九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

長田資経・実経が平頼盛との関係から平家方となり・・・

2021-12-21 | 九里バラバラ情報

以前の記事のどこかにある「その子実経が平頼盛との関係から平家方となり…」と云う部分が、

近江国でも平頼盛の裔と朽木荘との関係があったので引っかかった。

 

長田資経や実経は頼盛の家司であったのか?

または、領主と地頭のような関係があったのだろうか?

 

少々遠回りになるが、中原清業が平頼盛の郎党であったはずなので、そこから調べてみようと思う。

どうも長田氏と中原氏が同じような立ち位置にいたような気がしてならないのだ。

「八条女院の家司は平頼盛であり、中原清業はその頼盛の後見侍または郎従」と言われていたそうである。

【四国・九州地方の荘園】 網野善彦, 石井進, 稲垣泰彦著より

 

歴博のデータベースには「預所対馬前司清業(平頼盛家人中原)」も見える。(球磨郡人吉庄)

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/292cda4c171b09e91c5dab2ae0a40cfc

 

近江国高島の朽木氏の経氏は頼盛の裔河内顕盛の養子となるのである。(下記のアドレスに系図があります。)

https://myagi.jp/ja/html/travel/travel58.html

高信―頼綱…

頼綱は永田胤信の兄のことである。

 

中原清業は坂上氏からの出であり、坂上清重の息である。

坂上職実 ━ 実重 ━ 重盛

重盛の子豊前介清重は乳父主計允定清の養子となり中原氏を称した

子孫は白川院以下の北面の武士として仕え、・・・

 

清業は播磨国目代として文治二年から文治五年迄 任についていた。(1186-1189年)

この頼盛の中原氏周辺と朽木とのつながり、

更には因幡国での長田氏・出雲国での長田氏

近江国の経方から高信以降までのつながりと、

どこか引っかかるのである。

 

更に、細かく見ていくと、

坂上氏と墨田保周辺、(藻原)

清業と藤原実明とのつながり(丹波国室尾谷観音寺の寄進の件)

…等々、みな其のライン上にある。

 

八条院領の主「暲子内親王」と平頼盛は‥‥

「池大納言平頼盛は八条院乳母子を妻として女院の官人となっていた。」とwikipediaにもある様に、すぐ側にいる人物であった。

その頼盛の配下にいたのが中原清業であり、また長田資経・実経でもあった訳である。

だからこそ、藤七資家を源頼朝につけて伊豆迄、おくりとどけることもできたのであろうと思う。

 

出雲国・石見国・因幡国における「八条院領」の場所は、近くの図書館が復活してからになりそうである。(只今改修中で‥‥予約しても遠くまで取りに行かねばならず)

 

久利氏から調べても、九里氏から調べても、同じようなところに帰着する。

中原清業の「清」も、清原っぽく、しかも藤原親光が帰国したために対馬守を追われ…

また、藤原実明の許で目代を務めていた事もある。

中原経久蓮忍入道が河守御荘地頭である時に、室尾谷観音寺に寄進するのだが、其の寄進先に藤原実明の息蓮乗がいた事、等々、今までため込んでいた一つ一つのピースが生かされてきたようなのだ。

 

過去に調べた「紀氏のルーツ」さんのページより復習すると…

紀盛宗下野守の娘(紀朝臣成高の後裔) 経方の妻とあった。更に行実の妻にも紀盛親の娘(奥津島に在住?)を娶っている。

 

思えば、日牟禮神社も武内宿禰も関係していたか?

周辺に紀氏がたくさん存在していたのだ。

 

更に新屋氏と新谷氏が同じ一族であるかもしれず、こちらも調べてみる必要が出てきたようである。紀盛親の娘が妻である。

また、敏満寺の神官職に「新谷氏」がおり、久徳氏が妻となっている一例があったのだが、この「しんがい」氏も「あらや」「しんや」とも読める。

ここが同族となれば、久利・九里・久徳も一族の可能性がアップするのではないかと思っている。

 

 井上三郎大夫行実―井五郎行方―新屋源太行景―五郎景頼―八郎景綱
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1169年の久利文書 鎌倉時代が抜けていて 1336年久利家文書が再び出てくる。(8)日野資憲と藤原親光 の 周辺

2021-12-14 | 九里バラバラ情報

藤原親光は、中原飛騨守親光と同じ名前のために、調べたことがある。

この人物は、頼朝によって中原清業から藤原親光に「対馬守」が代わることとなった、其の親光のことである。

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/62c78ea0d0e044f954412374ad46b978

 

