藤原秀郷の系を見ていくと、
渕名氏となる兼行
足利氏の祖となる成行
その淵名氏と中原氏の関係が【伊勢崎市史: 資料編】により、わかる。
寿永内乱期に藤原姓足利氏の俊綱.忠綱父子が滅亡すると、
渕名荘は京都から法曹官僚として鎌倉へ下って来た中原季時に与えられた。
中原季時は渕名荘を名字(苗字)の地として渕名季時と称し(大友系図.鹿子木系図)、
建久五年(一九四)から吾妻鏡に登場し、嘉植二年(一二三六)に死去するまで四十年余り活躍が見られ、
初めは右京進、ついで駿河守となり、承久元年(一二一九)源実朝の死を悲しんで仏門に 入り、行阿と号した。
季時のこの地位は父中原親能に負うところが大きい。
‥‥とある。
今、人物叢書の北条泰時を読んでいるのだが、その系図に泰時の妹が「中原季時」に嫁いでいる記載があった。
また、前出の伊勢崎市史にも「実泰の妻は渕名余一という者の娘であるという。この女性は、慈香禅尼と称して金沢氏の亀谷邸に住んでいた。」とある。
他の本(徒然草発掘: 太平記の時代一側面:石黒吉次郎著)に「後妻に渕名与一実秀(中原氏)の女を迎える。」ともある。
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https://genbu.net/data/kouzuke/ookuni_title.htm?print=on
群馬県伊勢崎市境下渕名にある【大國神社】は、上野国佐位郡の渕名である。
ここは、
「垂仁天皇の御代、諸国に疫病が蔓延し、人々が死ぬ状況の中、
天皇は諸国の神々に、その救済を祈った。
東国へ派遣された、百済の車臨が、当地に来た時、
御手洗池で手を洗っている白髪の老人と出会い、
名前を尋ねると、「大国主命」であると告げる。
そこで、車臨が、人々の救済を願うと、老人の姿は消え、
疫病もなくなったという。
そこで、垂仁天皇は、車臨を賞賛し、当地を与えたという。」
「称徳天皇の御代の神護景雲元年(七六七)、勅を奉じて当地に来た従五位上佐位采女が大国主命を国の造神と號し、渕名荘三十六郷の総鎮守として社殿の修造した。」ともある。
藤原秀郷流から渕名氏となり、中原氏に渡り、北条氏にと渡った「渕名荘」であった。
伊勢崎超嬉しいです。昨日地図で見ていた辺りの白鬚神社がありまして白髪の方のイメージ被ってしまいましたよ。場所は藪塚本町歴史資料館の少し南の尾根の端っこですよ。渕名よりは少し高い方ですね。私も昨日新田荘の冊子を読んでいたら凄いメンバーが関わりもっているんですよね。火山灰からも復興のせいなのか?
そうそう、ここだと思うんですけど、得川関係で伊勢原の方行った時に回ったんだと思うんですけど、奈良のいさかわ神社(アマノコヤネか春日さんもいます)で買ったような子持ち勾玉が出てるんですよね。奈良ともこの辺り関係ありますよ。で垂仁さんも出てきてましたよね。ちょうど大変な時期。
車持ってのもお名前に付いていた方いましたね、奥様ですかね?崇神垂仁その前の孝元開化も奥様の伝承はちゃめちゃな気がするんで整理してみます。で武よりも竹が好きなので甘が付く地域に絡むのも超気になります。孝元天皇だったか?竹野姫がとにかく気になりますよ。
お名前の文書かなり一人一人気になってしまいました。
新田よりももっと前が少し低い方で見えてきますね。
で私の探索は神奈川伊勢原から群馬伊勢崎まで。広く探索してます。白髪の方のエピソードも太田道灌がらみでもあったような?、今気付きましたけど伊勢の崎で伊勢崎なので群馬から神奈川なのか?と思ってたんですけど原の方が低い方ですから神奈川の方がメインで崎まで内陸に入ったのかしら?川向の足利の方ももっと文化ありそうですけどどんどん各地の研究が見えてくるともっと楽しめそうですよね。
車持皇子って、一体どなた??と気になります。
