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久里双水古墳の盤龍鏡はどこからきたのか? そしてその鏡の意味は? (3)

2023-02-02 | 古代からのつながり

続きとなる。

久里双水古墳出土鏡のような一群が、芝草文を有する画象鏡と接点を持ちつつ、2世紀代を前後する時期に華北東部地域で製作されたものと理解する点は共通しており、この点を定点として以下議論を進めたい。

本鏡の来歴について、筆者は、①製作地からの直接入手および②近畿地域(ヤ
マト政権)からの間接入手という大きく2つの可能性を想定した(辻田2009a

ただ日本列島から出土する中国製の完形盤龍鏡については、福岡県徳永川ノ上遺跡の出土事例(弥生時代終末期~古墳時代初頭)を除くと、弥生時代遺跡から出土した事例が殆ど知られておらず、大半が前期古墳から出土したものであること、また前期古墳出土盤龍鏡が岡村氏の漢鏡5期に該当するような「古い」文様構成をもつ一群(筆者分類の A 類)を主体とすることさらに魏の年号鏡である「景初四年」銘の鏡(240年:京都府広峯15号墳・伝宮崎県持田古墳群出土)が出土していることなどが他の鏡式との違いとして挙げられる。

(この上記の部分は難しく、私にはよくわからなかった。)

以上から筆者は、盤龍鏡については基本的に古墳時代初頭以降に近畿地域に流入したものが各地に拡散したものである可能性を想定している(辻田2001・2007)

その後、新潟県胎内市の城の山古墳から出土した盤龍鏡について、三国代の製品で近畿地域から贈与されたものとする解釈が提示されている(上野2016)

(古墳時代初頭 近畿地域から各地へ…ということは、早くて弥生が終わってすぐ…)

こうした点もふまえるならば、久里双水古墳出土の盤龍鏡についても上述②の可能性が高いものと考えられる。

破砕副葬でなく完形副葬である点や、北部九州で稀少な前期前半代における竪穴式石槨の採用(辻田 2009b)といった点などからも、古墳時代的な鏡副葬への転換という脈絡で考えるのが妥当であろう。

竪穴式石槨に加え、舟型粘土床も確認されている!)

この古墳は、いくつかの点で弥生時代終末期までのあり方とは不連続な特徴が認められる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%AA%E7%A9%B4%E5%BC%8F%E7%9F%B3%E5%AE%A4

完形の盤龍鏡を副葬していること、…それは瀬戸内から近畿地域周辺に由来するものであるということができる。

こうした久里双水古墳の要素が持つ「外部性」は、墳丘上に近畿系や東四国系などの多様な系譜を持つ外来系土器群が供献されること(蒲原 2009a)とも調和的であり、唐津湾沿岸の地域社会が中・東部瀬戸内から近畿地域の文化要素をより積極的に導入しつつ、大型モニュメントの造営を行ったことを示している。

また久里双水古墳の90m 級の前方後円墳という墳丘規模は、独立丘陵上の築造とはいえ、刈田町石塚山古墳(130m)を除くと北部九州でも最大級であり、同時期の糸島地域・福岡平野周辺でこれに比肩しうる規模の前方後円墳は、糸島市泊大塚古墳・福岡市那珂八幡古墳・筑紫野市原口古墳などに限定される。こうした墳丘規模の大型化という点もまた、弥生時代以来の文化伝統では説明できないものである。久里双水古墳の墳丘規格は、福岡平野周辺とも異なることが指摘されている(岡田2009)。上述の竪穴式石槨の採用についても、特徴的な舟形状の粘土床(および舟形の木棺)とあわせて、糸島地域や福岡平野とも異なる独自の導入であり(辻田2009b、ここにおいて本地域のより自律的な動を読み取ることもできよう。また改行がおかしくなってしまったので、この辺で終了します。
 
 
 

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