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肥前国の波佐見出身と言われている 【原マルティノ】

2021-02-05 | コラム

ヴァリニャーノが日本(口ノ津港)にたどり着いたのは1579年(天正7年)7月25日のことであった。
この最初の滞在は1582年(天正10年)まで続く。

彼は日本各地を訪れ、大友宗麟・高山右近・織田信長らと謁見している。
1581年、織田信長に謁見。
従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したため、『弥助』と名づけられて信長の直臣になっている。

ヴァリニャーノは日本での司祭育成のために教育機関を創設し、

1580年(天正8年)の肥前有馬(現:長崎県南島原市)小神学校(セミナリヨ)を始めに、豊後臼杵に設置されたイエズス会入会の第1段階である修練期のための施設、修練院(ノビシャド)・豊後府内(現:大分県大分市)大神学校(コレジオ)さらに、信長に謁見した後と思われるが、近江安土(現・滋賀県近江八幡市安土町)小神学校(セミナリヨ)を始めている。

また、ヴァリニャーノが天正遣欧少年使節の企画を発案し、
日本人の司祭育成の「セミナリヨ」で学んでいたマルティノを含む4人の少年たちに『天正遣欧少年使節』としてローマへ行くことを提案し、実行。


【原マルティノ】

肥前国(現在の長崎県東彼杵郡波佐見町)出身といわれ、戦国時代の大村純忠(キリシタン大名)家臣 原中務大輔純一の息、家政の兄弟ではないかと言われている、原マルティノ。両親共にキリスト教徒であり、司祭を志して、セミナリヨに入った。


…という事は、もしかすると鎌倉後期に九州に渡った「千葉宗胤」に追随していった「原氏」の裔かもしれない。

とすると『ヨハネ原主水胤信』と同じ系である可能性もある。父親の「純」の字は主君から賜わった「純」であろうと思う。
前期原の系図を見ると時折「家」の字がついている。マルティノの兄弟であった可能性のある「家政」にも通じる。

===*===

肥前原氏(memo)(記事とは直接関係なし)
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1223905100/1223905100100010/ht010640
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1223905100/1223905100100010/ht010670
http://chibasi.net/hara2.htm

===*===

マルティノは当時の司祭の必須教養であったラテン語にすぐれ、語学の才能があった。彼は宣教活動のかたわら、洋書の翻訳と出版活動にも携わり、信心書『イミタチオ・クリスティ』(Imitatio Christi, 『キリストにならう』)の日本語訳「こんてんつすむんぢ」などを出版している。(wikipedia)

語学の才に長けていた『原マルティノ』
マカオでその生涯を閉じるのだが‥‥(1629年)

ヨハネ原主水胤信とほぼ同時代に生きた人物であることがわかる。

家族の少なかったと思われる「ヨハネ原胤信」がもしも宣教師からこのような人物(原マルティノ)がいると聞き及んだ時に、会ってみたいと思ったのではないだろうか。

この二人の原、気になっている。


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