LanguageStyle

■「日本人と英語」を考えてゆくブログ

あと10日となって

2008年02月28日 | 記事
 最近は頭痛が続き、体調の悪い日が続いています(現在も絶不調)。もう1ヶ月以上になるでしょうか。その間、インフルエンザにもかかってしまい、最悪の状態です。ブログ記事の更新もほぼ1ヶ月の間、怠ってしまいました。
 ところで、中学校英語講師としての生活もあとわずかとなりました。数えてみるともう10日も行く日はありません。後期期末試験やら卒業式(予行と本番)やらで通常の授業がキャンセルされる日が続くためです。この一年をそろそろ振り返る時期でしょうか。

全体的な印象

 この一年、私は教師でありながら教師ではない気がしていました。心のどこかで「自分は教師は不向きだ」と思っているせいかもしれませんが、時には新聞記者的な目で、時には評論家的な目で、時には一人の一般人として子供たちの姿を見てきましたし、英語教育にかかわってきました。現在の子供たちはどんな姿勢で勉強に取り組んでいるのか、現在学校で行われている英語教育ではどのような教育が行われているのかについて私は現場にいながら、一歩引いた視点で眺めてきました。教育者というよりは観察者であり、英語教師というよりは一人の英語指導実践者といった感じです。
 この一年を通しての全体的な印象を一言で言えば「英語ができる日本人の育成の前に我慢ができる日本人の育成を目指すべきではないか」ということです。以前も同じように書きましたが、学校現場に入っては思い知らされたことはいつが誰かが言っていた「生徒にする」という言葉のリアリティーです。生徒というのは「学ぶ主体」です。子供たちは中学に入ると「児童」から「生徒」になるわけですが、校門をくぐったからといって「生徒になる」というわけではないのです。授業中の私語、暴言、立ち歩き、席移動に始まり教室外へのエスケープやトイレへの引きこもり、他クラスの授業妨害などなど子供たちの問題行動を挙げだすとキリがありません。授業中の居眠りなどは私の中学時代には考えられませんでした(高校時代はよく寝たな~)が、居眠りは普通のこと。授業中に本を読んでみたり、マンガを開いてみたり、プリクラ帳を必死に眺めたり、クラスメイトにお手紙を書いたり、他教科の提出物(いわゆる内職)をやってみたりと子供たちはやりたい放題です。中には授業中に飲食をする子どもまで現れる始末です。教室にストーブが入る季節になると、ストーブの前にかじりついて動かない生徒がいたり、夏には扇風機の前で「暑い、暑い」と言いながら好き勝手にする生徒がいたり、子供たちが生徒ではない現実が学校現場にはあるわけです。席移動をしている生徒に対して自分の席に戻るように促して、実際に自分の席に戻らせるまでに10分。教室外へ飛び出す生徒を追いかけて教師に戻すまでに数分から数十分。講師の私が生徒指導的なことまでなぜしなければいけないのかと愚痴もこぼしたくなりますが、TTの補佐役としての私の立場は授業中の生徒指導がほとんどでした。
 生徒主体の授業と教師主導の指導。
 教師主導で何とか乗り切っていくほかないという考え方を現実的な判断として採用せざるを得ない現実があるということは言えるでしょう。
 もちろん、問題行動を起こす子供たちにも同情の余地はあるわけです。印象としてはまずもって問題行動を起こすような生徒は家庭環境が整っていない場合がほとんどです。親が教育放棄をしている、親が離婚を繰り返しているなどなど子供たちを取り巻く環境が子供たちにとってふさわしくないケースです。規範意識が極めて低い親がいることも子供たちを落ち着かせない原因かもしれません。自分の子供が学校の机に落書きをしているため、学校に親を呼んだとき、「何がいけないのですか」というトンチンカンな親がいる。本来は親になってはならないような人間が親になってしまっているということです。生徒指導、あるいは進路指導の中でこのままでは進学が危ないということを絶えず言ってきたにもかかわらず、いざ高校進学の段になって「高校に入れなかったら先生を一生恨みますから」と平気で言う親がいる。親が親でなく、単なるイチャモンファイターになってしまっている現実が現場にはあるわけです。授業参観をすれば参観に来た親同士が学校の中で喧嘩をはじめる。翌日、学校の教員がその親同士の仲裁のために電話をかけなければいけない。学校の教員の仕事の中には親同士の仲直りも含まれるのだという新発見をしたわけですが、このような現実にはただただあきれるばかりです。
 子供を生徒にすることが最初に取り組むべき学校の仕事です。学ぶ主体を作るということが生徒にすると言う意味ですが、そのためには自分はこの子の親だと称する人間に親になってもらう必要もあります。学校、家庭、地域という3つの方向からの支援で持って子供たちを育てていくという考え方は至極まともな考え方ですが、これらの3つの重要性はそれぞれ対等ではないはずです。なんといっても親が大事なのは当たり前。そのようなことをこの一年学びました。

英語教育について

 「英語の前に我慢」という私の印象はもちろん印象の域を出るものではありません。英語は英語であり、我慢は我慢。両者は別物と考える人もいるでしょう(私がそのように考えないのはいうまでもありません)。私の基本的な考え方としては英語などたいして重要ではなく、我慢ができるほうが何倍も何十倍も何百倍も重要なのだというものがあります。英語が必要な場面と言うのはそれほど経験するものではありませんが、我慢はどんな場面でも必要な力です。次のように言われた先生がいますが、私は全面的に賛同します。

授業中に遊んでいる子がいれば他の勉強したいと思っている子が迷惑をする。その代わり寝ているのはかまわん。迷惑かけんように寝とき。もっといいのは、じっとしておくこと。それが105回あるけどな。3年間で315回あるから、もしそれを勉強分からんけど50分あと何分と重いながらじっとしておくことができたら、君は英語を楽しんでいる子達よりもはるかに社会人の勉強が出来る。耐えるということ。


 これは半ば冗談として語られたものなのでしょうが、本質を突いていると思います。そういえば田尻科研では次の言葉も登場しました。

下手な教師は「教える」
上手な教師は「学ばせる」
優れた教師は「心に火をつける」


 このことばの出展がハッキリしましたので以下に載せておきます。

アーサー・ウイリアム・ワード(Arthur William Ward)


The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.

下手な教師はしゃべる。
良い教師は説明する。
優れた教師はやってみせる。
偉大な教師は心に火をつける。


 英語教育について英語指導実践者として感じたことについては場を改めて書きたいと思います。体の調子が悪いので今日はこのへんで。

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