BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

存在の哲学、ゆくへは 0512

2024-05-12 | 思い遥か
  



 
実存主義の問いかけが青春時代にあった。生の意味、生きているとは何なのか、80年近く前の講演に端を発する、そしてその後の80年になる、いくつも生まれた、その問いは現実である。「実存主義とは何か」1945年10月、パリのクラブ・マントナンで行われた。

「民間人を巻き込んでしまうような空爆が果たして許されるのか」
「テロリズムとどう対峙していけばいいのか?」
「憎しみの連鎖はどうやったら断ち切れるのか」
「難民の受け入れをどうしていったらよいのか」
「民族間、宗教間の差別感情、憎悪の感情とどう向き合ったらよいのか」



https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755_53374.html
>矛盾的自己同一的現在として、世界が自己自身を形成するという時、過去は既に過ぎ去ったものでありながら、自己矛盾的に現在においてあるものである、無にして有である。作られて作るものたる我々に対して、世界は表現的である。我々人間に対しては、環境が何処までも表現的ということができる。而してそれが作られたものから作るものへとして、何処までも我々に迫るという時、我々に直観的である。個人的自己としての我々の作用的存在を動かすかぎり、直観的である。しかし過去は自己自身を否定して、未来へ行くことによって過去である。未来ありての過去である、無論その逆も真である。歴史においては、単に与えられたものはない、与えられたものは作られたものである、作られたものから作るものへと否定すべく作られたものである。我々は作られたものから作るものへの世界の作るものとして、自己自身を形成する世界の形成要素として、何処までもこれに対立する。而して作られたものから作るものへと世界を形成し行くのである。そこに私のいわゆる行為的直観の立場があるのである。絶対矛盾的自己同一的現在として、自己自身を形成する創造的世界の形成要素として個物的なればなるほど、即ち具体的人格的なればなるほど、我々は行為的直観的に歴史的創造の尖端せんたんに立つのである。かかる意味において、行為と直観とは何処までも相反するということができる。世界が一つの表現として何処までも我々に迫るというのは我々の自己の底にまで迫るのである、我々の魂の譲渡を求めるのである。
 青空文庫
 底本の親本:「西田幾多郎全集 第9巻」岩波書店   1979(昭和54)年
 初出:「思想 第202号」   1939(昭和14)年3月
絶対矛盾的自己同一
西田幾多郎






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