さて、この藤原親光の方、日野であった。

日野資憲の息三人には「光」の文字がついている。資憲の父「実光」の「光」から来たと思われる。

俊光・基光・親光 その三人の妹は平教盛に嫁いでいるのである。

 

東京大学史料編纂所 web

  韓客筆語
【著者名】 林信勝[羅山]etc.問 朝鮮信使答

藤原親光については『吾妻鏡』文治元年6月14日条等に記事があり、平氏の軍勢から逃れて高麗に渡った対馬守親光が、従者の猛虎を射た功により、高麗王から厚遇されたが、重宝を得て帰国したという。

 

また、親光の父日野資憲は、長田氏とも関係があり、下記のブログによると

http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/973.html

「因幡国の有力在庁官人であった長田資経が日野資憲との関係からその名を名乗り、保元の乱後はその子実経が平頼盛との関係から平家方となり、知行国主隆季のもと一の谷合戦に参陣した可能性は高いと思われる。

因幡国住人長田兵衞尉実経が召され(頼朝ではなく西国の義経・範頼のもとであろう)、頼朝から文書を与えられている。その内容は、実経は平家に同心したので罪科に処すべきであるが、その父高庭介資経が、平治の乱後伊豆に配流される頼朝に対して一族の籐七資家を派遣したことに免じて、本知行を安堵するというものであった。それだけにとどまらずに、実経は広経に改名し、その子兵衛太郎広雅は幕府引付衆となっている。」と書かれている。

 

さてさて相撲の家でもあった長田氏とこの石見の話が繋がってきたようである。この共通項は「日野氏」

過去に書いたブログの記事と重なるが

「経任(九里の祖経久の父)の兄・中原景経は判官を広橋経光(日野流広橋家)に推薦されている文書が残っている。(1244年)

冨城氏(富木氏)の親戚であった者(伊賀国御家人中原能兼)も日野氏の家司的な職に就いていたのではないかと思われることがあった。
それは、『兼仲卿記』の背面に「能兼申状」が書かれてあった事である。)(=広橋兼仲
ともかく近くにいた事は間違いないと思われる。

能州の若山荘の久能利氏として日野氏の被官と成っていた事。


足利義澄を匿うことになったのも、日野氏との関係もあったかもしれない事。」につながってくる。

 

清原=久利=冨城・富木=中原=九里 となろうと、私は思う。

そして、因幡国住人であった長田氏と因幡国在庁官人であった冨城蓮忍入道は関係があったと思われるのだ。

 

日野氏がキーワードだとすると、

石見守藤原在国は藤原有国の事のようだ。

母親は橘仲遠の娘で、播磨守仲遠である。

上総守橘佐臣とあるので、そこを遡っていくと奈良麻呂に至り、その父は諸兄である。

和歌山の九里の祖の系図に「橘逸勢」の名が見えたという方もいらして、あながち遠くなかったのかもしれない。

奈良麻呂の孫娘に藤原真作に嫁いだものがいる。

 

橘仲遠の娘徳子と藤原有国の息が資業であり、日野氏の祖である。(988-1070)

この資業のもとにいた清原氏が久利氏であったのかもしれない。

 

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高庭介資経 のこと 長田氏 と 日野氏・藤原山内氏 との関係

2020-10-11 | 永田氏

千葉氏のHPの中の安達盛長の上方の囲み部分にあった「高庭介資経」に関する記述である。
https://chibasi.net/adachisi1.htm 

【藤七資家 因幡国の高庭介資経が付けた親族 高庭介資経の出自は伝わらないが、「累代芳契輩」の一人と推測される。
源氏累代の家人で「資」「経」字を伝える「藤」姓の人物であることから、源義家の郎党であった藤原資道の流れを組む人物の可能性があろう。 『吾妻鏡』寿永三年三月十日条】

藤原資道とは、調べてみると助清の息である助道のことである。その系は山内氏・小野寺氏となっていく。 
http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_41_40.html

山内氏は戦国時代に九里氏と縁のある深尾氏・片岡氏・乾氏とも関係が深い。


もう一つ気になったのが 藤原(日野)資憲の関係者となる高庭介資経の記述である。一番下の部分である。

http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1087.html

【頼朝は自らの祖父為義の祖父有綱親光の曾祖父(父方の有信、母方の有定)が兄弟であったため、親光を「御外戚」と呼んだのである。
さらには親光の父資憲が頼朝が仕えた上西門院の兄崇德院の側近であったことから、これを大切に扱ったのである。
頼朝への大功により出雲大社神主に補任された内蔵資忠、平家方となったが罪を許されたのみならず本領を安堵された因幡国住人長田実経(父高庭介資経が頼朝が伊豆に配流された際に一族の藤七資家を派遣。「藤七」から長田氏が藤原姓であったことがわかる)はいずれもその父等が日野資憲との緊密な関係を結んでいた。

