だったが・・・
年忌
命日
父の手紙~1945年5月
そうでしょうね。父にとってはそうだったと思います。
「○○○○ばんざ―い!」と叫んで散っていった友、革靴の底を見て、「これ、ひょっとして食ったら美味いかも知れん」と言っていた友、道端に吐かれた誰かの痰が美味そうな生牡蠣に見えた友・・・父の口からそういう友のことを聞いたことがありますが、そんな時代を生きた人にとっての靖国は、様々に論じられたり政治家が大挙して参拝したりすることとは無縁の、大切で悲しい場所だろうと思います。
私には想像がつかない感情ですが、考え続けたいと思っています。