九里 【九里】を探して三千里

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大橋氏の別の説

2019-12-22 | 雑記

別な説もあったので、ココに留めておきたい。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/n_tokai_tosan.htm

※大橋氏:
桓武平氏の流れであり、平貞能が肥後国山本郡大橋に下向し、大橋氏を称したことに始まるという。
大橋氏系図では平貞能(大橋貞能、太郎左衛門)の子が大橋通貞、その子は大橋貞経と続く。
更に系図では貞経-貞宗-貞俊-貞高(三河守)-貞則(三河守)-貞清(三河守)-貞省(三河守・貞清の弟)-信吉(三河守)-信重(和泉守)-定安(和泉守)-重一(三河大河内元網男)と続く。

後には南朝宗良親王(後醍醐天皇皇子)の末裔と称する。
宗良親王の末裔というのは、宗良親王の孫(神王)が大橋氏の養子(大橋信重、津島大納言)となったということに因る。
 
※大橋通貞:
一妙丸貞経の実父。大橋太郎左衛門尉、肥後守、法名:大橋院殿蓮実通貞大居士。母大夫高原女。
豊後国の地頭であったという。鎌倉の源頼朝に呼び出され、謀叛の疑いで投獄(土牢/光即寺本堂の裏山に所在)される。豊後の領知は没収。

12年後、成長した実子一妙丸は、実父を想い、鶴岡八幡宮に詣り、法華経を唱ええうという。このことは頼朝の耳に入り、一妙丸を召す。一妙丸は父に会うために鎌倉に来たと述べる。頼朝はこの一妙丸の心に感服し、通貞を赦免、本領を安堵するという。

※大橋貞経:
一妙丸、通貞の実子、太郎、肥後守、母鍋谷庄司女、
正嘉元年(1257)六月十一日卒、法名:本蓮院殿一妙麿貞經居士。
一妙丸と源頼朝との関係は上項を参照。

一妙丸は尾張國中島海部の二郡を頼朝より賜り、尾張に来たり、愛知郡中根村に天台宗法華堂を造立する。
但し、系譜については異説がある。

異説:「浪合記」では、貞経の父は貞能であり、頼朝に捕えられたのも貞能とし、通貞は登場しないようである。

※大橋信重:
良王親王の子神王丸が大橋家を継ぎ名を改めたという。(「尾州雑志」)
和泉守、津島大納言、奴野屋城主。
文亀2年(1502)4月3日卒。法名:本蓮寺殿従二位亜相神王大居士。なお亜相とは大納言の唐名である。
本蓮寺が信重の菩提寺である。

※良王
その系譜は、宗良親王(後醍醐天皇皇子)-尹良<ゆきよし>親王(宗良御子)-良王<よしゆき>(尹良親王御子)-神王 といい、神王は津島大橋家に入り、大橋信重と名乗るという。

○「尾張國海西郡津島之圖」延享5年(1748) より
 尾張國海西郡津島之圖:全図
 尾張國海西郡津島之圖:部分図:中央やや上に本蓮寺・妙延寺が描かれ、中央下は津島牛頭天王社が描かれる。





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