峡中禅窟

犀角洞の徒然
哲学、宗教、芸術...

汝自身を知れ...01

2012-08-11 15:04:22 | 哲学・思想

汝自身を知れ...01

古代ギリシアのデルフォイアポロン神殿の入り口には、神託を聞きに来る人たちに対して、次のような言葉が掲げられていたという。

1:汝自身を知れ(gnothi seauton)

2:度を超すなかれ(過剰の中の無(meden agan))

3:できないような誓いは為すな(誓いの傍らの破滅(engua para d'ate))

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こうした箴言が、当時一体どのように受け止められていたのか...今となっては、知るよしもない。そもそも、神憑り状態になった巫女が語る、譫言のような形で告知される神託そのものが、当時にあっても、既に難解なものであったのである。

アポロン、と言えば、ディオニュソスのことを思い浮かべる人もいるであろう。

ディオニュソス的-アポロン的」という対概念は、ニーチェ『悲劇の誕生』の中で用いて以来、混乱-調和、熱狂-冷静...といった形で私たちにもなじみのあるものとなっているが、狂乱と陶酔の神、ディオニュソスとは異なり、芸術の神、調和の神というイメージをもたれているアポロンは、そのイメージとは裏腹に、その神託の晦渋さ故に、「ロクシアス(ひねくれ者)」という呼ばれ方をされもしていたという。

さて、「汝自身を知れ」について...

この言葉が、少なくとも「身の程をわきまえよ」「自分の分を知れ」という意味合いの強いものであったことは、間違いない。それは、他の二つの箴言からもよくわかる。

度を超すなかれ」...神託を求め、あるいは神々に頼み事をする時には、自分の身の丈に合ったものにしておけ、自分の分限をわきまえた振る舞いをせよ...そして、

できないような誓いは為すな」...神々の前で、みだりに誓いをするな。おのれのできることをしっかりとわきまえて、偽りの振る舞いをしないように注意せよ、さもなければ、神々の怒りを買い、身の破滅を招くことになる...ちなみに、これは、今日では特にイスラム教徒が大切にしていることでもある。

古代ギリシアの精神世界には、「不死なる神々」「死すべき人間」という区別は、厳然として存在する。「死すべき者」である人間は、知恵においても、振る舞いにおいても、決して清浄なる神々の領域を侵してはならない。自分の分限をはっきりと知り、その分限の中にとどまらなくてはならない...。

だから、倫理思想という側面から見れば、古代のギリシアの感覚では、「慎み(aidos)」「熟慮(sophrosyne)」「分限(metron)」が徳であり、「傲慢/高ぶり(hybris)」は、破滅をもたらすものである、と。

「汝自身を知れ」とは、人間の定め、分限、限界に対する鋭い感覚に裏打ちされたものなのである。

 

そして、有名なソクラテスの「無知の知」...ここにも、その同じ感覚が生きている。というよりも、ソクラテスの「無知の知」は、まさしくこのアポロン神殿の神託がきっかけとなって生まれてきた思想なのである。

ソクラテスの弟子カイレフォンが、アポロン神殿で「ソクラテスほどの知者はいない」という神託を授かってくる。自分のことを「知恵ある者(ソフィスト)」だとは思っていなかったソクラテスは、アテナイの街に出かけていって「知恵者」だとされる様々な人たちを訪ね、話しかける...

ソクラテスの出した結論は、自分はもちろん、知恵ある者ではない。そして、アテナイの街で知恵ある者だと言われている人々も、本当の知恵者ではなかった。ただ、彼らは、自分たちが知恵ある者だと思い込んでいる。そして、自分だけは、おのれが知恵ある者でないことを知っていた...だから、自分のこの「無知」の自覚こそが、神託の意味するものなのだ...と。

しかし、ソクラテスの「無知の知」は、一歩間違えば、私は知っていることもあれば、知らないこともある...あるいは、私には、まだ知らないことが沢山ある...といった程度の内容になってしまう。もちろん、「無知の知」という思想が言わんとすることは、そのようなことではない。

大切なことは、知恵ある者、と言われている人々であっても、人間の知というものは、所詮はたいしたものではない、ということ...どれほど知識があろうと、「死すべき者」という定めは変わらない。しかし、それでは、本当の意味での知恵とは、一体いかなるものであるべきなのか? 

人間は知によっては「死すべき者」という定めを超えることはできない。それならば、あるべき知の在り方とは、どのようなものなのか? 

「汝自身を知れ」という箴言が告げていることは、ソクラテスにとっても、まず第一に「おのれの無知であることを知れ」ということである。それはすなわち、おのれの限界を知れ、おのれの限界、分限をわきまえよ、ということになる。

そして、ここで考えるべき事は、例えば人間の分限とは、まず第一に、「死すべき者」であるということなのであるが、例えば「死」のように知識---そして知識がそうであるからには、技術も---が通用しない限界線に突き当たるとき、人間は本質的に「無知」にならざるをえないということ。そして、「死」に限らず、人間が自分の本質に向き合わなくてはならない場面というのは、常に自分自身の限界に突き当たる時であるということ...。自分自身の本質が露呈されるような場面、本当の自分自身に向き合わざるを得ないような場面においては、常に私たちは本質的に「無知」なのである。

だから、大切なことは、この私たちの本質的な「無知」という在り方をきちんと引き受けること...

本質的なことではない知識に目を奪われて、あたかも知り得ない自分たちの限界線を知っているかのように自分を誤魔化すことではなく、知り得ないことを、知り得ないこととして、引き受けるための知を身につけること...

ソクラテス的な知性にあっては、それが哲学に他ならない...哲学は「死の練習(melete thanatou)」なのである...。

 

 


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