新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

十二月八日

2023年12月08日 | 革命のディスクール・断章
今日の記事は2005年に書いたエントリの再々掲です。2005年12月8日、非公開ブログ「革命のディスクール・断章」に掲載、その後、2012年3月3日にこの本ブログに再掲したものです。


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<きょうの日記は特別に、ていねいに書いて置きましょう。昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経って日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私のこの日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。だから文章はたいへん下手でも、嘘だけは書かないように気を附ける事だ。>(「十二月八日」太宰治)

 開戦当時にはすでに隣組を通じて物資統制が行われていたこと、配給が隣組を通して行われていたことを知ったのは、この作品だった。隣組制度は、国家総動員法とともに開戦一年前には成立していた。

 しかし9世帯ある隣組に、酒の配給が六升しかない。一升瓶を持ち寄り酒を九等分するディテールに、作家の眼の確かさを感じる。

 開戦のニュースを聞いた「私」は、隣室で寝ているはずの夫に知らせようとする。しかし「あなた」と言いかけると、すでに目覚めていて、「知ってるよ。知ってるよ。」という緊張した声で返事がすぐに返ってくる。いつもの朝ねぼうが、けさに限って早くから目覚めていることに、さすがは芸術家、虫の知らせかと妻はいったん感心する。しかし、この作家先生は、「西太平洋って、どの辺だね? サンフランシスコかね?」と、とんちんかんな質問をして、聡明な妻を呆れさせる。誤りを指摘されると、作家は不機嫌になり、次のような珍説を展開する。

 「しかし、それは初耳だった。アメリカが東で、日本が西というのは気持の悪い事じゃないか。日本は日出ずる国と言われ、また東亜とも言われているのだ。太陽は日本からだけ昇るものだとばかり僕は思っていたのだが、それじゃ駄目だ。日本が東亜でなかったというのは、不愉快な話だ。なんとかして、日本が東で、アメリカが西と言う方法は無いものか。」

 めちゃくちゃだ。思わず笑ってしまう。大日本帝国は、この日に始まった戦争を「大東亜戦争」と名付けた。西欧の視点からの「極東」という呼称を嫌ったがためだ。しかし、西太平洋なら「日没する国」になるではないか。この作家の珍説は、戦争とは敵を物理力で圧倒し撃滅することなのに、つまらない言葉遊びに走る日本軍国主義のカリカチュアでもある。「どこまで正気なのか、本当に、呆れた主人であります」という結びの一句が効いている。

 開戦のニュース速報を聞いた直後は、「日本も、けさから、ちがう日本になったのだ。」と深い感動を味わう。しかし銭湯の帰り道の暗い夜道に、「でも、これは少し暗すぎるのではあるまいか。こんな暗い道、今まで歩いた事がない。一歩一歩、さぐるようにして進んだけれど、道は遠いのだし、途方に暮れた」と将来に対する不安を暗示させるのだ。

 この庶民の二面性・二重性にこそ、民衆のリアルがある。それは次の場面に象徴的である。作家の妻は、お隣の奥さんにこう語りかける。

 <『これからは大変ですわねえ。』
 と戦争の事を言いかけたら、お隣りの奥さんは、つい先日から隣組長になられたので、その事かとお思いになったらしく、
『いいえ、何も出来ませんのでねえ。』
 と恥ずかしそうにおっしゃったから、私はちょっと具合がわるかった。>(「十二月八日」)

 さりげない会話のゆきちがいのように見える。お隣りの奥さんの頭を占めているのは、戦争が始まったいま、もはや演習の時と違うという責任の重大さなのだ。

 日米開戦に対して、「鬱憤晴らし」とストレートに歓喜の声をあげる若者たちも大勢いただろう。しかし大人は、戦争の拡大にともなう、様々な困難の拡大にまず思いが至ったはずである。

 伊藤聖は日記にこう書き記している。

 <バスの客少し黙りがちになるも、誰一人戦争のこと言わず。……新宿駅の停留所まで来たが、少しも代わったことがない。そのとき車の前で五十ぐらいの男がにやにや笑っているのを見て、変に思った。誰も今日は笑わないのだ。>

