九里 【九里】を探して三千里

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中原貞親ー広宗ー広忠…の 系図に関して / 大中臣氏

2020-05-06 | 中原氏バラバラ情報

昨日の系図の前の部分が出てきた。
つなげてみると、以下のようになる。




貞能の実の父は尾張宿禰秋時であり、養父が師任となる。

さて、広宗の娘が宇都宮宗綱に嫁いでいたとすると、二人の子はイコール広宗(広致)の!という事になる。それが宇都宮朝綱であることになる。

朝綱の妹かまたは、娘になるのが寒河尼。
広致(広宗)の孫か曾孫となる寒河尼。

源頼朝の母となった由良御前の母は熱田神宮の 尾張員職娘であり、父は藤原季範である。
其の尾張氏の血と、大江広元・中原親能との近さ、乳母にぴったり!なのだが、寒河尼は1137年生、頼朝は1147年生と、十歳しか違わない。初めは、乳母のお手伝いをしていた程度だったのではないだろうか。
そして、赤ん坊であった頼朝の相手をして遊んであげたり…
そのような、ごく身近にいるお姉さん的存在だったのではないかと思う。
その後、寒河尼は小山政光に嫁ぎ、また、頼朝も伊豆に流されてしまうため、舞台は関東へと移っていく。

===*===

宇都宮朝綱を見ると、妻は醍醐局という。
その醍醐局の父は平長盛であった。
ここで朝綱は平氏と源氏に挟まれたこととなり、平貞能のとりなしにより、関東に戻ることとなる。
そして、今度は平氏が負けて貞能を助け、預かることとなる。

建久5年(1194年)5月に下野守・野呂行房から百町の公田を横領したと朝廷に訴えられる。同年6月28日、頼朝より東大寺改修の助成を拝命し、観音の改修を受け持つ。7月28日、中納言・一条能保より飛脚があり、朝綱の罪が確定し土佐国国府への配流が申し渡される。これに連座して、孫の頼綱及び朝業もそれぞれ豊後国および周防国に配流となる。また、廷尉の源基重および右衛門忠・豊島朝経も洛中から追放となった。2年後の建久7年(1196年)に罪を許されて土佐国から益子上大羽に戻るまで、幕府には従弟の所信房が出仕した。

帰国した朝綱は、配流先であった土佐国の賀茂神社を勧請して綱神社(栃木県芳賀郡益子町上大羽)を建立、余生をこの地で送り、元久元年(1204年)8月6日、83歳で死去した。

===*===

このことがあって信房は豊前国、喜界島(貴海島)へ赴いたのかもしれない。平時の残党狩りだ。


朝綱と信房が従兄弟という。
wikipediaには信房の養父朝綱とあったのだが。

信房は1156年生。朝綱は1122年生。
さて、信房の父は宗房ではなく、もう一人、間にいるとのことである。
そこは横に置いて、ひとつだけ気になっていることがある。

宇都宮朝綱の孫にあたる頼綱のことである。
出家した際に「実信房 蓮生」となったのだ。

実信房(じっしんぼう)と読むのだろうが、実、信房 蓮生とも読める。
まさかとは思うが、頼綱=信房という事があり得るのだろうか?


そこも、横に置いておく。

この時代は和歌に法然の仲間…という連帯ができていて、面白い!

===*===

九里に関係のある中原氏に目を転じる。

広宗―広忠ー親光ー親厳・朝親 とある。

親光もそしてその息となった朝親は、養子だろうか? 「親」という通字の順番が変わっている。
広忠のあとに「親光」「親憲」となる。
そして今度は「親光」の後に「朝親」となる。

その朝親、私の予測では、美作朝親であり、近江八幡の九里村となる場所で親厳の隋心門院の所領となる領を持ち、隋心院に寄進したのではないだろうか?
久里城は、またの名を「本郷城」とも言っていた。
中心にあるから「本郷」だったのではなく、本郷氏か関わっていたからではないのだろうか? 
いつの時代に本郷城と呼ばれていたのか…

「承久の乱の後、若狭国大飯郡本郷の地頭に任じられ同地に下向した。」と美作朝親のwikipediaにはある。

本郷氏はご地元の郷土歴史の研究をなさっていらっしゃる方々の出した見解では「祖は桓武平氏」という。
さらに、本郷氏は後に(信長の時代)矢部氏に養子に出す。その人物が【矢部定政】
その矢部氏はなぜか「冨城中太蓮忍」の持っていた「冨城郷」を持っていたようなのである。

wikipedia 「矢部氏」より
暦応3年(1340年)には矢部綸綱による因幡国千土師郷の押領が確認されるほか、法美郡富木郷にも所領があったことがわかっている。

