鷲田清一さんは、大阪大学総長で臨床哲学を提案している。
私は、鷲田さんの著作が好きで、ずっと関心をよせている。
今日、出先で、毎日新聞を読んだ。
鷲田さんの、東日本大震災に関する記事を見つけて読んだ。
帰宅後、Webで探したが見つからない。
明日、図書館に出かけコピーしよう。
その代わりに、webで見つけた鷲田さんの言葉を紹介しよう。
――「臨床哲学」を唱え始めてから六年経った現在、手ごたえとしてどうですか。
鷲田 作業としてはほんとに時間がかかります。でも、関心は皆すごくもってくれている。臨床哲学って小さな哲学なんです。学生の前でぶつような哲学は放棄したから。問題が起こっている場所に行って、ああだこうだと、一見瑣末に見える問題をやっています。しかも臨床哲学は外から学説を持ちこまない。聴くことから始めて、絶対に出かけた言葉を先取りしない。「それはこういうことなんじゃないですか」ということを、先にできるだけいわないで、相手に質問したりする中で、相手が言おうとしていることをまずはっきり言葉のかたちにし、そこで「一体何が問題なんでしょうね」とやるのです。問題が発生している場所というもの、そしてそこでの言葉というものを大事にし、いきなり大上段に構えた話はしない。もうひとつに時間がかかる。本を読んで、考えを頭の中に抱え込むということを禁じるような作業ですから、人間の経験と同じで、時間が経たないと見えてこないことがあるし、自分の身の置き方しだいで、見えたり見えなかったりするものもある。立ち止ったり、立ちすくんだりすることを大事にする。そういう意味で人生と似ています。たとえば研究のプロジェクトをやってポンと成果を出すような作業とは違う。成果という言葉はものすごく言いにくいし、五年間ある人とやっても、結局答えなしで終わってしまうこともあります。
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http://www.isc.meiji.ac.jp/~nomad/washida/meiwaku.htm