今までも藤原親光の周辺は調べていた。が、今までは長田氏(高庭介)の視点はなかったので、そのことをプラスすると、益々、九里氏は長田氏と関係がありそうだと思ってしまう。 

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E5%85%89

つまり長田資経や実経もまた日野氏と関係があったという事が、様々な今後の関係にも繋がったのではないだろうかという事である。

経任(九里の祖経久の父)の兄・中原景経は判官を広橋経光に推薦されている文書が残っている。(1244年)

冨城氏(富木氏)の親戚であった者(伊賀国御家人中原能兼)も日野氏の家司的な職に就いていたのではないかと思われることがあった。
それは、『兼仲卿記』の背面に「能兼申状」が書かれてあった事である。
ともかく近くにいた事は間違いないと思われる。

能州の若山荘の久能利氏として日野氏の被官と成っていた事。

足利義澄を匿うことになったのも、日野氏との関係もあったかもしれない事。

等である。
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バラバラ情報 (土岐播磨守と書かれている)

2019-07-14 | 雑記

中原、清原、坂上、岡田の関係
中原清業の父「史大夫中原清貞」は坂上重盛の子息であり乳夫主計允「中原定清」の養子になった。
中原清業は坂上氏系図の「坂上(岡田)清業」であった。


土岐頼尚につながる系図 天海にまで…
土岐光行―光定ー舟木頼重ー頼夏ー頼春ー頼尚ー政尚―政頼ー舟木光俊・・・・天海


千葉氏と深尾氏とつながるのか?
千葉&中原:深尾・土岐斎藤に属す(遠山からの養子):山内 :乾


播磨関係
ある書では、常忍が「土岐播磨守常忍」として書かれている。
この検証をしてみたいが、まず思い出すところから。





藤原実明(播磨守):中原頼業(播磨目代)(坂上・岡田・清原):藤原親光 


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何故、親光にこだわるのか。本郷氏の出自は~

2018-01-04 | 雑記
藤原親光が一区切りし、今度は村上源氏の出自かもしれない「本郷氏」に関してである。

姉妹編に書いてみたが、私はどうも本郷氏の親光は「中原氏」のような気がするのである。

中原親光と朝親が同時代に居るのである。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2

そして以前このブログに書いた記事とつながる。(下の3つの記事)
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/親光

コノ中原親光と朝親ならば、九里とダイレクトにつながり、しかも本郷氏との関係もわかるのである!

解明したい!! 


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対馬守藤原親光と源頼朝の関係

2018-01-03 | 雑記
対馬守藤原親光
『対馬守親光は頼朝の外戚』と様々な本に書かれているが、そこから突っ込んだものが見当たらない。想像でも良いので、知りたいので、調べてみることにした。

東京大学史料編纂所の研究報告に中原清業から藤原親光に「対馬守」を交代させた経緯が載っていたが、清業に過があった訳でもなく頼朝の要望で交代させられ「親光」となったことがわかる。
その註(41)に
『尊卑分脈』には親光は右大臣内麿孫として実光│ 資憲│親光という系譜で見え、親光の姉妹が平教盛の室で通盛・教経の 母であることは見えるけれども、頼朝との関係は定かではない。~~~とある。
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/23/kiyo0023-01.pdf


私は、「親光」という人物が中原親光ではないのかどうかに興味があったのだが、当の中原親光が「対馬守」となった形跡はない。また、他にも厳島神社の藤原親光が二名いたが、いずれもどのような人物であったかを確かめることができなかった。
で、この報告の中の註にも記載のあった「実光ー資憲ー親光」を探してみると、「藤原北家日野流」であった。

日野氏と源頼朝の接点は、私の知る限りで二つある。
ひとつは「親鸞」である。
親鸞の父は日野有範と言われており、母親は「吉光女」(きっこうにょ)と言われており、この吉光女は清和源氏・八幡太郎義家(1039-1106)の孫娘と言われている。
http://www.heibonnotomo.jp/japaneseworld/id383.htm

二つ目は、一つ目とも関連するのだが、


為義の母親が日野から出ていたのある。ということは頼朝にとっては曽祖母が日野だったのである。

この二つ以外にも接点はあったかもしれないが、私が調べることができたのはこれらであった。

「日野」と聞いただけで、曽祖母、祖父為義に思いを馳せてしまったのだと思う。そして、親鸞は頼朝の甥という説も、私的には合致する。

実は日野流には他にも有範という人物がいて、この曾祖母となる方の近くに居たので、その方もアヤシイのでは…と。
でもそこは深入りはしないでおこうと思う。調べていらっしゃる方が多数なので、きっと他の方が調べてくださると思う。

