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越中次郎兵衛盛嗣 と 按察使局伊勢

2019-11-25 | 雑記

因幡国【岡益の石堂】に関係する人物として
越中次郎兵衛盛嗣
按察使局伊勢
…を中心に書いてみたい。

岡益の石堂…但馬学研究会のwebページより
https://camel2.sakura.ne.jp/tajimagaku/blog/index.php?c=1-&PHPSESSID=32b07ebfb67abe0dcff5598b0d2c59b8

鳥取県因幡国府の地に『岡益の石堂(おかますのいしんどう)』と呼ばれる謎の石塔がある。ここは、この地に伝わる平家伝説にちなんで、宮内庁によって安徳天皇の陵墓参考地に指定されている。

この石塔には多くの謎が隠されており、未だに真実が解明されていない。
例えば、心柱のエンタシスと忍冬渦巻蓮弁放射
文様は法隆寺と同じで、新羅や百済、はたまたギリシャ文化の影響まで受けている可能性がある。この謎の石塔が安徳天皇の陵墓だというのだ。

安徳天皇は、二位の尼や越中次郎兵盛継らに守られて戦線離脱してこの地に辿り着いたが、病で崩御した。ここには天皇を祀る崩御神社と殉死した平家一門の墓がある。

但馬平家落人伝説の始まりは全てここから出ていると言っても過言ではない。



「平 盛嗣(たいら の もりつぐ)〜但馬の平家落人伝説はウソだらけ?〜 ◆
        山口先生の平家落人伝説論が炸裂!!
 
『平家物語』に平 盛嗣(越中次郎兵衛盛嗣)の事が記載されています

延慶本によると壇ノ浦の合戦の後、彼は落ち延び、但馬国に潜みますが、建久
五年(1194年)に捕らえられ、処刑されています。

 越中次郎兵衛盛嗣の名からも察せられるとおり、彼は、越中守・平盛俊の次
男の左兵衛尉で、平清盛の側近であった平盛国の孫にあたります。父の盛俊も
勇猛な武将として有名でした。

 平盛嗣については、平家物語にも多くの記述があります。有名なのは屋島の
合戦での伊勢三郎との詞戦でしょう。

 壇ノ浦の合戦後、盛嗣は、一度、平盛久らと共に都に潜入しますが、都では
平家の残党狩りが厳しく行われていたため、但馬の国に落ち延びます。その後、
彼は、城崎郡気比庄を本拠とする気比権守こと日下部道弘の屋敷にもぐりこみ、
馬飼いとなったといいます。ところが、いつしか彼は道弘の娘の許に通うよう
になり、道弘の婿となります。道弘は、彼がかの越中次郎兵衛であると気がつ
いていたが、黙認していたとか。

 一方、鎌倉方は盛嗣の居所を厳しく追及しており、頼朝は、「越中次郎兵衛
盛嗣、搦めても誅してもまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したと
平家物語(延慶本)にあります。

 そのころ盛嗣は、忍んで度々京に上り、旧知の女の許へ通っていました。や
がて女に気を許した盛嗣は、女に自分の居所を教えてしまいます。ところが、
この女には他にも情夫がおり、女は情夫が「盛嗣を捕らえて勧賞をもらいたい
ものだ」と言ったのを聞き、「わらわこそ知りたれ」と洩らしてしまったのです。

 捕らえられ鎌倉に送られた盛嗣は、「今は運つきてかように搦め召し候上は、
力及び候はず。とくとく道を召せ」と堂々と頼朝に言ったとか。その立派な態
度に、頼朝は盛嗣を助けて召し使おうと思いましたが、彼は平家の侍の中で一
・二の者であり、「虎を養う愁いあり」として、ついに由比ヶ浜で斬ったとい
われています。

===*===

この盛嗣の祖父が伊勢平氏の祖の平盛国である。wikipediaによると

平 盛国(たいら の もりくに)は、平安時代末期の伊勢平氏の武将。平清盛の側近。

父は平盛康、または平盛遠(『平家物語』)、平季衡(『尊卑分脈』)など諸説あるが、平正度に連なる一族と見られる。

子息・盛俊と共に「主馬判官管親子」などと称される事から、本拠は伊勢国壱志郡須可郷(現三重県津市)で、その荘官を務めていたと考えられている。他に鎮西にも知行所を有している。

