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日記(1.5)

2024-01-05 16:27:34 | 日常
1月5日  (金曜日)  晴れ

朝の気温が低い。
従弟の賀状に”秋山要助の時世の句が書かれていた。
「世の中はただ春の夜の夢なれや富も誉もいかにとやせん」
おっと!まさか今から準備。?
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「幕末の剣豪秋山要助のお墓が佐野市内のお寺にある。
 秋山要助は熊谷の人です。「箱田村」
  秋山要助の第一の故郷は熊谷、第二の故郷が佐野でした。

こんな剣豪がいたんだなあ~!
メモ:
剣豪 秋山要助    渡辺洵一郎
 旧埼玉郡箱田村の出身で、安永元年(1772)に生まれ、通称要助、諱を正武と称し、
 紺屋の息子であったのでこれを業とした。
幼少の頃から剣術を好み、十六・七歳の時秩父甲源一刀流の逸見太四郎の道場
を訪れ弟子入りを願ったが「紺屋の倅に剣術は必要ない」と断られて発奮、
 江戸に出て神道無念流の達人戸ヶ崎熊太郎道場の高弟岡田十松に師事して
十九歳で「突く、引く、突く」の奥義を極め免許皆伝を受けて郷里に帰った。
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その年忍藩剣道師範三田三五郎を御前試合で打ち負かしたことから、
 所払いとなって出奔。全国各地を歴遊した。
寛政十二年ぬ十九歳の時、大川平次郎・高橋平吉を連れて奥州へ旅し、
 水戸の帯金弥四郎(岡田十松門人)宅に滞留して立原杏所に墨絵を学び、梅の絵は専門
 大家を凌ぐほどの妙筆であった。

郷里箱田に帰り、ここに道場を持ったのは四十歳前後の頃と言われる。
秋山流、剣術元祖とし、箱田村をはじめ武州・野州佐野・上州なだに道場を開き、
約二千人の門人を指導した。

晩年は、前に訪れたことのある勤王家山崎尚志、道人の招きにより佐野に赴き、
尚志堂塾で剣術を教え、ここを第二の故郷と定めた。
 文政七年感ずるところあって上毛木崎竜徳寺雲岫和尚に参禅剃髪して
 秋山入道雲嶺と号し九七歳の高僧愚禅和尚より剣禅一如の妙を体得した。
天保四年八月二五日病を得て構武堂に没す。享年六二歳。佐野の興福寺に葬られ、
辞世の「世の中はただ春の夜の夢なれや富も誉もいかにとやせん」が
墓に彫られている。

要助は子がなく市内箱田の秋山屋敷跡に標示が建っている。

★個人的には「富も誉もないけれどズーっと薄い努力で夢だけ見てきた感じ」
 ここに至ってもまだぼんやり夢を見ている感じだ。目覚めないままかなあ~」
 次第にテレビに出ている芸能人の名前を思い出す「スピードが酷く下がってきた。
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〇久々に畑に行ってみる。乾燥しきった土。
 昨日も大風で水分を感じない。如雨露で水やりをしておくが
 カラカラ土に水を撒いてもちょっと湿るだけだ。
 キャベツ・大根・ネギを獲っておく。
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熊谷~ 行田に入ると・・
三方領知替えの横断幕が目に付く。

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三方領知替え(さんぽうりょうちがえ)は、
 江戸時代に江戸幕府が行った大名に対する転封処分の手法のひとつ。
 大名3家の領地(知行地)を互いに交換させることを言う。
 例えば、領地aを持っている大名家Aを領地bへ、領地bを持っている大名家Bを領地cへ、領地cを持っている大名家Cを領地aへ同時に転封すること。
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「三方領地替え」「三方所替え」「三方国替え」とも書く。
 江戸時代を通じて何回か行われている。
 4家が関係した「四方領知替え」の例もある。
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★歴史のある町は全国に名が通るなあ~。
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