そこよりも、もっとすごいことが見つかってしまったのだ。
日野の中に、源有仁の勾当をしている人物が二名いたのである。しかも、号猫間って、義仲の時に聞いたことのある名前!(時代は違うが)



この勾当のことは、今まで調べてきた「散位源行真申詞記」の解明につながったようなのである。
http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/友員
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親厳の父、親光

2017-02-27 | 隋心院
【藤原定能】は、またいつの日かにして、気になっている【親光】を書こうと思う。


中原親厳の父親は【親光】である。

中原親光であり、大江親光であり、藤原親光である…かもしれない??

中原親光=大江親光 という処までは、周知されている事と思うのだが、親光という名前は、流行していたのか年代を問わず見ると、古文書に残っている人は多々いるので、注意が必要と思う。同じ時代に何名も…
東京大学史料編纂所の方の論文を拝見させていただくと、対馬に赴き、高麗へ逃避し、後に帰国した人は【藤原親光】である。
大江・中原親光とは、別人かもしれない。しかし、近いところにいた人物ではある。

中世(wikipediaより)
治承・寿永の乱の際、当時の対馬国司藤原親光は源頼朝の外戚であったため、源氏軍に心を寄せて、1183年(寿永2年)京都へ赴こうとしたが、平氏が九州全土を制圧していたため対馬を出発できなかった。平知盛は、大宰少弐原田種直を通して西海道の武士に屋島への参陣をうながしたが、親光が拒否したので平氏より3度追討をうけた。親光主従は高麗国に逃亡したのち、1185年(文治元年)6月に対馬に戻った[23]。


~~~*~~~
以前にもブログに登場した二人。

顕厳   僧都 【中原広忠の息】(※諸門跡譜による。随心院。牛車。東大寺別当。東寺長者。護持僧)(親光の弟

親厳   法務,大僧正 【中原親光の息】
(広季猶子。随心院。東寺長者。東大寺別当。牛車。法務。大僧正。嘉禎2年12月2日(ユリウス暦:1236年12月31日)入滅〔諸門跡譜作10月2日〕。
号唐橋僧正〔諸門跡譜作広橋僧正〕)

親光は広忠の息であるので、親厳は広忠の孫となる。

大江維光の系図に、親光が養子となって記載がある~~と言うことは、親厳は大江維光の孫にもなるのではないだろうか。

ところで、鎌倉時代とこの親光のことが、web上にあり、【源雅頼】という人物が出てくる。家人が中原親能であるという。(家司の事と思う。)

支障のない範囲でご紹介したい。

~~~*~~~

頼朝の上洛の野望が王権中枢における本格的な政治問題となったことを示す史料は『九条兼実日記』寿永三年二月一六日条であろう。それによれば、兼実のところにやってきた源雅頼は、その家人の中原親能が「院御使」として頼朝の上洛を促すために東国に下向したと語り、さらに「頼朝四月に上洛すべし」という観測をも伝えている。そこには親能に対して後白河院の「頼朝もし上洛せざれば、東国に臨幸あるべきの由」という意向が伝えられたとも記されている。本論との関係で注目されるのは、同じ日記の二月二八日条に近衛基通が「外記大夫信成を使として頼朝の許に通はさる云々、人、何事なるかを知らず、今旦首途了云々」という記事がみえることである。この意味ありげな記事は、後白河による頼朝上洛の催促が最初から摂政基通と気脈を通じて企てられたものであることを示している。



円雅は、それに対して、まず親光という人物に依頼して、四日に使者を派遣することについて了解をえたということを報告し、さらに今朝ほどには、土肥のところにも下文を取りにやりましたと報告した。まず、この「親光」は、大江=中原親光、つまり大江系図(『尊卑分脈』)では、大江維光の子供で大江広元の兄として登場し、中原系図(『続群書類従』)では親能・広元の父の広季の弟、つまり親能・広元の叔父にあたる人物として登場する人物であろう。

この中原氏の一統は村上源氏の雅頼の家系と深い関係をもっていたに相違ない。そして、「土肥」は中原親能とともに義経軍についてきた「頼朝代官」土肥実平であることはいうまでもない。


http://hotatelog.cocolog-nifty.com/blog/reimei2.html

~~~*~~~

もう一つ、この中に登場する「近衛基通」とは、前回の記事にある「粟田口忠良」の兄のことである。

【源雅頼】という、私の見知らぬ人物がまた増えてしまった。

コメント (2)
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