新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

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ネット以前の学生運動 ビラと書体の記憶

2022年10月08日 | 革命のディスクール・断章



同志山崎の死を伝えるマルクス主義学生同盟中核派のアジビラ。

1960年代には、当然ながら携帯電話もパソコンもない。機関紙は活版印刷だが、運動現場のビラはガリ版で一枚いちまい刷られていた。

いま原本が出てこないのだが、島成郎氏の追悼集に寄せられた、「『戦旗』印刷所始末記」というタイトルの回想は、おもしろかった。日共中央に反旗を翻した学生・青年労働者が結成した共産主義者同盟は、リベラリオン社を設立し、自前の活版印刷所を構えた。そして機関紙『戦旗』を自らの手で組版・印刷した。しかし印刷所のメンバーは、「この論文はけしからん」と、「プロレタリア」を「ピロレタリア」とするなど、わざと誤字脱字を連発したのだという。

活版印刷は、印刷機はもちろん据え置き型で、活字の保管にもスペースが必要になる。

しかしガリ版は持ち運ぶことができ、紙とインキさえあれば、電源いらずで、どこでも印刷工場になった。語の正しい意味でのアジト、すなわちアジテーション・ポイント(煽動拠点)である。

未読だけれども、学生運動家の恋人同志がラブホテルで一戦交えた後で、おもむろにガリ版でアジビラを切りだす作品があるのだという。

私よりも年長世代は、ビラを作ることを「ビラを切る」という言い方を好んだ。これはガリ版時代の名残である。蝋を塗布した原紙に、鉄筆で文字を刻んでいくのである。この傷つけた孔にインキが染み込み、更紙にインキが転写される。凸版印刷の反対の凹版印刷で、後述するリソグラフ、年賀状のプリントごっこなどは同じ原理である。Tシャツ、マグカップなど立体物への印刷も、凹版印刷のシルクスクリーンが採用されている。

私が活動していた1980年代から90年代にかけては、ビラもガリ版から「軽印刷」といわれたリソグラフに切り替わっていった時期である。私もガリ版を用いたのは一年に満たず、すぐに鉄筆をロットリングやミリペンに持ち替えることになった。

リソグラフの詳しい機構は、私も忘れてしまった。製版機と印刷機が一体化していて、アジビラの原稿を製版機にセットすると、プリントゴッコ同様、ランプが点灯して、線画部分(黒い部分)が光に反応して、印刷原版に孔があくという仕組みだったように思う。この原紙は、ガリ版の薄い透明のシートだから、ちょっとしたことでシワが寄ったり、傷が入ってしまった。それでも1枚の原紙から1000枚や2000枚は印刷できた。

1984年の9・19自民党本部放火戦闘を伝える中核派のビラは、このリソグラフで印刷されたもので、すべて手書きだった。ロットリングで、「ゲバ文字」といわれる、篆書体に似た書体で、3ミリか4ミリ角の方眼に、カクカク、ギザギザした文字を刻んでいく。タイトルはレタリングで、ロットリングで枠取りして、中をマジックで塗りつぶす。



1980年代ごろの京都大学のアジビラのゲバルト文字のコレクション。ちょっとしたアートの世界である。

このゲバルト文字も、ガリ版の名残であろう。印鑑の篆書体と同じく、切り刻むための文字である。

こんなことをいうのは私しかいないだろうが、1957年ごろにスイスで生まれ、今や国際標準書体となったヘルベチカのネオグロテスク体と共通点があるかもしれない。19世紀に生まれたグロテスク体、別名ノンセリフ体(セリフ=トメハネのない書体)は、もとは墓碑に刻む彫刻用の書体であり、看板用の書体であった。

私はかねてから、いわゆるサブカルチャーは反権力の牙を折られた、あるいは爪を隠したラディカリズムの変形体と考えている。まあ現時点では、KADOKAWAのようなサブカルチャー独占企業体に象徴的であるように、権力におもねる右派の牙城と化しているわけだが。あれも一種のボナパルティズムで、サン・シモン派とナポレオン三世の関係のようなものと考えるとわかりやすい(私にしかわからない)。

