里村専精師の「浄土真宗にようこそ No25」をお届けします。
浄土真宗へようこそ No25
善導大師は、観無量寿経の主人公である韋提希を「実業の凡夫」と位置づけられました。
大切なことですが、これによって中国の学問仏教の姿勢を打破されたものでした。
それを古今楷定と呼んで、浄土教の先輩たちは大切にその学びを讚えています。
ところが、親鸞聖人はその韋提希を「大権の聖者」と位置づけられました。
視点が新しく変えられているのです。
善導大師の視点は、韋提希は凡夫のままに観無量寿経を聞いたとされています。
ところが親鸞聖人の視点は、おそらく善導大師が定善と呼ばれる観経の要義を、
凡夫でありながら全部聞いたと受け止められたのです。
つまり身は凡夫でも、釈尊の定善の説法に感動した人という位置づけなです。
善導大師も、実は韋提希夫人は第八化座観で得忍したと提唱されています。
面白い対比ですが、ここに親鸞が見ている浄土教には歴史を享けた解決があります。
サンガの学びは、同一の命題を時とともに掘り勧めて行くのです。
「実業の凡夫」である韋提希が、そのままに後の我々には仏道成就の先駆なのです。
頭脳で理解する中国仏教の姿勢を覆して、身に響く仏道を善導大師は語りました。
「大権の聖者」として、韋提希は観無量寿経の全部の説法を聞いたのです。
親鸞聖人は、韋提希のようにダイレクトにブッダに感応することを讚えられました。
しかしながら、それは韋提希が理解したというものではありません。
韋提希は、理解よりも深くしたたかにブッダの説法に感動していたというのです。
善導大師の「実業の凡夫」は、女性であり凡夫である身に仏道が響くというのです。
親鸞聖人の「大権の聖者」は、仏道の肝要な総てを韋提希が感じ取ったというのです。
念仏は、凡夫にも聖者と変わらない感覚で真実を聞くことが出来るということです。
理解したのではなく、もっとリアルにブッダの精神に感応しているのです。
韋提希もサンガ、ブッダもサンガです。真実を共有しあう人たちの歴史があります。
ひいては私たちも、同一のサンガに参入して同一の仏道を共有できるのです。
如来の行に感動して、誰もが真実の信心に立ち返るのてす。
このような教学は、善導大師を基本に据えて更に徹底された跡を見るものです。
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