私はこの本郷氏となっていった「美作朝親」は中原と思っている。
そして、矢部氏は「元々は駿河国安倍郡矢部村の地頭一族であったが正治2年(1200年)正月、梶原景時一族が鎌倉を追われた際、幕府の命を受け駿河国清見関にて梶原一族を討ち取った。この時、父・平次為定は播磨国福田庄を、嫡子の暉種は因幡国八東郡山田村外20ヶ村を恩賞として与えられ入部、若桜鬼ヶ城を築城して安土桃山時代まで続く因幡矢部氏の始祖となった。」という。

この若桜というのは割と岡益の石碑や冨城郷に近い。


矢部 定利(やべ さだとし、生年不詳-延徳元年(1489年)11月)は因幡国の国人で同国若桜鬼ヶ城主。通称・八郎、官職は左衛門尉、山城守。子は宗春。

この定利と本郷氏から養子に出し矢部家定の養子となった矢部定政とは、どのような関係だったのだろう。

…矢部氏が持っていた「冨城郷」はそれ以前は本郷氏がもっていたのではないだろうか?
それが巡り巡って、戻ってきたとも考えられる。

ともかく、何かしら「本郷氏」「矢部氏」とは関係がありそうなのだ。
そこで、考えた挙句に「本郷氏の先祖の美作朝親は中原姓である。」ということであった。

または「大中臣氏」ともいえるかもしれない。

===*===

しかし、中原氏であり、片岡氏、美作氏、橘氏、千葉氏、海上氏、小山氏、を併せ持つ系なんてあるのだろうか。

美作氏は、詳しいことがわかっていない氏である。橘氏と家が向かい合わせであったらしいことは分かっている。この美作氏も橘氏の一族だったのだろうか?

鎌倉幕府御家人であったこともわかっている。
平次為定が播磨国福田荘を賜わったというから、その線も調べてみようと思う。

中原氏であり、片岡氏、美作氏、橘氏、千葉氏、海上氏、小山氏、を併せ持つ系‥‥それは、大中臣氏なのだはないだろうか?

===*===
memo

http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/utunomiya.html









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4 コメント

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Unknown (jikan314)
2020-05-06 12:04:20
百人一首の宇都宮頼綱が、関係者だと面白いですね。
連休中、百人一首ばかり読んで、一部不明な字の○を図書館で調べようとしているのに、図書館が閉館でどうしようもなく、諦めていたのですが、図書館も一部開館するとの事。特別警戒の13都道府県なので、市長の判断ですね。それでなくても密になりやすいし、如何に短時間で調べられるか?ですね。
拙句
夏はきぬたつことかたきかぜの空
(来ぬと絹、立つと裁つ、絶つ、難きと仇の風邪。立夏、絹と裁つは縁語とちょっと複雑に。接触には十分ご注意を)
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頼綱と同時代を生きています! (kunorikunori)
2020-05-06 21:20:27
Jikan様

宇都宮頼綱1172年生まれ
九里経久が片岡だった場合は1173年生まれ

同時代に生きています。きっと近くで。

註つきの句、うれしいデス。
絶つ、難きと仇の風邪…なるほど!
絹と裁つが「縁語」というのもおもしろいです。

いつも考えたり、いつも触れていないと、なかなか思いつかないものなのでしょう。俳句も和歌も。

さぁ、今日はひとつ俳句でも!と思っても何も出てこない哀しさ。。。日頃考えていないし…と絶望感。

でも、せっかく日本に生まれたのだから、俳句や和歌の世界も知りたい!と持っているこの頃です。



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Unknown (りひと)
2020-05-07 17:46:00
美作市ってかなり昔から気になる地だったんですけど、この前伊豆の箕作って地名で流された道の付く方の関わる地名と関係ないかな?とちょこっと調べてみましたよ。橘と関係あるって言ったら薬とか医学というかジャパニーズ漢方とか変わるならかなり私のワークとも関わるわけですので。