 当時、フランスの通信社の特派員として滞在していたロベール・ギランも、新橋で開戦を告げる号外を手にした日本人をこう描写している。

 <だれもが一言も発せずに遠ざかっていった。……押し殺した叫びや低声(こごえ)で言葉少なに語り合う光景すら、めったに見られなかった。>

 なぜ大人たちはこうも無表情なのだろうか? この外国人記者は次のように説明する。

 <彼らはなんとか無感動を装おうとはしていたものの、びっくり仰天した表情を隠しかねていた。この戦争は、彼らが望んだものではあったが、それでいて一方では、彼らはそんなものは欲していなかった。何だって! またしても戦争だって! このうえ、また戦争だって! この戦争は、三年半も続いている対中国戦争に加わり、重なる形になったからである。それにこんどの敵は、なんとアメリカなのだ。アメリカといえば、六ヶ月足らず前には、大部分の新聞や指導者層が御機嫌を取り結んでいた当の相手ではないか!>(『日本人と戦争』/以上、『流言・投書の太平洋戦争』川島高峰著より重引)

 民衆は知っていたのだ。民衆は戦争そのものを「欲していた」わけではない。「望んでいた」のは、対中国戦争の長期化の根本解決である。「大東亜戦争」は、日中戦争を解決するための戦争、つまり「戦争のための戦争」にすぎない。民衆はそのことを敏感に感じ取っていた。しかし、それならそうで、なぜそういえないのか。

 ジョン・タワーの『容赦なき戦争』は、この作品から、英米人を「滅茶苦茶に、ぶん殴りたい」という作家の妻の独白を引用している。
 
 <台所で後かたづけをしながら、いろいろ考えた。目色、毛色が違うという事が、之程(これほど)までに敵愾心を起させるものか。滅茶苦茶に、ぶん殴りたい。支那を相手の時とは、まるで気持がちがうのだ。本当に、此の親しい美しい日本の土を、けだものみたいに無神経なアメリカの兵隊どもが、のそのそ歩き廻るなど、考えただけでも、たまらない、此の神聖な土を、一歩でも踏んだら、お前たちの足が腐るでしょう。お前たちには、その資格が無いのです。日本の綺麗な兵隊さん、どうか、彼等を滅っちゃくちゃに、やっつけて下さい。>(「十二月八日」) 

 なぜ眼の色や髪の毛の色が違うだけで、同じ人間をどうしてぶん殴りたくなってしまうのだろう。心根の優しい普通の主婦でさえ抱く差別や偏見を、肯定するでも否定するでもなく、そのままに描き出す。こんな太宰は本物の文学者だったと思う。 

 しかし、この作品は、けして「土蔵の隅」で眠ったりしなかった。この作品が戦争翼賛小説か、抵抗主義文学なのか、そんなところに文学の価値はありはしない。

 この作品を不朽の名作にしたのは、「私」が赤ちゃんといっしょに銭湯にいく場面だ。いつ読み返しても感動する。文学とは「百年後の読者」に向けた、ことばのダイナマイトを、バトンがわりに託していく、命がけのリレーのようなものではないだろうか?

 「ああ、園子をお湯にいれるのが、私の生活で一ばん一ばん楽しい時だ。園子は、お湯が好きで、お湯にいれると、とてもおとなしい。お湯の中では、手足をちぢこめ、抱いている私の顔を、じっと見上げている。ちょっと、不安なような気もするのだろう。よその人も、ご自分の赤ちゃんが可愛くて可愛くて、たまらない様子で、お湯にいれる時は、みんなめいめいの赤ちゃんに頬ずりしている。園子のおなかは、ぶんまわしで画いたようにまんまるで、ゴム鞠(まり)のように白く柔く、この中に小さい胃だの腸だのが、本当にちゃんとそなわっているのかしらと不思議な気さえする。そしてそのおなかの真ん中より少し下に梅の花のようなおへそが附いている。足といい、手といい、その美しいこと、可愛いこと、どうしても夢中になってしまう。どんな着物を着せようが、裸身の可愛さには及ばない。お湯からあげて着物を着せる時には、とても惜しい気がする。もっと裸身を抱いていたい。」
(2005.12.8)

【参考文献】
『太宰治全集 5』(ちくま文庫)
『流言・投書の太平洋戦争』 川島高峰(講談社学術文庫)
『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別』 ジョン・タワー(平凡社ライブラリー)


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