中さん

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日記(2.21)

2024-02-21 18:59:15 | 日常
2024    2月21日   (水曜日)     曇り→雨 寒い日
〇昨日の天気は2月というのに夏が来たような感じ。
なったところも!
 ところが今日は一気に気温も15度ほど下がって通常の冬に戻った。
 3日ほど続くという。
〇7時には冷たい小雨が降ってきた。
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◆上毛新聞のコラムに・・・
「群響生みの親」と呼ばれる
  丸山勝広さんが指揮者を探して、
  桐朋学園で指導する斎藤秀雄さんを訪ねたのは1955年頃の
  こと。
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  斎藤さんはまだ無名だった山本直純さんや岩城宏之 
  さんらを連れ、本県を訪れた。

★そんなことがあったんだ群馬県!
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 ▼選ばれたのが当時一番暇だったという小澤征爾さんである。
   「お金はあまり払えないけれど、食うぐらいは食わしてやる」。
    高崎の独身寮に寝泊まりし、夜は酒を飲みながら音楽を語り合った。
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 ▼フランスで本格的に学ぶため、59年に貨物船で旅立った。
  積み込んだのは富士重工から提供されたスクーター
  車体に大きな日の丸を貼り付けてパリを目指した
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 ▼ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝して一躍脚光を浴びた。
  20世紀を代表する名指揮者のカラヤン、バーンスタインに師事。
  米国の名門ボストン交響楽団やウィーン国立歌劇場の音楽監督
  を務めるなど、東洋人として初めて音楽界の最高ポストに就いた

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 ▼「世界のオザワ」と言われるようになっても丸山さんとの交流は続いた。
   群響の東南アジア公演について語り合ったが、丸山さんは92年に急逝。
   楽団葬に駆け付けた小澤さんは人目もはばからずに涙を流しながらタクトを振った
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 ▼食道がんの摘出手術を受け、晩年は降板と復帰を繰り返しながら情熱を燃やし続けた。
  先日、88歳で泉下の人となった。丸山さんとの約束は実現しなかったが、
  音楽家としての原点に群響での日々があった。
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メモ
丸山勝広

登利平の社長

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〇夕方は自治会で行っている防犯パトルール。
 冷たい夕方で素早く終わらせる。
天気図は

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コメント
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