盛俊の妻が厳島内侍。盛嗣の妻は気比道弘(日下部氏)の娘となる。

厳島神主家はもともと佐伯氏であったが、鎌倉時代には中原親能の一族藤原親実・親光が神主家となり、佐伯氏は神官となってしまう。

===*===

さて、按察使局伊勢の出自は異説日本史: 史蹟社寺篇. 第10巻によると、「吉田権中納言卜部信厚卿の娘」ということになる。

そこが藤原公通とつながると思う。藤原実明(公通の息)の息慈信の祖父に基仲帥と醍醐寺の系譜に記載があった。その基仲が卜部基仲であったことの証になるのではないだろうか。



吉田権中納言は吉田経房かと思われるのだが、その後についている卜部信厚卿は?である。
卜部兼延の孫の兼親(吉田系卜部家)・兼国(平野系卜部家→藤井家)と別れている。
しかし、その吉田系卜部氏からは「権中納言」は出ていないようなのだ。

権中納言である吉田経房の周辺に関しては後で探そうと思う。

卜部氏に関してはデジタルの系図があり、
その中に【卜部基仲】が書かれており、卜部兼延の六代跡となることがわかった。
その息は信仲である。卜部氏が「信」という字を使う系はほかに見当たらない。
信仲が、信厚卿のことではないだろうか?
基仲は鹿ヶ谷の事件で罪を犯したために、仲を厚に変えた…などという事はないだろうか。



卜部兼延(読み)うらべ かねのぶ
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説
卜部兼延 うらべ-かねのぶ
?-? 平安時代中期の神職。
吉田神道の吉田氏の遠祖。長保3年(1001)神祇大副(じんぎのたいふ)となる。一条天皇から兼の字をあたえられ,子孫は代々名前に兼の字をつけた。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
朝日日本歴史人物事典の解説

卜部兼延
生年:生没年不詳
平安中期の祠官で,のちの唯一神道の宗家・吉田家の発展の基礎を築いた。「卜部系図」によると,藤原氏から分かれ卜部の氏祖とされる平麻呂の子である神祇官宮主豊宗の孫。天暦3(949)年,平野社預を父好真から継承,それとともに神祇官に属する卜部から,中宮宮主,東宮宮主,さらに円融,一条2代天皇の大宮主を歴任した。長保3(1001)年に神祇大副となり,同家子孫が神祇官の次官に進む慣例を開いた。吉田兼延と称する場合があるが,当時は平野社預で,吉田社預が出るのは鎌倉期。吉田という社名を家名に用いるのは室町期。なお,兼延は室町後期の神道家・吉田兼倶によって『唯一神道名法要集』(唯一神道の中心的文献)の著者に擬せられた。

(白山芳太郎)



卜部兼頼 うらべ-かねより
?-? 鎌倉時代の神道家。
卜部兼経(かねつね)の子。「日本書紀」「文徳実録」「三代実録」などの研究をおこなう。「旧事本紀(くじほんぎ)」の書写で有名。嘉禄(かろく)2年(1226)石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に祭神,由緒,行事などを指南

===*===

…とすると、以前書いた「倉栖氏」が近い関係か。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E5%8D%9C%E9%83%A8



倉栖兼雄 卜部(吉田)兼好 慈遍 が三人兄弟である。

慈遍(じへん、生没年不詳)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての天台宗の学僧であり、神道家であった。卜部(吉田)兼顕の子で、「徒然草」の著者吉田兼好とは兄弟であるという。俗名は、兼清と称した。卜部氏の系図などには後世の付加が多く、経歴については不明な部分が多い。

幼いときに出家して公尋の弟子となり、後に後醍醐天皇の信任の厚かった天台座主慈厳僧正に仕え、法印に任じられた。一方で、伊勢神道を受容。南朝側につき、天皇を神意に基づく神国日本の永遠の君主とする立場をとった。

著書には「旧事本紀玄義」「豊葦原神風和記」「天地神祇審鎮要記」などがある。


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気になることメモ
権大納言 吉田経長
二条 定高(にじょう さだたか)は、鎌倉時代前期の公卿。藤原北家勧修寺流九条家、参議・九条光長の子。官位は正二位、権中納言、按察使。



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