九里 【九里】を探して三千里

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ジローラモ・デ・アンジェリス 3. 蝦夷地 上ノ国 【円空】の像たち

2021-02-04 | コラム

足早に足跡を追ってきたが、ココからはゆっくりとなる。

なんせ、イタリア語(ポルトガル語なのだろうか?)のよくわからない文を読みつつ…なのだ。
一度は先生と一緒に訳したので、何とか わかりそうではあるが、其の時のノートが行方不明になってしまっている。
イタリア語の先生はこれはイタリア語の古語だ…とおっしゃっていたが、怪しいかもしれない。笑

今回はgoogle翻訳とともに訳していこうと思う。



saranno da cinque,o sei anni
5年か6年になります

che io da ma dai la relatione del Regno di Iezo,al Girolamo Rodrigez,
私が宣教師のジローラモ・ロドリゲスにイエーゾの報告を出すことも

chi era nostro Viceprouinciale nel Giappone.
彼は日本における副長官でした。

un altra cred, che glien mando il Padre Diego Caruaglio
他には、ディエゴ・カルアリオ神父が彼に送った別の親書

fu a Iezo nel 1620
1620年に蝦夷地にいた 時の

con tutto cio perche il Padre Francesco Paceco nostro Rettore mi serisse,che li supreriori desiderauano grandemente di hauerne una piu essatta informatione fuiin quel Regno nel 1621

フランチェスコ・パチェーコ神父が私たちの長官に尋ねるように、上司はもっと正確な情報を知りたいと強く望んでいました。
私は1621年にその国(蝦夷地)にいましたので。

per sentire le confessioni deChristiani che vi facessimo ne gli anni passari,e con quella occasione mi informai deligentemente da alcuni Giapponesi

過去数年間に私たちが行ったクリスチャンの告白を聞くために、そしてその機会に私は何人かの日本人から慎重に情報を得ました。

li quasi sono di stanza in Matsumai,e da certi naturali di Iezo stesso,
彼らはほぼ松前におり、蝦夷地自体のように自然そのもので(?)

li quali parlano in lingua Giapponese
彼らは日本語で話しています。

e per quanto causi da essi, mi pare di poter dire le cose feguenti.
そして、それが彼らによると、私は次のことを言うことができるように思えます。

era ccio che il tutto si intenda meglio,mando con questa un piccolo mappa del detto Regno di Iezo,del Giappone, e di Corai,con qualche ancora della Tartaria,e della nuova Spagna ma come che io non sono Dissgnatore,ne Pittore, ne ho qui Mappamundi,da'quali io possa ricauare cio, che si ha a porte in carta, ben veggo che tutti si rideranno del mappa, che mando pure perche senza esso con difficolta si potrebbe intendere,se Iezo sia isora,o no ho giudicato di mandarlo per ogni modo tale,quale ho potuto farlo da me.

すべてがよりよく理解されていることは明らかでした。私はこれ(周囲から聞いたこと)を使って、蝦夷、日本、高麗、韃靼、そして新しいスペインの小さな地図を送りますが、私は荷送人でも画家でもありませんし、世界地図も持っていません。そこならあなたは紙の地図を手に入れることができます、私はそれなしでは蝦夷地が島であるかどうかを理解するのが難しいかもしれないので、私が送る地図をみんなが笑うでしょう、または私が自分でできるような方法でそれを送るように言ったかどうか。


Primieramente nell'altra Relatione,che mandai ero di parere,che Iezo non fusse Izola; ma una estremita,o,punta della Tarraria,a dirimpetto di cui stesse un' altra punta delle nuove Spagna,che chiamano Chiuira,

私が送った他の報告書では、最初、蝦夷地は島ではないとの意見でした。 しかし、その終端の部分には、韃靼の先端、その反対側には新しいスペインの別の先端 (Chiuiraとよばれている)が立っていました 。 


e per cio supponevo, come turtisuppongono,e si pinge ne Mappamondi, che lo stretto di Anian fusse fra queste due punte di Tarraria,e di Chiuira.

そしてこのために、私は多くの人が推測しているように、そして世界地図では、アニアン海峡が韃靼(タルタリア)とキウイラのこれらの2つの地点の間にあると仮定しました。

(続)

===*===

新しいスペイン? アジアのどこか(北海道の近く)をそのように呼んでいたことになる。
何処か、占領されていたのだろうか?
北海道の北の樺太島?

