巻第五 九郎義経の謀反
この段の中に 頼盛が源義仲にまず初めに狙われたこと、其の後、頼朝を頼って逃げ下っていることが書かれている。
確か、頼盛の郎党に中原清業がいたはずで、この清業が閑院流の藤原実明のもとで播磨国守護代を務めていたはずである。
実明は、元暦二年(1185年)6月に播磨国守護に任じられている。
平頼盛に話を戻す。wikipediaの記載を使うと、
『10月20日、頼盛逐電の情報が流れて騒ぎとなった(玉葉)。 閏10月になると、親鎌倉派である一条能保(頼朝の義弟)・持明院基家(頼盛の娘婿、能保の叔父)も危険を察知して鎌倉に亡命した。』
この部分、愚管抄では、
『頼盛大納言は頼朝のもとへ逃げ下っていった。頼朝は鎌倉から二日の道程のところにまで出迎えて、あたかも父に対するようにもてなした。また頼朝は以前から、妹が一人いたのを大宮権亮能康(能保)という人の妻にしていた。それでこの能康もまた妻とともに鎌倉へ下ったのである。こうしてしかるべき者どもが鎌倉に集まり、頼朝は京都の人々の様子などについてもたいへんよく知ることができた。』とある。
頼盛の郎党に中原清業、そして一条能保の家司には中原政経がいた!
この政経は1181年迄は京にいたことが確認できるため、一条能保について下ってきたのかもしれない。
もしくは、源義朝の娘ということで坊門姫についていた人物だったのかもしれない。
(朝長の義理弟が中原久経であるため。)
一条能保・坊門姫の家司となったには、中原久経という人物がそのきっかけとなった可能性があり、政経は久経の縁戚者であろうと思われるのだ。
私は、この政経が後の【政恒法師】となると予想しているのだが、政恒法師は近江国御家人井口中原系図の伊香郡に関わりがある先祖を持っていると思う。(以下の資料より)
とすると、一条能保・坊門姫周辺にいること、近江国伊賀郡との関りを持っていることの二つを考えるに、
政経は、中原久経の息カ、義理の弟か、本当の弟か…あるいは甥か…
1181年に政経は、初の出仕のような雰囲気であるので、年的には久経の息にも当てはまるか、はまらないか‥‥の年代である。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/b7a7055390e16a2a87d243d29bd97f4a
政恒法師が中原政経であろうと思われるのは、「関東御家人」という部分があるからであり、
江州の中原氏であると思うのは「近江伊香郡」の部分である。
この案主職は 九里の祖となった経久の弟経季の職と同じなのである。