先日、昔の職場の仲間と水道橋で一杯やった。
その時、お仲間のAさんから、小冊子『大観のことば』をもらった。
その中の、一文。
弟子
私は前から弟子は一人も持ちません。
最近作家は、若いのに少し評判になり、展覧会に出して名が知れるようになると、大家でもにでもなった気分で、まだ自分が完成していないうちに弟子を持つのです。
そして自慢らしく、おれのところには弟子何人という、こんどはそれが鑑査の場になると、自分の弟子をあげたいので勢い情弊が生じるということにもなります。
私は自分ができ上がったら弟子をとるかも知れませんが、まだ私は人に教えるところまで行っていません。自分ができもしないで、中途半端の芸術家でありながら、人に教えるというのは僭越の沙汰です。それは私にはどうあってもいやなことです。
「弟子」といえば、『歎異抄』を読みたくなりますよね。
歎異抄 第六章
専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々