中国?(Chaina)にスペルが似ている。Chiuira…

徳川家康が憂慮していたように、スペインは我が国をも占領しに来ていたのだろうか?
この【新しいスペイン】は、とても気になり、後で調べる必要があると思う。

===*===

下記のアドレスは福島町(北海道)のHPより関係する部分を抜粋させていただいた。 

「このアンジェリス神父の第一回蝦夷地訪問は、秋田から乗船出帆したが、風向が悪く蝦夷地には向かえず、深浦(青森県西津軽郡)に着き、ここで松前行の順風を風待ちした。八〇人もの乗客は浜に小屋を建て、二十二日も風待ちした上、ようやく出帆し、六月松前に向かったが、海上が荒れ、船は目的地には着かず、ツガという港に着いた。このツガという地名は、アンジェリス神父の蝦夷国地図の説明から上ノ国付近と推定される。」

「これによれば、同年八月藩は家老蠣崎主殿、下国宮内等を検司(死)役人としてキリシタン宗徒の弾劾をはじめ、先ず、大沢金山の宗徒五十人の男女を刎(ふん)首処刑したというが、刎首とは即ち首を剥(は)ぐことで斬首したものである。さらに大沢金山から逃れたと思われる六人を西部石崎(上ノ国町字石崎)で捕え処刑をした。その後藩の処刑役人達は蝦夷キリシタンの本拠ともいうべき千軒の金山を襲い、ここでキリシタン宗徒を探し出し、ここでも五十人の宗徒を刎首処刑し、この年の弾劾で、一〇六人もの大量 のキリシタン宗徒を処刑したものである。 」


「 この処刑を考察すると、元和三年(一六一七)開削された大沢金山で働く金掘のうちのキリシタン宗徒の男女五十人を刎首処刑しているが、この処刑地は大沢としているので、宗徒弾劾を効果 的に領民に見せ付けるために、大沢村か、村に近い処で処刑したのではないかと考えられる。また、その餘党六人も西部石崎(上ノ国村)で逮捕して処刑したといわれるが、この人達も石崎川流域砂金採取に当っていた金掘であったのではないかと思われる。

 この二ヵ所の処刑を終えた松前藩は、キリシタン達の最後の砦ともいうべき金山を急襲した。この金山というのはD・アンジェリス、カルワ-リュ神父の報告書にも明確なように、大千軒岳直下の知内川上流の金山番所付近に展開する千軒金山のことである。ここでは五十人の男女のキリシタン宗徒を捕え、刎首処刑をした。この処刑地については前記の報告書にあるとおり、金山番所のあるこの地域の中心集落のあった地域が、その場所であると考えられる。これらを推考すると千軒金山を急襲した松前藩兵は、ここの金掘り中のキリシタン宗徒を捕え、このなかの男女五十人をその中心地に集め、数個の大きな穴を掘り、その縁に莚(むしろ)を敷き、そこで打首で処刑し、遺骸はその穴に埋め塚状にしたと思われるが、現在までにその跡地と目され付近の調査が行われてきたが、その跡地を特定することはできない。」


毎年この大千軒岳では神父様が赴いて慰霊祭が行われている。
ここが「上ノ国」であった。

そして、同じHPの中に「円空」が書かれているのである。
その始まり
「近世の我が国を代表する仏教彫刻家に円空がある。この円空の作像は近世の蝦夷地の神道および仏教の展開に大きな役割を果 たした。

 円空は寛永九年(一六三二)美濃国(現在の岐阜県羽島市上中島)に生れた。若年のころ洪水で母を失い、その供養のため十八歳で仏門に入り天台宗の僧となり、伊吹山山内の平等岩で修業をし、同宗寺門派に属した。円空は宗祖行基菩薩の行願を慕い、修験道の優婆塞聖(うはそくひじり)として諸国を巡って作像行脚(あんぎゃ)することを志した。

 円空の作像は寛文三年(一六六三)ころからといわれ、翌四年には白山神社に参籠(さんろう)作像し、同五年には蝦夷地に向って発足したと思われ、秋田県内にはその際の作製と思われる作像が残されている。その後津軽地方を経て寛文六年蝦夷地に渡航したと考えられていたが、最近になってそれを裏付けする史料が発見された。この史料は市立弘前図書館所蔵の『津軽藩庁日記 寛文六年正月』の項に次のように記されている。」

「此の年円空は三十五歳である。その前年秋田から北上して津軽西沿岸部に作品を残して弘前入りをしたが、勿論入国鑑札を持たず、破れ衣に彫刻道具のみを持った行脚僧(あんぎゃ)の姿は津軽藩の役人にとっては胡乱(うろん)(怪(あや)しい者)な者としか見られなかったのであろう。七町という町に滞在していた円空に対し、正月二十六日退去するよう命じたところ、これから青森に向い、そこからさらに松前に渡海することを申し出ている。

