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山縣国政の裔の原氏 原頼忠 

2023-01-22 | 中原氏バラバラ情報

蜂屋三郎の左にいる原四郎頼忠!

 

原頼忠山県政信頼清)の子、小島頼資(家信、美濃小島氏[1]の祖)・彦坂頼定経国、彦坂氏[2]の祖)・蜂屋頼経の弟、不破頼胤の兄。

 

多田頼清ともいう。

山県政信 : 別称は頼清、通称は美濃次郎、「山縣頼清」とも呼ばれる。源頼光の6世の孫頼国の玄孫、多田頼綱の曾孫、国直(山県冠者)の孫、山県国政の子、飛騨瀬国成(飛騨瀬氏[1]の祖)の弟、国時(福島冠者)[2]頼兼(清水冠者)の兄、小島頼資(家信、美濃小島氏[3]の祖)・彦坂頼定経国、彦坂氏[4]の祖)・蜂屋頼経原頼忠不破頼胤の父。父の後を継いだ。

 

源頼光の弟に源頼信がいるが、源頼信は1019年に石見守となっていて、その石見守の許で働いていた久利氏である。(石見守清原定隆もいる)この久利氏も元は清原氏であった。

 

さて、この山縣頼清=多田頼清の息が原頼忠となるのだが、、、、

平安時代後期の武将山県頼清(やまがた よりきよ)のこと。山県氏の祖・源国直の孫(父は源国政)。相模国田所目代となっており、天養元年(1144年)10月21日、源義朝の郎従らとともに大庭氏大庭景宗)の屋敷を襲撃したとの史実が伝わっている。

義朝についていた、相模国田所目代であった、とすると、関東とも十分に縁があったことになる。

その息の頼忠という事は、年代はほぼ中原久経(1146年周辺の生まれ)と同世代かとも思われる『原頼忠』である。

原高成や高春も上総介広常の周辺にいた時代にもかぶっているかもしれない。(上総介は1184年没)

 

山縣国政は斎院次官(京都賀茂神社の斎宮の事務)も務めており、何等か尾張の二宮とも関係があったのではないだろうか?

源義朝とともにいたという事は、長田・鎌田氏他とも共に行動することもあった頼忠の父頼清である。

 

船橋市の郷土資料室からの情報だが、

「忠常の子孫がいつ千葉氏を名乗るようになったか明確ではないが、曽孫にあたる常兼か、その子常重の代ころであろうと考えられる。そのころ本拠地を千葉庄(ちばのしょう)に定めたと想定されるからである。

しかし、常重・常胤父子の代には所領のうち、相馬御厨や立花庄(東庄)を、下総国司藤原親通(ちかみち)によって没収されるという困難な状況に追い込まれてしまった。官物未進(租税滞納)という理由からである。千葉氏にとっては寝耳に水の言いがかりであったかもしれない。そのため父子は、両荘園の回復をはかって長期間奔走したが、懸命の努力にもかかわらず、荘園は源義朝の手を経た後、義朝滅亡後には藤原親盛(親通の子)から譲り受けたと主張する佐竹義宗に奪われてしまった。

当時は平清盛の平氏政権の支配が関東に及んだ時期で、下総国の目代(国司代理)も平家方であり、前記の親通の孫で下総に勢力を広げた藤原親政は平忠盛(清盛の父)の女婿である。そのように、平家方の親通系が土着する過程で、最も被害を受けた在地領主が千葉氏であった。

 

wikipediaの相馬御厨のページ

「平家政権下の永暦2年(1161年)正月、佐竹義宗(佐竹隆義の次兄)が相馬御厨を寄進するという事件が起きる。

佐竹義宗が前下総守藤原親通が持っていた新券(証文)を親通の次男・親盛から入手し、奪いとったのである。佐竹義宗の寄進状には「自国人平常晴今常澄父也、手譲平常重并嫡男常胤、依官物負累、譲国司藤原親通朝臣、彼朝臣譲二男親盛朝臣、而依匝瑳北条之由緒、以当御厨公験、所譲給義宗也、然者父常晴長譲渡他人畢所也」とある。

これを知った千葉常胤も翌2月に再度伊勢神宮に寄進の意向を示した。そもそも藤原親盛から譲り受けた新券(証文)はとっくに無効になっていたはずだが、藤原親盛の娘は平重盛の側室だった。」

 

山縣氏…原氏とのつながりもある。佐竹秀義の妻の一人は山縣国政の娘であった。

佐竹義宗と佐竹秀義の関係は?

 

佐竹義宗 コトバンクより ↓

平安後期の常陸国(茨城県)の豪族。清和源氏の流れで父は佐竹氏の祖昌義。通称竹田三郎。兄弟に忠義,隆義,昌成らがいる。平治1(1159)年平治の乱で源義朝勢力が没落すると,平氏方有力者である下総守藤原親通と結んで下総国に勢力を拡大。千葉常胤らを排除して,義朝敗死ののち謀反人の所領として闕所となっていた相馬御厨の領有権を主張,応保1(1161)年伊勢神宮に御厨を寄進し,御厨預職を相伝した。相馬御厨の権限は藤原親通の次男親盛(平重盛の義父)より伝領したもの。八条院に出仕し,子の義賢ともども八条院判官代に任じられ,またのちには鳥羽院の近臣として中央政界と密接なかかわりを保った。治承4(1180)年,源頼朝の挙兵に並行して千葉常胤が千田親政(藤原親盛の嫡男)を滅ぼし復権したため,この前後に没落したらしい。<参考文献>野口実『坂東武士団の成立と発展』

(海津一朗)

平安時代後期の常陸国武士佐竹昌義の子。通称三郎(佐竹義宗)

佐竹秀義の妻は佐竹義宗の娘!! さらに秀義の妻に宇都宮朝綱娘、山縣国政の娘、もいる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%A7%80%E7%BE%A9

 

義宗の兄に佐竹義政

義政の娘聟に片岡経春(常春)がいる。

 

山縣・原・佐竹・片岡・藤原親正(中原親盛)…

更に陰に隠れているが『上総広常』  

上総広常は佐竹義政を殺している。

 

 

 

 

 


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