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映画『ミス・マルクス』に寄せて

2021年10月11日 | 革命のディスクール・断章

ある場所で映画『ミス・マルクス』について書いていたら、5000字を超えてしまった。長過ぎる。そして、この文章を読むのは、マルクスの名前なんて、聞いたこともない(聞いていても覚えていない)人たちばかりである。制限文字数500字のところ、レイアウトを変更して750字にしてもらったら、私の言いたいことはそこで全部言い切ることができた。

残りの4250字は、一体なんだったのだろう。この部分については、ブログで活用することにしたい。

カール・マルクスの三人の娘のなかで、エリノアだけが、父の理想を受け継ぎ、勇敢で率直で、疲れを知らぬ社会主義の闘士に成長した。

しかしエリノアは忘れられた革命家である。その死の真相についても、長く語られることはなかった。

元夫のエイヴリングが、エリノアの遺骨の引き取りを拒否したため、彼女の骨壺はイギリスの社会民主連盟(SDF)預かりとなった。1920年、SDFの後継団体イギリス社会党がほかの小党派と合流してイギリス共産党を結成すると、翌1921年、当時施行中の「緊急権限法」によって警察は党本部を襲撃、エリノアの骨壺を押収してしまう。その後、彼女の骨壷は返還されたが、以後はクラーケンウェル・グリーンにあるマルクス図書館に移管された。エリノアが安住の地を見つけたのは、死後半世紀以上も経った、マルクス家の新しい墓標が入ゲート墓地に建立された1950年代後半に入ってからだった。

エリノアの死は、直接にはエイヴリングの裏切りが原因だった。彼には法律上の妻がいたため、エリノアとは事実婚だった。しかし妻の死後、彼は若い女優と入籍してしまい、エリノアの立場は情婦となってしまった。彼女に死を決意させたのは、この裏切りを告発する匿名の手紙だったといわれる。

しかしエイヴリングの裏切りはトリガーにすぎない。背景には、マルクスの後継者の座をめぐるセクト争い、マルクスの婚外子(エリノアの異母兄)の発覚、そしてエンゲルスの愛人の存在など、さまざまな要因が絡み合っていた。エリノアの死について長く語れることがなかったのも、それがマルクス・エンゲルスのスキャンダルに関わっていたからだと思われる。

ロシア革命後、ロシア・マルクス主義が覇権をふるうなかで、エリノアがエンゲルスの一番弟子である「背教者」カウツキーと近しい立場だったことも、レーニンやその後継者のスターリニストたちには都合が悪かったにちがいない。カウツキーと離婚したルイーゼは、エンゲルスの愛人となり、ベルンシュタインと組んで、元夫のカウツキーやエリノアと、エンゲルスとの仲を引き裂くために、さまざまな嫌がらせを行っている。


都築忠七『エリノア・マルクス』の原著は英語版で、1967年に刊行されている。しかし日本語版が刊行されたのは、1984年のことだった。日本語訳が遅れた理由を、著者は「執筆当時の情熱を正確に再現することが到底不可能」だったからだと説明する。刊行当時ロンドンやパリに滞在し、フランス五月革命前夜の空気のなかで、マルクスの神格化を拒否し、エリノアを通じて「人間マルクス」の実像に迫った著者が、1970年代に入るとともにテロリズムに傾斜していった「新しい」左翼運動に幻滅し、マルクス主義に興味を失ってしまったのも、想像するのは難しいことではない。

そういえば、左翼の誰かが、マルクスが(お馬ごっこの)「優秀な馬だった」という幼女時代のエリノアの回想以外に、エリノアのことを話題にしているのを聞いたことがない。ピエール・デュラン『人間マルクス』(岩波新書)にも長女のイェンニーと二女のラウラの肖像写真は載っているけれど、三女のエリノアの写真だけはない。

マルクスが娘たちを愛していたのは間違いない。エリノアも生涯にわたって父親に深い愛情と敬意を寄せ続けた。しかしマルクスはもちろん、社会主義フェミニズムのパイオニアのエリノアも、男は男らしく、女は女らしく、女性は男性のケアをして当然だという性役割観、道徳観から自由でなかった。

