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法音カウンセラー 釋 真聴 《日乗》

カウンセリング研究会《くりのみ》
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主宰者の《日乗》

里村専精師「浄土真宗にようこそ」No97

2018年12月30日 22時30分25秒 | 毎田周一師の言葉

里村専精師の「浄土真宗にようこそ」No97をお届けします。

無慚と無愧は、慚と愧に似ていても慚・愧を超えたものです。
無慚・無愧こそ、阿闍世の上に超発した菩提心です。
それはブッダ世尊に出遇うことによって、阿闍世の内面に溢れてきたものです。
「無根の信」と阿闍世は言います。
無慚・無愧は、世を超えて菩提を見出す心なのです。
それは慚愧という人の心を踏み砕いて、世間を超えているのです。
無慚・無愧こそが、如来の光をその身に承けたものです。
仏道は、半端な善心で生み出すことはできませんが…。
徹底した無慚・無愧は、自力に死んで仏道そのものに展開する機なのです。
「この人はすなわち諸仏大衆を荘厳すとす」と涅槃経は示しています。
このことを親鸞は、仏教全体を見据えて希有の一心と教えます。
それは本願の回向によって、万人に実現されると親鸞は示しました。
こういう所に、聖道・浄土を超えて真実の宗教が独立しているという意味があります。
浄土宗において、法然が本願念仏の大道の独立宣言をしました。
それをうけた親鸞は、全仏教を包むような真実の一道を語ったのでした。

 

《学習会のご案内》
◇カウンセリング研究会【くりのみ】     *タワーホール船堀
 *道元とカウンセリングコース(毎月一回 最後の金曜日・夜)
 *親鸞とカウンセリングコース(毎月一回 最後の土曜日・午前)

◇「歎異抄」うたと語り合い in 願海庵(毎週水曜日・夜)
               *本郷三丁目「願海庵」


◇(願海庵)やさしい仏教塾(毎月一回 最初の金曜日・夕)
               *本郷三丁目「願海庵」


具体的な日程はコチラから。
   ↓
http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~kurinomi/calendar/calendar.htm

《声明カウンセラー・釋真聴》は、
お仲間の皆さまとご一緒に、『教行信証』『歎異抄』『正法眼蔵』の音読&『親鸞和讃』をうたっています。
また、ご参加の皆さんによる井戸端(語り合い)を大事にしています。
ご同行の皆さんのご参加をお待ちしています。

 


「念仏」

2018年12月13日 23時27分08秒 | 毎田周一師の言葉

毎田周一師の言葉をお届けします。

愚かものとなって念仏していく。
それだけのことだがなあと思う。
 (毎田周一全集 第九巻)

毎週木曜日午前中は、
法兄・水◇さん宅での、本当に小さな会座。

奥さん、奥さんのお姉さん、ボクの三人で、
念仏三昧&坐談。

法兄が亡くなられて3年。
お二人に念仏&「正信偈」を教えています。

昨今は、お二人とも「正信偈」を暗記されています。

そこで、親鸞聖人の坂東本の「正信偈」をお届けして、
お一人は暗記で、
お一人は親鸞聖人の坂東本見て、
お勤めをしてもらっています。


「最高の時」

2018年11月27日 21時53分20秒 | 毎田周一師の言葉

毎田周一全集(第九巻)からの【落穂拾い】をお届けします。

*命の深みに、無我と出逢ふ。
 これ南無。そこに再発見する光寿二無量の世界。
 これ阿弥陀仏。
 だから念仏者は悠々と生きてゆく。
 不惜身命(フシャクシンミョウ)は但惜身命(タンジャクシンミョウ)と端的に一だ。

*永遠の今の認識は、永遠の生命と一なる体験だ。
 そこに私達の「最高の時」がある。

九州場所では、貴景勝関の優勝で盛り上がりましたが、
今朝は、前師匠の・貴乃花の「離婚」「卒婚?」のニュースで賑やかです。

貴乃花が、大関昇進時には、「不撓不屈(フトウフクツ)」。
横綱昇進時には、「不惜身命」。
四文字熟語が世間を賑わしましたが、
皆さんご承知のように「仏語(法華経)」ですよネ。

道元禅師は、『正法眼蔵・行仏威儀』で次のように記しています。

ここに為法捨身あり、為身捨法あり。
不惜身命なり、但惜身命なり。
法のために法をすつるのみにあらず、
心のために法をすつる威儀あり。
捨は無量なること。
わするべからず。


声明カウンセラーとご一緒に、

『教行信証』『正法眼蔵』音読に挑戦しましょう!

