精神科医の随筆は、教育やカウンセリングに従事する者にとっても示唆に富んだ知見が興味深い。
多くの精神科医の著作の中でも、私が特に注目しているのは、中井久夫の著書である。
先日、中央図書館から次の一冊を借りて読んでいる。
本書を読むのは三回目になる。
『臨床瑣談』中井久夫著みすず書房
2008年8月22日発行
広辞苑によると、「瑣談」とは、「こまごました、つまらない話」とある。
中井は本書の中で、「( 臨床瑣談)とは、臨床経験で味わったちょっとした物語というほどの意味」と述べている。
本書からの【落穂拾い】
私の診断学は臨床と議論と勉強との歳月をかけて「醸造」されたものであった。どれか一つの学派に拠ろうとしても、その内輪での議論をかいま見ると、どの学派にも安住できなかった。そのために、私は、ある見方によるとこであろうが、別の見方によればこうではあるまいか、というふうに考えてきた。
長きにわたり、教育現場でカウンセリングの学びを土台に据えて取り組んできた一教師としての私の経験と、この数年のスクールカウンセラーとしての経験から危惧していることの一つは、(診断名)や発達障害の定義に関する言葉が氾濫していることがたいへん気になっている。
例えば、1年生。
静かに机に坐っていられない児がいるとしよう。
そうすると、やれLDだとかやれADHDだとかと、括られてしまう現実がある。
一年生、それも人間は「生もの」であり、これからの成長が楽しみであろうはずなのに、取り組む大人側(教師)の勉強は棚上げにして、(診断名)や(定義)で括ろうとする傾向がこの数年顕著になったように感じている。
臨床家にとって一番大事なことは、サポートできるような力を身につける学びを第一にすべきなのに、(診断名)や(定義)を口にして何も出来ない大人が多くなっている教育現場・臨床現場が本当に心配である。
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