マルクス夫妻の晩年、エリノアは好きな演劇の仕事に進むこともできず、元パリ・コミューンの闘士のプルードン主義者のフランス人ジャーナリストの婚約者との交際も反対され(結局婚約破棄している)、父の秘書を務め、姉ジェニーの遺した遺児たちの世話をみて、そして両親の看病や介護に明け暮れた。父の死後、ようやく自由を手に入れたエリノアが恋に落ちたのは、若い頃にエリノアとも交流のあったバーナード・ショウいわく、「金と女にかけては、まったく良心のかけらもない」エドワード・エイヴリングだった。

エイヴリングには浪費癖があり、エリノアがエンゲルスや友人たちから受け継いだ遺産をすべて使い果たしたばかりか、同志たち・友人たちに借金をしまくり、さらに外に愛人をつくりまくった。エリノアはさんざん苦労をかけられながら、蒸発癖のあるエイヴリングが帰ってくると、映画でも描かれたように甲斐甲斐しく世話をしてしまう。

映画のラストで、エリノアはメイドに薬局に毒薬を買いに行かせるが、ここは事実とは少し違っている。メイドが薬局に出かけた時点では、エイヴリングは家にいた。エリノアが自殺に用いたクロロフォルムと青酸は、当時も一般人には入手できない。薬局の主人は自然科学者でもあった「ドクター・エイヴリング」を開業医と思い込んでいたようだ。メイドは「犬用にクロロフォルムと少量の青酸を使者に渡してください。 E. A」と書いた覚書と、エイヴリングの名刺を持って薬局に赴く。

「E. A」はエイヴリングのイニシャルである。しかしメイドはエリノアの指示で薬局に行ったと証言しており、この覚書を書いたのがエイヴリング本人だったのか、エリノアが代筆したのかはわからない。

エリノアは過去に自殺未遂事件を犯しており(映画で、「過去にアヘンでひどい目に遭った」と語っているエピソードがそれである)、エイヴリングにもよく自殺をほのめかしたそうだ。しかし今度ばかりは彼女も本気だと悟ったのだろう。『エリノア・マルクス』の都筑氏は、エリノアはエイヴリングに一緒に死ぬように訴え、エイヴリングも運命を共にするように彼女に告げたのではないかと想定している。

メイドは毒薬の購入者が署名しなければならない帳簿を持ち帰り、エイヴリングがいた部屋に入り、エリノアがかわりに署名したと思った──と、彼女は証言している。しかし事の重大さに驚いたエイヴリングは、「町へ出かける」とエリノアに告げて、運命を共にすることなくロンドンに出かけてしまう。エリノアは二階の部屋に行き、顧問弁護士にあてて手紙を書き、エイヴリングにも短い手紙を残した。その手紙は最後の最後になっても、「愛する人よ、もうすぐすべてが終わります。あなたに送る私の最後の言葉は、この長い、悲しい年月、私がいい続けてきた言葉──愛です」と変わらない愛を伝えるものだった。彼女は、風呂に入り身を清め、白の衣装を身につけて、永遠の眠りについた。


エイヴリングは誰かに似ていると思ったら、「人間は恋と革命のために生まれて来たのです」ということばを残した太宰治だった。

太宰は素晴らしい文学作品を残したが、金と女にだらしなかったところは、エイヴリングによく似ている。太宰と心中死した山崎富栄は、父親の美容学校の再建と自身の美容院を持つために、現在の貨幣価値で一千万とも二千万ともいわれる貯金を持っていた。しかしこの貯金は、太宰の飲食費、医療費、交際費のために、わずか一年足らずで使い果たされてしまった。太宰は彼女にこれだけ尽くしてもらいながら、心中するどころか別れたくて仕方なかったことは、周囲の証言からも明らかだ。8人の愛人との別れ話を描く構想だった遺作の『グッド・バイ』も、最初に捨てられるのは富栄と同じ美容師である。このころには、新しい女子大生の恋人ができていたようで、別れ話も切り出している。『人間失格』という偽悪的なタイトルのネーミングセンスは、そんな自分を開き直っているようにしか見えない。