wikipediaには「江戸時代の国学者加納諸平は元明朝の右大臣藤原不比等を挙げている(不比等の母は車持氏)。」とあり、もしも、そうならば…と。
不比等って事は車持さんって相性合わなそうかな?私には。で蓬莱の玉の枝ってのも超手に入れにくそうですね。橘さん系ならすぐゲット出来そうですけど、一番渡したくないかも?なんて思いました。
かぐや姫に出てくる求婚者も前に調べたらこの系統まずいのかな?と思う方いたなあ。竹野姫が私のゴールでもあるんでかぐや姫のも話もじっくり考えてみますよ。
開化あたりの奥様だっけ?そこらへんは相当入り組んでいるので実際にいる方だけに少なくしたいです。
不比等のお母様なら鎌足の妻?私は定慧が好きなんで不比等のお母さんは避けたい。車折は好きだけど車持は苦手になるのか?かぐや姫は車持の姑にいじめられたか?なんて違うお話作っちゃいそうです。額田系が鎌足と接点あったんでしたっけ?そう思うとその筋が不比等にはないから鎌足の娘を妃にするんですよね?母は系統が複数ありますね、きっと。
不比等じゃなく車持を調べてみます。
でその中で私不比等は苦手なのですが定慧は好きでおまけに定慧が鎌足も供養で日本に文化を持って来ているならば鎌足も気になるんですよね。そこで中臣鎌足は元々一族を変えている可能性あると思うんですよね。大原出身じゃないかな?と。定慧は小原で亡くなったとかだったかな?血が繋がってはいないにしてもおそらく乳母とか女系の方は一緒の気配を感じてます。でこの前思ったの孝徳さんなんですよね。本来お父さんは鎌足だとしても孝徳に一旦嫁いでないかな?と車持のお母様は。本来はこの時点でも車持だったか?分かりませんけど職人集団としての車持部を最終で吸収したのが不比等なのでかぐや姫の車持皇子は不比等かな?と。職人さんから人望ないって部を束ねている本筋ではないはずで奥様からの継承ですよね。
群馬であればそれなりの技術あったはずですのでお母様とお腹の子と一緒に鎌足が吸収しているとなら鎌足が孝徳にもなりそう。鎌足と中大兄も和歌で会話する文化持っていたはずなので近い存在。鎌足が亡くなり心細くなったわりにその後天下とるのもちょっと不思議なんですよね。鎌足は裏切れないけど孝徳には塩対応の理由は孝徳は蘇我の本来の本流背負っているからなのではないかな?とも。定慧は両方背負っている可能性ありますよ。で朝倉に継承するならば石積み土木系も薬師水神祓いも継承出来るかも。とすると車持と額田か鏡王系と絡んでくればビンゴです。双子っていうのはやはり同母からしか生まれないのと母のベースは赤一色みたいなのはこれまでの私のワークでの検証で個人的に考えると孝徳と鎌足が双子で定慧にとってもどっちも父に近いかなあ?なんて考えてます。不比等は鎌足の娘にも執着している所を考えるとおそらく鎌足の地もまた女系のキーとなる血もなかったんじゃないかな?
そう思うと孝徳の母の系統の吉備(岡山)と車持(群馬)の産物ゆえの技術は都には魅力あったんでしょうね。
都は素材が無いのに栄えた理由はネットワーク。ちゃんと感謝していれば問題ないですけどね。ちゃんと
この地域と縁がある車持はかなり中心的に関わってくる一族になるように思いますね。車付くんで清原氏との関係も気になりますね。最近善光寺ばっかり気になってます、元善光寺と甲斐善光寺と長野善光寺。鎌倉時代よりももっと前の大化改新あたりでどうだったか気になりますね、ただそれがあっての鎌倉以降の人の関わりで見えてくる事もありそうですね。
そう思うと車持さんの女系ルーツが私の追っているルーツみたいに思うんですよね。もしも双子産んでいたら?竹は貞慧で磯(浜)は鎌足かな?色でいうと青と赤。
不比等ってお母さんもその娘も手に入れようとしているのかな?執着凄く感じちゃいますね。鎌足と不比等が親子ならそこまで女系に執着しないはずなんですよね。不比等の女系の執着凄い。貞慧は鎌足供養しているけど不比等は供養しているのかな?