中原経久
Googlebooksで、久々に「中原経久」を検索したら、
経久情報が増えていました。うれしい!
で、ともにいるメンバーを見ると、見知った者ばかり。
大江広元・三善康信・藤原行政(二階堂)/ 平盛時・源邦業(伊賀朝光の母方の祖父)・中原経久・藤原邦通(藤判官代)
この後で、久経も出てくるので、間違いか?…と思ったが、
久経はもしかすると「息」や「甥」かも知れない。
または、同一人物で、人生の途中で改名した可能性もある。
近藤国平のコトバンクを見ると
「近藤 国平(こんどう くにひら、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。近藤国澄の子。藤原秀郷の玄孫・脩行(近藤太)の五代孫。大友能直等の又従兄弟にあたる。通称は近藤七。子に国重がある。
祖父の代より伊豆国に地盤を有していたとされ、治承・寿永の乱では源頼朝の旗揚げ当初よりその幕下に加わり転戦した。以後、御家人としてその名がみえ、平家が滅亡する直前の元暦2年(1185年)2月には頼朝の代官として中原久経と共に上洛し、混乱に乗じて非法狼藉を働く畿内近国の武士の平定にあたったほか、鎮西にも下向し同様の任務に就いた。
建久10年(1199年)3月には三左衛門事件への関与により罷免された後藤基清に代わり讃岐守護に任ぜられるが、以降の動静は未詳となっている。
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国平と共に行動した人物は「経久」になっていたり、「久経」になっていたり、統一されていない。
が、東京大学史料編纂所の資料(手稿)では「久経」 になっている。
経久が見事に出ていますね。
実は、私が最も興味を持ったのは
権中納言従三位源光圀
です。流石大日本史。
水戸黄門が好きなので、御老公一行が、悪代官を懲らしめた後村人に別れを告げる橋をかなり歩いて見に行きました。
もちろん、橋と木津川が流れているだけですが、私だけの観光地でした。
拙句
初雪を待つとはなしによろこびぬ
(これから沢山飽きるほど降るとは分かっていても。)