太宰とエイブリングの違いは、太宰には主観的には良心のかけらは残っていて、約束どおり女と一緒に死んだけれど、エイヴリングは死なずに自分だけが生き残ったところだ(エイヴリングも4ヵ月後には死ぬのだが)。佐藤金三郎『マルクス遺稿物語』(岩波新書)の著者急逝にともない終章の筆をとった伊東光晴が簡潔にまとめているように、「エイヴリングは、彼女が自殺するように、薬品を用意し、急いで友人のところに行き、アリバイをつくり、彼女の死を待ったのである」という、状況的には完全に自殺幇助罪というほかにないものであった(エリノアのために告訴しようという動きもあったようだが、このスキャンダルがブルジョアジーや警察権力に利用されることを恐れたのだろう。結局告訴を免れている)。

裏切られて死の旅に旅立つ直前にもなお、永久の愛の言葉を遺したエリノアに較べ、エイヴリングは葬儀の前日にフットボールに熱中するような男だったそうだ。永年連れ添った妻が死んだというのに警察の取り調べにも他人事で、取調官も呆れた感じの調書が残されている。

エイヴリングのどこが良かったのか、私には理解しかねるが、猫好きだったエリノアの目には、勝手気ままなこのダメ夫が猫のようにかわいく見えていたのかもしれない。エリノアの「トゥッシー」というあだ名は父マルクスによる命名で、幼い彼女が子猫(pussy)好きだったからだ。映画でこの単語を口にするわけにはさすがにいかなかったようで、劇中のエリノアは由来を聞かれて適当にはぐらかしていた。

歴史にIFは禁物だ。しかし、私はこう思わずにいられなかった。もしエリノアがエイヴリングに出会っていなかったら? せめてあの男と別れることができていたら? 

1898年、彼女の死の当時、ロシアのウラジミール・レーニンは18歳だった。しかしすでにマルクス主義革命結社 「社会民主党」のいっぱしの幹部であり、シベリアの流刑地にあった。レーニンを批判した17歳のローザ・ルクセンブルグも故郷のポーランドからドイツに移っており、すでに戦闘的マルクス主義活動家になっていた。死の当時、43歳の若さだったエリノアが、死ぬことなく、ロシアやドイツの若い革命のリーダーたちと合流を勝ち取っていたら、ロシア革命やその後の社会主義の展開も、だいぶ性格の異なったものになっていたのではないだろうか?



しかしロシア革命が一党独裁のスターリン主義に変質してしまったこと、同志ローザや同志リープクネヒトが昔の同志である社会民主党政府とその手先に虐殺されたことが、どんなに許しがたいことであったとしても、歴史を変えることなどできはしないし、誰よりもエリノア自身が、自分自身が生き残るIFなど望まないであろう。

映画でこんなシーンがあった。亡き姉のジェニーの残した甥っ子のジョニーが、祖父マルクスの死を嘆き悲しみ、夜眠れずにエリノアにこう尋ねるのだ。

「ねえ、トゥッシー、死後の世界はほんとうにないの?」

「そうよ」と彼女は笑って答えていた。「もし死後の世界があったら、おじいちゃんは今ごろ地獄で焼かれているわ」

人生は一度限りだから生きる値打ちがある。IFの世界も死後の世界もないほうがいいに決まっている。

もしエリノアがエイヴリングに出会うことがなかったとしても、また別のダメンズに出会っていただけだろう。エイヴリングと別れることができたとしても、彼女を死に追いやった古い社会主義の誤りや歪みはそのままであり、彼女にはいずれ破産や挫折が待っていたはずだ。

映画『ミス・マルクス』では、エリノアは死の前日、アヘンを吸い、パンクロックに合わせて激しく踊りまくる。時代考証的にはありえない演出である。しかしこのシーンがポスターや予告編のキービジュアルになっている。常にだれかのために生きてきた「人形」「子猫」だった彼女が、生まれて初めて、自分のためだけに怒りも悲しみもすべて解き放って、「不良」(パンク)になりきる、圧巻のクライマックスであった。


 

中央 v労働者集会で演説するエリノア(ロモーラ・ガライ)。右がエイヴリング(パトリック・ケネディ)。


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