ヘルベチカの影響の下に、写植用和文書体として生まれたナールは、「角のとれた」「丸くなった」いわば転向したゲバルト文字という言い方もできるのではないか。ナールを本文書体に採用した1970年創刊の『アン・アン』は、澁澤龍彦の連載があるなど、今から考えたらだいぶ尖っていたが。なおナールは『窓際のトットちゃん』の本文書体にも採用された。『ちびまる子ちゃん』のモノローグ場面では、こどものまる子のセリフはナール、回想するおとなのまる子のツッコミ(アニメ版ではキートン山田のナレーション)にはタイポスが使用されている。




1980年代後半には、ワープロも普及した。コンビニにはコピーが導入され、大学周辺にコピーセンターもできて、ビラに写真や図版を取り込むのも容易になった。アジビラも、タイトルはレタリングだったが、本文にはワープロが用いられるようになる。

初期ワープロのプリンタの解像度はまだ低く、次第に改善されたが、まだジャギーが目立った(だからあらが目立つタイトル文字には使用がむずかしかった)。コピー機で縮小をかけると、このギザギザ部分が目立たなくなった。アジビラではそこまでクオリティにこだわらなかったけれど、文字の品質にこだわる同人誌やミニコミなどでは、このコピーをレイアウト用紙に貼り付けて版下にしたものである。

パソコン通信はあるにはあったが、運動に活用しているのはごく一握りの人たちだった。1990年代前半には、インターネットはまだ大学や大企業の研究室にしかなかった。しかし1995年以降、急速に一般企業・家庭にも普及していく。

先のエントリで引用した『マリア様がみてる』には、仏像マニアの二条乃梨子がインターネットを使いこなす描写が出てくる。時系列の関係でシリーズ第9巻になったけれど、乃梨子はシリーズ第一作の読み切り作品『銀杏の中の桜』の主人公だった。この作品が掲載されたのは『コバルト』1997年2月号。しかしインターネットも、2003年刊行の『真夏の1ページ』に小道具として登場しただけで、あとはもう出てくることさえなかった。

2000年前後までは、私もまだインターネットに夢を見ていた。あの頃のメヒコのサパティスタの活躍は、私にとって希望だった。

初期のWebが、アナキズムの思想と結びついていたことは今ではほとんど忘れられている。コミケだってその始まりはカウンターカルチャーと切り離して考えることはできない。今はすっかり商業化してしまったが、それでも「全員が参加者」という直接民主主義の原則は守られている。

1980年代後半にウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』に出会った私は、これからの主戦場は電脳空間だと思ったものだ。共感してくれる同志もいたが、幹部連中には理解の外であるようだった。

電脳空間での闘争の重要性を私は訴えたけれど、セクトの諸君は大学自治会や自治寮などの既得権に固執し、あぐらをかいていただけだった。電脳空間はすぐに新興IT独占資本の支配するところとなり、右派の牙城となっていった。

ガリ版の時代には、地方の草の根にも同人誌やミニコミなどの優れた文化があった。今はスマホで誰もが情報発信できるようになったのに、文化活動が盛んになったり、運動現場に若者が増えたりしたかといえば、「?」といわざるをえない。かつては希望だったサイバースペースも、光る板をピコピコ叩いて喜ぶ、退化したサルのごとき存在を増やしただけに終わっているのではないか。なんだか凹んでくるね。

それでもなお、電脳空間における階級闘争の貫徹は今も重要であることには変わらない。

(10月10日、加筆。38年前のこの日、私は三里塚現地闘争に初めて参加した)

2023年11月28日の追記。

1980年から1986年にかけて京都大学吉田キャンパスで配られたアジビラ等673点の貴重なアーカイブを見つけた。自治会、寮自治会、セクト、ノンセクトから、アルバイト募集やアイドルのイベントまで内容も多岐にわたっている。


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