 したがって松前に渡海したのは、寛文六年四月か五月である。松前に入国する場合各藩発行の出切手と、松前での身元引受人が必要であったが、このような遊行僧であるのにどうして入国が出来たか不明である。しかし、広尾郡広尾町禅林寺に一体の観世音菩薩像が残されており、その背面 には墨書で、「願主松前蠣崎内蔵(くろうど) 武田氏源広林(ひろしげ)敬白 寛文六丙午夏六月吉日」と記されている。松前内蔵広林は松前藩主の同族で、幼年の藩主の続くなかで事実上藩政を切り廻していた筆頭家老である。この広林が自分の知行地である広尾禅林寺に納める像を、円空に彫らせているところを見ると、恐らく何らかの形で広林が円空とかかわり合をもっていたと思われる。この像は六月に完成しているので、二、三か月間は松前に滞在していたと考えられ、その間に、松前馬形神社の六尺余(一・八二メ-トル余)の観音像を刻んだと思われるが、この像は明治六年の福山枝ケ崎町出火の大火で焼失している。

 六月から七月初旬にかけて蝦夷地内の作仏行脚(あんぎゃ)のため、松前を出発した円空は、礼髭村観音堂、吉岡村観音堂の来迎(らいごう)観世音菩薩像等を刻んだ後、木古内、札刈、泉沢、茂辺地、富川、戸切地、大中山、汐首、砂原、山越内、礼文華岩屋等で彫像して、最終目的地である有珠善光寺に至った。ここでは善光寺奥の院である洞爺湖観音島(虻田町)に参籠して観音像を製作したが、その像の背後には陰刻で、「うすおくのいん小島 江州伊吹山平等岩像内 寛文六年丙午七月廿八日 始登山 円空 花押」と記されている。従って七月末には、この奥の院で、菅江真澄の『蝦夷之手布利(えぞのてぶり)』に記されている「のほりへつゆのこんけん」、「しりへつのたけこんげん」、「うちうらたけこんげん」の三体の像を刻んで善光寺に納めてもらうように頼んで南下し、その途中寿都海神社の像を八月十一日に完成させ、八月末には松前に帰着したものと考えられる。九月には桧山地方の西海岸を北上し上ノ国石崎村上ノ国、江差、乙部、熊石村を経て太田岬岩上の岩屋に参籠して、多くの作品を残した。」

「蝦夷地で寛文六年から七年にかけて作像奉斉された像以外に、明治以降本州から持ち込まれた円空像は六体あり計四十三体以上の円空仏が存在する。」


何故、上ノ国も訪れたのか。 
それはこの何十人ものキリシタンが虐殺されたことに因るものと思うのだ。



デ・アンジェリスと上ノ国
http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%94%BA%E5%8F%B2%E3%80%80%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%BB%E3%80%80%E9%80%9A%E8%AA%AC%E7%B7%A8%E4%B8%8A%E5%B7%BB/%E7%9B%AE%E6%AC%A1/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%B7%A8%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AF%80/


円空
http://www.town.fukushima.hokkaido.jp/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%94%BA%E5%8F%B2%E3%80%80%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E5%B7%BB%E3%80%80%E9%80%9A%E8%AA%AC%E7%B7%A8%E4%B8%8A%E5%B7%BB/%E7%9B%AE%E6%AC%A1/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%B7%A8%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E7%AB%A0%E7%AC%AC%E5%85%AD%E7%AF%80/


『円空とキリシタン』と検索して、ひとつ同じ視点から書かれた紀要があったので、ココにご紹介しておきたい。

【円空造仏の動機について】 著者:青山 玄  雑誌名日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要


円空が訪れた場所はキリシタン迫害のあった場所とは限らないと思う。思うのだが、この上ノ国に関しては、昔そのようなことがあった…と聞き及んで、その慰霊のために彫ってくれたように思えてならない。

毎年テレビで、この大千軒岳の祈りの様子が映される。
いつも気になっていた。なぜ、ココなのか。

しらべてみて、金堀となっていた人々の中にかなりの確率でキリシタン(迫害を逃れてきた人々)がいて、そこにジローラモ・デ・アンジェリとディエゴ・カルヴァリョがいて、祈りを共に捧げていた、という事。

そして、そこにもまた迫害の手が伸び、とうとう捕まって処罰されてしまったこと、その哀しい現場であった事が、私にもよく理解できた。

その関りがあった人々、その子孫の悲しみを少しでも慰めよう…と思ったに違いない。

1666年(寛文六年)円空がその周辺で彫った三十七体がその証であったと思う。





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