 


「大地は無言である」

2018年10月15日 23時50分44秒 | 毎田周一師の言葉

久々に、毎田周一全集(第九巻)からの【落穂拾い】です。

私は親鸞の晩年三十年の京都幽棲をも思わない訳にゆかない。
あそここゝの間借り住ひのひそやかな生活のうちに、
和讃その他の制作に静かに月日を送られた。
街頭に講壇にに演説し講話されることもなく、
当時の京都の社会大衆と全く没交渉の三十年であった。
それは道元の尽未来際この永平の山を出でないとしたことにも通ふものがある。
シュヴァイツェルが、真の文化を、
ひそやかな、人から人へ、魂から魂への伝播に於いてみて、
新聞・宣伝・組織・権力・金力による
大衆伝達(マス・コンミユニーケーション)に於いてみないことをも、
こゝに思い合さしめられる。
ひそかな営みのうちに真の文化があるといふことは、
やがてかの名も無き人にもつらなってゆく。
蓮如はいつてゐる。
「一宗の繁昌と申すは、
人の多く集り威の大なる事にてはなく候。
一人なりとも信心をとるのが、一宗の繁昌に候」
大地は無言である。

10月の学習会の案内

◆「歎異抄」うたと語りあいin願海庵 10月17日 24日 31日

◆【くりのみ会】道元とカウンセリングコース 10月19日(金)

◆【くりのみ会】親鸞とカウンセリングコース 10月27日(土)


『教行信証』は、愚禿の自覚

2018年09月16日 23時23分46秒 | 毎田周一師の言葉

毎田周一師の言葉を拾います。

*教行信証の体系性などに着目するものがあるとすれば、それは馬鹿だ。
 「愚禿」に体系があるか。
 筋道の通った馬鹿というものが、この世に存在するのか。

*教行信証は愚禿を自覚されたのだ。
 極重悪人の自覚の書だ。
 言々句々、しかならざるはない。
 全き親鸞の自覚の表白だ。

*教行信証に体系性を見出すのと、親鸞の自覚を見るのとでは、天地の隔たりがある。
 前者は対象論理、後者は主体の立場だ。
 前者は学者の閑事業、後者は生きるか死ぬか、のるかそるかの関頭にたつものが、
 必至に求める救済の立場だ。

*後者の立場に於いて、教行信証が言々句々が、生命に輝いて来る。

*この世にある一切の書を、
 それが果たして極重悪人の自覚から発して書かれてゐるか否かを検せよ。
 それで書物の判定ができる。
 
(毎田周一全集 第九巻)

声明カウンセラー釋真聴は、同行のお仲間と、
『教行信証』『歎異抄』の音読をすすめています。
また、『親鸞和讃』をうたっています。

ぜひ、お遊びください!


毎田周一師の言葉。「真理がそのものが働きゆく」

2018年05月06日 21時33分54秒 | 毎田周一師の言葉

毎田周一師の言葉をお届けします。

念仏を口称する限り、その人に(念仏者に)真理そのものが働きゆくのである。
しかも絶対的真理として働くのである。
真理はその人の心身に浸透してゆく。

これが口称の意義である。
しかも口称易行の意義である。

凡夫にも可能なる易行として、それを軽視すべきではないどころか、
実にそこには絶対的真理の余蘊なき、力強き、輝かしい表現あることに想到するとき、
これを喜び、その前に跪くのほかないのである。
あのような、ぼろを著た、みすぼらしい、悲惨な、そして無知・無学な凡夫が口称念仏していゐると、
蔑むどころか、絶対真理の体現者の前に、私達はひれ伏さねばならないのである。
釈尊の心「一真海」一周会刊

5月9日(水) 午後6時30分~8時30分
本郷三丁目・願海庵にて
*「歎異抄」音読&語りあい
*三淘念仏・和讃
学習会を開催します。


唯一の行 ~念仏は口称である~

2018年05月04日 23時49分23秒 | 毎田周一師の言葉

毎田周一師の言葉をお届けします。

念仏は口称である。
それは易行である。
しかそこにはロゴス(言葉)の意義がある。
言葉こそ人間に自覚を喚び醒ます唯一のものであるからである。
決して言葉位、口先ばかりと思ってはならないのである。
それにしても易行である、凡夫易行である。
如何なる凡夫にも可能の行である。
それがしかも人間に許された、唯一の行なのである。
釈尊の心「一真海」一周会刊

