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Hell is Too Crowded 立花隆の死にあたって 『中核vs革マル』断想

2021年06月23日 | 革命のディスクール・断章
 きょう、立花隆の訃報が伝えられた。享年80歳で、1940年生まれだったことを知る。「もうそんな年齢だったのか」という思いと、「まだそんなに若かったのか」という思いの両方がある。

 20年ほど前、近所の書店で、『中核vs革マル』が講談社文庫の棚に並んでいるのを見て驚いたことがあった。いまどき誰が読むのかと考えたのだ。

 最近も、さらぎ徳二さんに関する文章を書くにあたり、ネットで検索してみたところ、今でも新刊が入手できることを知り、再び驚くことになった(結局、購入することはなかったが)。Amazonのレビューを見る限り、新しい読者も獲得しているようである。

 学生運動家の間では、党派や立場を超えてよく読まれていたようだ。新左翼の歴史の入門書でもあり、文庫で入手しやすかった。

 しかし私が「現役」だった1980年代はすでに階級闘争「冬の時代」だったが、いまの新左翼運動の衰退ぶりは当時の比ではない。本書が今も版を重ねるのは、警察と大学当局関係者のニーズだろうか?

 あるシンパの人は、講談社文庫版『中核vs革マル』上下巻を、3セット持っていた。中核派も表向きは「ブルジョア・ジャーナリスト」による本書を批判していたが、当時(いまはどうか知らないが)は事実上の独習指定文献であった。党史としてまとまった本がない中で、よくも悪くも客観的、第三者的で、便利だったのだろう。その人は日共民青からも、熱田派支援セクトからもオルグを受けたことがあり、「この本を読めば、いかに中核派が危険な犯罪者集団なのかがわかる」と本書を薦められたそうで、結局、3セット揃ってしまったのである。

 私はこの本を、やはり独習指定文献だった羽仁五郎の『君の心が戦争を起こす』に従って、中核派の主張には赤マーカー、カクマル派の主張には青マーカーを引きながら読んだ。しかし羽仁の元々の言葉は、こういうものだった。

 「新聞を読むときは、未来につながる記事は赤鉛筆で、未来を妨げる記事には青鉛筆を引いて読め」

 新左翼黎明期はともかく、本書のどこに「未来につながる」記述があっただろう? もし羽仁の教えに忠実にいくなら、青で埋め尽くすしかなかったのではないか。私は中核派と戦列を同じくしたけれど、海老原殺しの沈黙には納得できず、革共同はむろん、マル学同にも結集することはなかった。

 カクマル「戦争」の歴史について振り返るたび、「あれだけの労力と犠牲を払っていたら革命も可能だったかもしれない」と思わないでもない。しかし人間は破壊や蕩尽には夢中になれても、創造や建設の困難さからは逃亡したくなるようである。

 立花隆がプロレスを否定していたことは、きょう、ある人のつぶやきで初めて知った。『プロレス少女伝説』が大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した際、立花隆は選考委員の一人として、ただ一人本書の受賞に反対。その理由をこう説明したという。

 〈作品としての構成力や文章力は十分に賞をとるに値する。しかし、プロレスという題材がいけない、プロレスというのは「知性と感性が同時に低レベルにある人間だけが楽しむことができる」もので、その特殊な世界の中でのできごとなどは、わざわざノンフィクションとして世に問うような大事な出来事などではない〉

kobo みんなの感想
https://honto.jp/ebook/pd-review_0610131465.html

 これはプロレスファンも怒って当然である。それをいうなら、「中核・革マル戦争」こそ、新左翼という「特殊な世界でのできこと」であり、「わざわざノンフィクションとして世に問うような大事な出来事」でもなかったのではないか? 

 阪神淡路大震災の直後、神戸を訪ねた日の帰り、ホテルのラウンジから、何事もなかったかのように平穏な大阪の夜景を眺めた。私は古い仲間に、「われわれの『戦争』も、せめて1万人程度の死者を出していたら、若干の現代史的意味もあったかもしれない。しかし神戸からほんの30キロ、40キロ離れただけで、この別天地だ。(先制的内戦戦略の)フェイズI(カクマル殲滅「戦争」)も、フェイズII(革命的ゲリラ・パルチザン「戦争」)も、市民社会に何の打撃も与えることはできなかったし、死者たちもすぐに忘れ去られたろう」という意味のことを語った。しかしわれわれは、誤爆の犠牲になった方々も含めて、死者を忘却の彼方に追いやるわけにはいかなかった。

 『中核vs革マル』は新左翼運動がその短い歴史を閉じていった、同時代の貴重なノンフィクションだった。大阪の夜景を眺めていた私は、 まさか同書がいまも版を重ねているとは思いもよらなかった。反面教師にしかならないが、両派の抗争の歴史が残ったことには、後世の革命家や活動家のために大きな意味があるだろう。しかし『プロレス少女伝説』に関する発言を見る限り、立花氏には自分で自分の仕事を意義を否定しかねないような、危うさ、怪しさもあったようである。

 本書には、私にとって直接間接の知人たちが数多く登場する。その大半が鬼籍に入った。地獄はいつも悪人で溢れている。この貪欲なジャーナリストは、死んだ後もテーマにもインタビューイにも事欠くことはなさそうである。



 

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