そこで美作の現在の観光スポットで見ると役行者と地蔵とお湯の神社と薬師堂って完璧過ぎる私の好物ありますね。ただここ同時にトリックもありそうなので私はまだここにはタッチしないで今後環境良くなってから掘ってみるつもりです。今日本でちゃんとして欲しいのは医療関係でして神が降臨して欲しいんですよね、ただ今コロナでその中での凄さを日々感じてますので今後若い医師の為に素晴らしい先輩や医師にちゃんと評価をして欲しいとも思っています。今間口が狭くまたお金がかかる為本来素晴らしい素材がそこに入って行けないのは日本全体としてももったいないわけです。ただ入試の怪しさは改善されてきてますよね。今後の医療のためにも古代から探したい民族がいます。

あと箕ですけど、蓑か簑と大昔は間違えていたんですけど農業の道具ですよね。これ結構神社とかでも大好きなアイテムなんですよ。美濃とか音でも好きですけどね。
箕作としてはお城とか名字とかでも六角氏や四つ目結とか男系より女系のがとか色々面白いけど納得しちゃう事は出てきてましたよ。多分このプログの探究にも役立つように思いますね。ただ情報少なそう。

因みに音では、みまかさなのでカサは付くので笠探索の私は昔から怪しく思ってはいた所です。笠付く所は、鏡の関係のにおいがするんですよ。植物関係ですかね?

で大原と文字も出るし、大原確率も高いんですよね。気になる場所は。あと伝説では鷺出てくるんで古代で考えると仁徳さん時代からこの辺りの歴史は知りたいですよね。鳥取近いですし、松平さんもどこかで出てきたかな?
神社の関係では円仁さんや鑑真さんや孝謙でしょ?この辺りよりも前ないわけないですよね。孝謙だけに。十一面とか岡山最古の木造建築って奈良と関係ない訳もないんですよね。多分明日香村も関係するんではないかな?と。あと神社の源泉の写真には塩湯社ってあるんですよね、今日本オリジナルかもしれない製塩土器の一族も探究しているのでその流れとも関係しそうでワクワクします。

多分橘、丹治比関係での道真系の乳母関係との関わりはある一族っぽい文字ですよ。箕作じゃなくても。
間違いなく古代の中心にも関係しているでしょうね。

という事で私は古代の奈良からのアプローチで探ってみます。今の境界だと岡山になりますから古墳の出土品からが早いはずですが、古代寺院跡でも探れそうに思います。ある一族がある時代にその土地にやってきてその地がその地名になる事ももちろん普通ですからそれじゃあつまらない。浪漫を求めてもっと前からとか地元の方が呼び名を残したとかその方が楽しくなるんであえて遠回りして探ってみます。神社の祭神さんでも農耕の道具の神さんもいるんでかなり面白いですよ。世にあまり出てない神さんだけにかなり美作って文字だけでも興味あります。人間の命を繋ぐ為の、生きる糧を作りそして食べ物を得てそして医療までの知恵があったならコロナの知恵もありそうにも思いますね。
喋れなかった皇子のために鳥捕まえてきたあの辺りと崇神の辺りでも関わってくるでしょうね。

そうそう、昨日見逃しかけたんですけど明智光秀の守り本尊が地蔵だったような。で最後にお寺に寄進したのがお風呂(サウナ)でしたよ。明らかに私の探究の好みです。ラベンダーのエッセンスオイル一滴落としたら睡眠完璧ですよ。古代の奈良でやってないかな?コロナ対策の知恵ないかなぁ?仁の時は菌だけに難しいですけどあの明智風呂からヒントないかな?とも。鹽竈に似てたんですけど塩も美作関係してくると面白いんですけどね。赤穂にも近くなるので。
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箕作氏は近江源氏佐々木氏支流だそうです。 (kunorikunori)
2020-05-07 21:10:05
りひと様
ごさんべえさんのブログに「箕作氏」があります。
http://gos.but.jp/mitukuri.htm

大原も佐々木高綱の娘がお寺に入っていました。

お塩も、和漢方も、身体に大いに影響しますよね。
そう言えば、永田氏にも、曲直瀬氏にも、乾氏にも医師がいて、意外と九里と近いところにいる人たちと思った記憶があります。

JINを見ていたら、ネタバレですが、ペニシリンも療法であったようでした。
https://mag.japaaan.com/archives/84628

サウナの発想もあったのですね!すごい日本人。
畳の下から蒸すのを何かで見たような…??

美作、まだ調べたことがないので、機会を作ってみたいです!
美作と名のるからには、接点があるはずです。
いろいろとヒントをありがとうございました!!
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