5月9日(水) 午後6時30分~8時30分
本郷三丁目・願海庵にて
*「歎異抄」音読&語りあい
*三淘念仏・和讃
学習会を開催します。

 


「読書心得」

2018年04月30日 21時47分09秒 | 毎田周一師の言葉

毎田周一師の言葉を拾います。

読書心得

第一条 行間を読むこと。
第二条 著者の読んだ書を読むこと。
第三条 眼光紙背に徹すばきこと。
第四章 ピリオドの飛躍をよみとること。
第五章 行文のリズムを感得すること。

この内先ず説明を要するのは第四条である。
その例をあげる。
歎異抄第二節にその適切な部分がある。
即ち「何れの行も及び難き見なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
弥陀の本願まことにおわしまさば、…」のうち、
一定すみかぞかしの次にあるピリオドがそれである。
地獄一定から直接に、弥陀の本願に移る、
この飛躍がよみとれなければ、歎異抄第二節をよんだことにならない。
云々
(毎田周一全集 第九卷)

毎週水曜日夜、午後6時30分~8時30分、

本郷三丁目「願海庵」で、

「親鸞和讃」をうたい、
「歎異抄」音読をしています。

ぜひ、お出かけください。


「深山に行持して」

2017年12月17日 23時00分58秒 | 毎田周一師の言葉

毎田周一の言葉をお届けします。
 (毎田周一全集 第六巻より)

発心するとは深山に入ることである。
深山に入るとは、大地の底を究めることである。
地上の生活の奧底を衝くことである。
衆生の苦悩の限りをなめ知ることである。
即ち山とは大地であり、地上の生活であり、やがて衆生の苦悩である。
深とは究めること、涯底を尽くすこと、やがて体験的に知ることである。
深山に入るとは、
衆生の山の如き苦悩を担ふことである。
一身に背負ふことである。
人類の全苦悩を自己一人に引受けることである。
世界苦(Welt-schmerz)をわが苦とすることである。
世界が悩むことは自己が悩むことであり、
自己が悩むことは世界が悩むことであるといふに到ることである。
まさしく西田博士が、

我々の自己が自己自身にふかくなればなる程、
世界の問題が自己の問題となるのである。
(哲学論文集第三、390頁)

先日、ある所で、50歳代の会社員のお方とお喋りをしました。
数年前から、仏教の勉強を始められたそうです。
とても、真面目なお方であります。
しきりに、「仏教が分かりたい」「少しでも真理を感じたい」…と申しておりました。

ボクのレスポンスは、
「仏教でなく、仏道を大事にしましょう!」
「ご一緒に 念仏をしましょう。親鸞和讃をうたいましょう!」
と。

一般に、「深山」と耳にしますと、比叡山・高野山・身延山…を想像しますが、
毎田師の言葉を借りれば「自己の涯底」ですから、“いま・ここ”の自己自身のこと。
「行」は、実践。
「持」は、継続。

「分かりたい」「知りたい」は、不要のようです。


駒澤大学教授・石井清純先生をお迎えします。

2017年12月07日 23時24分50秒 | 毎田周一師の言葉

カウンセリング研究会【くりのみ】道元とカウンセリングコースに、
駒澤大学教授・石井清純先生をお迎えしています。

12月22日(金)から、毎月一回、『正法眼蔵・海印三昧』を読みます。

是非、皆さまのご参加をお待ちしています。

『正法眼蔵』に関する、毎田周一師の言葉です。

正法眼蔵を前に置いて、これは難しいといつてゐるほど、愚劣な姿はない。
さういふことをいつてゐる者には、
自己の魂の救ひなど問題でないからである。
若しそこに道元に依る魂ひの救ひの教へがあるとすれば、
身の程も忘れて、なりふりかまはず、
見栄も外聞もなく、
ただそこへ身を投じてゆくことの外の何もないではないか。
正法眼蔵を前において、これは難しいなぞといつてゐる暇はない筈である。

くりのみ会は、「正法眼蔵」の音読と坐禅がメインの学習会であります。