つい、同じ名前が出てくると同一人物にしたくなる私ですが、全国に同じ名前の人はたくさんいるでしょう~と自分に突っ込みを入れたくなります。
しかし、古文書に名前が上ってくる人物となると限られてくる!と思うのです。
そこで、源宗長、この方はまたの名前が小笠原宗長です。ここまでは東京大学史料編纂所の中の古文書にもあり、確認できました。
【綱文和暦】 元徳2年9月6日(13300090060) 1条
【綱文】 信濃守護小笠原宗長卒す、
手稿のものに、貞宗…清和天皇十七代後胤 信濃守源宗長嫡男となっており、母中原経行女
と書かれております。
ところが、次の文書が
【綱文和暦】 元弘3年6月7日(13330060070) 3条
【綱文】 小笠原宗長、関東平定の状を報ず、是日、足利高氏書を与へて之を労す、明日、又、書を与ふ、
【区分】 大日本史料
【人名】 小笠原宗長,足利高氏
・・・となっていて、1330年に亡くなっているはずの小笠原宗長がまだ存在していることになっています。
同じ文書の中に、以下の言葉がありました。
『深志系図に元徳二年に卒ストアルハ、誤レリ。』となっていて、出家後の信濃入道宗長まだ生きておりました。
この1333年までは、生きていたのです!
さて、次に【中原宗長】という人物もいるため、この人も源・小笠原宗長かもしれないとおもい、調べてみました。
仁治3年に従五位下となっており、1243年に出てきているので、活動している時代がちょっとずれているようで、別人であろう…と判断しました。
此の人は、中臣祐賢記文永十年1273年四月十二日条にでてきて、一緒に神事に係っている人のようです。
宗長どうし、時代がかぶっていると思います。
しかし、古文書に名前が上ってくる人物となると限られてくる!と思うのです。
そこで、源宗長、この方はまたの名前が小笠原宗長です。ここまでは東京大学史料編纂所の中の古文書にもあり、確認できました。
【綱文和暦】 元徳2年9月6日(13300090060) 1条
【綱文】 信濃守護小笠原宗長卒す、
手稿のものに、貞宗…清和天皇十七代後胤 信濃守源宗長嫡男となっており、母中原経行女
と書かれております。
ところが、次の文書が
【綱文和暦】 元弘3年6月7日(13330060070) 3条
【綱文】 小笠原宗長、関東平定の状を報ず、是日、足利高氏書を与へて之を労す、明日、又、書を与ふ、
【区分】 大日本史料
【人名】 小笠原宗長,足利高氏
・・・となっていて、1330年に亡くなっているはずの小笠原宗長がまだ存在していることになっています。
同じ文書の中に、以下の言葉がありました。
『深志系図に元徳二年に卒ストアルハ、誤レリ。』となっていて、出家後の信濃入道宗長まだ生きておりました。
この1333年までは、生きていたのです!
さて、次に【中原宗長】という人物もいるため、この人も源・小笠原宗長かもしれないとおもい、調べてみました。
仁治3年に従五位下となっており、1243年に出てきているので、活動している時代がちょっとずれているようで、別人であろう…と判断しました。
此の人は、中臣祐賢記文永十年1273年四月十二日条にでてきて、一緒に神事に係っている人のようです。
宗長どうし、時代がかぶっていると思います。