九里 【九里】を探して三千里

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高庭介資経 のこと 長田氏 と 日野氏・藤原山内氏 との関係

2020-10-11 | 永田氏

千葉氏のHPの中の安達盛長の上方の囲み部分にあった「高庭介資経」に関する記述である。
https://chibasi.net/adachisi1.htm 

【藤七資家 因幡国の高庭介資経が付けた親族 高庭介資経の出自は伝わらないが、「累代芳契輩」の一人と推測される。
源氏累代の家人で「資」「経」字を伝える「藤」姓の人物であることから、源義家の郎党であった藤原資道の流れを組む人物の可能性があろう。 『吾妻鏡』寿永三年三月十日条】

藤原資道とは、調べてみると助清の息である助道のことである。その系は山内氏・小野寺氏となっていく。 
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_40.html

山内氏は戦国時代に九里氏と縁のある深尾氏・片岡氏・乾氏とも関係が深い。


もう一つ気になったのが 藤原(日野)資憲の関係者となる高庭介資経の記述である。一番下の部分である。

http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1087.html

【頼朝は自らの祖父為義の祖父有綱親光の曾祖父(父方の有信、母方の有定)が兄弟であったため、親光を「御外戚」と呼んだのである。
さらには親光の父資憲が頼朝が仕えた上西門院の兄崇德院の側近であったことから、これを大切に扱ったのである。
頼朝への大功により出雲大社神主に補任された内蔵資忠、平家方となったが罪を許されたのみならず本領を安堵された因幡国住人長田実経(父高庭介資経が頼朝が伊豆に配流された際に一族の藤七資家を派遣。「藤七」から長田氏が藤原姓であったことがわかる)はいずれもその父等が日野資憲との緊密な関係を結んでいた。

今までも藤原親光の周辺は調べていた。が、今までは長田氏(高庭介)の視点はなかったので、そのことをプラスすると、益々、九里氏は長田氏と関係がありそうだと思ってしまう。 

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E5%85%89

つまり長田資経や実経もまた日野氏と関係があったという事が、様々な今後の関係にも繋がったのではないだろうかという事である。

経任(九里の祖経久の父)の兄・中原景経は判官を広橋経光に推薦されている文書が残っている。(1244年)

冨城氏(富木氏)の親戚であった者(伊賀国御家人中原能兼)も日野氏の家司的な職に就いていたのではないかと思われることがあった。
それは、『兼仲卿記』の背面に「能兼申状」が書かれてあった事である。
ともかく近くにいた事は間違いないと思われる。

能州の若山荘の久能利氏として日野氏の被官と成っていた事。

足利義澄を匿うことになったのも、日野氏との関係もあったかもしれない事。

等である。

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