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九里 【九里】を探して三千里

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越前國一之宮 氣比神宮 中原政康・中原政経・景経(2)政経の追放 そして政恒法師

2020-11-20 | 中原氏バラバラ情報

三左衛門事件で追放となった中原政経はその後どのようにしていたのか私にはまだ情報はない。
しかし突如1246年 関東御家人として 近江国伊香郡 召次案主職 政恒法師が登場する。
どこにも中原氏とは書かれていない。が、中原景経が近江国伊香郡富永庄の召次勾当になっていたことがわかっている。ならば、伊香郡の召次の統轄役ともいえる召次案主職になっている可能性もあるのではないだろうか?

そのあたりを、探していると網野氏の論説に、ピンポイントで政恒法師が登場していた。
時代は遡って平安の前期から中期あたりと思うが、院召次勾当成行(中原成行)そして「久則」という名が出てくる。
秦久則、のこと。と出ているが、そうではなく「くのり」かも知れない。
他に秦久弘が出てくるので、分が悪いのだが…

「秦氏」でもなく、唐突に名前を「久則申す」と左大弁宰相平成俊奏事目録の文書に書くだろうか。
これは苗字なのではないだろうか?
久則は召次を統轄していた人物とある。


<論説>中世前期の「」と給免田 : 召次・雑色・駕輿丁を中心に
網野善彦 著

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238269/1/shirin_059_1_1.pdf

この論説により、政恒法師の周囲の状況も少々だが、わかってくる。
42頁。

===*===

追放された中原政経が政恒法師であるならば、御家人として復帰していたことになる。
その御家人としての時代に中原経任・経久も関東にいたのだと思うのだ。

===*===

いっぽうの越前国の「中原政康」の方は、中原政経よりも一世代前と思われる。越前に居住してから40年とあるので、1214年にはもう、50歳60歳くらいだったのではないだろうか。

川崎町の歴史より
http://www1.rcn.ne.jp/~nonami/kawasaki/rekisi.htm

1214、(建保2)中原政康。「この人は建保2年、守護から御家人役である内裏大番役を催促され、自分は神事を営む身で『兵つわもの』の氏ではなく、その器量ではないとして、これを拒否している。神人が官位をもつ侍身分の人だったことはすでに明らかにされているが、廻船人あるいは海商であったとみられる政康が、このように御家人と比肩しうる人物だった事実は/政康が自ら憚るところなく、むしろ誇りをもって、『気比大菩薩神奴』といっていることに注意しなくてはならない。/神の『奴』と名乗ることは、平民と異なる聖別された存在であることの強調であり、実態としても、神人は特権――政康の場合はおそらく海上交通を妨げなく行いうる特権を保証された、侍身分の人だったのである。/そしてこの中原政康のような気比社の神人は、本社の所在する敦賀郡、それに丹生郡の浦々をはじめ、能登、越中の名古浦(放生津付近)越後の曾平、佐渡などの諸国に分布しており、能登・佐渡の神人は丸蚫、和布等を、越中・越後の神人は鮭を気比の神に進めていた。/気比神人が廻船人・海商として活動していたことは、はるか後年のことではあるが、気比社に毎年の神事料を納め、気比神人の後身とみられる敦賀の道川どうのかわ氏が川舟座の中心として、日本海を舞台とする広域的な海上交通、交易に従事している事実からも、十分に推測することができる。そしてこの時期の気比神人の動きは、それ自体、山門・日吉社の影響下にあったのである。」(網野善彦、『海と列島文化』第1巻)

web情報では、
http://yoshi-bay.com/publics/index/113/
「715年(霊亀元年) 近江守藤原武智麻呂は比叡山で氣比神と出会う。」

『古事談』二九、叡山中堂建立に蠣殻出現の事、とあり、気比が此の比叡山と関係があったことを示しているようなのである。


図説福井県史目次
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/indexzu.htm

===*===

もう一つ、論文を見つけたので、更にご紹介しよう。中原成行が登場している!

国立歴史民俗博物館研究報告第92集2002年2月 [都鄙のあいなか]ー 鋤柄俊夫 著
file:///C:/Users/mamo/AppData/Local/Temp/kenkyuhokoku_092_08.pdf


そんな中、網野善彦氏が述べているように、一O世紀後葉までに山門が若狭に荘園を形成して以降、北陸道の諸国には多くの山門と日吉社領の荘園が設けられ、また加賀の白山社、越前の気比社をその末社とし、出羽以北についてもその末社や末寺が分布することからも、山門と日吉社は、北東日本海域に対して強い影響力を及ぼしていたと考えられている。そしてその実際の運営を担ったのが近江国愛知郡司も兼ねた中原成行などに代表される日吉神人であった。かれらは大津を中心に右方と左方に分かれて十二世紀前半から鎌倉期まで「北陸道神人」と呼ばれた巨大な組織を形成して北陸道諸国に分布し、出挙・借上の活動に従事して、ひろく日本海の廻船人として活躍し、あるいは日吉神人であると同時に気比の神人でもあった中原政康のように、敦賀に居住して和布・丸抱・鮭などを貢納していたとされる。

とあり、中原と日吉神社のつながりが近江国から越前敦賀にまでおよんで、更に越中、能登、等にも広がっていたと思われるのである。

ダイナミックで、あの紫式部が父と見た様子のようである。

https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/A17/A171.htm
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/zusetsu/A17/A172.htm
http://kakitutei.web.fc2.com/murasaki/etizen/index.html



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