BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

日本語文法 主語がある、なし

2020-05-24 | #日本語教育

主語がない、主語を言わない、すると、主語があるから、ないことを言うし、主語を言わないのは、主語があるからである、という論法になって、もし、主語を文法としてとらえることができるのだが、表現は、それをどのように示しているのか、という問いになれば、わたしたちはそれを国語で長く練習をして、答えようとしてきている。

主語を言え、主語がわからない、主語を抜かして言う、主語が抜けている、とかとか、それは表現をとらえて、文に主語があるとしてその表現内容を理解また解釈しようとするものであって、ここでちょっと気づくと、逆説的なことを言うことになるが、主語を言え、という人に限って、日本語文法には主語がないという説、主語を廃止する考えを推し進めていることがある。

奇妙なことなのだが、主語を規定する文法を言いながら、日本語の主語を抹殺するという論法で、何か、日本語自体がとらえにくいことを論評する。


2019-05-22 | 文法文章論

主語を言わなくても日本語はどうして通じるのかという質問について、日本語に主語があるので、それを明確に表現するかどうかのことで、言わなくても通じるのは文法上の主語を場面、文脈上にわかっているからであるということを説明する、あるいは、主語と述語を必須にしないのではなくて、主語、主体についての捉え方を知るとわかりよく、主語に対して、主体をとらえているのは言語主体が話し手であることを了解する表現法があるからだということを、主語を言う会話内でわざわざ明示する必要がないことがあるのが日本語である、と、主語を文における要素として分析することは、その文章を理解する上で重要な解釈となるが、そのほかに動詞について目的語をとる、とらない表現かどうかということを明らかにして、言語主体を知ることがある。

モダリティの分析には言語主体による話し方、その法である説明が多く欠落してしまっている。


日本語文法の説
主語を言わなくても日本語はどうして通じるのかという質問について、日本語に主語があるので、それを明確に表現するかどうかのことで、言わなくても通じるのは文法上の主語を場面、文脈上にわ......



2019-05-24 | 文法文章論

日本語文法に基本文型がある。
文型があればその基本となるもの、おそらく文型は数限りなくつづられる日本語にあって、その一つに文型をもって分析すれば、あてはまるものを抽出することになる。
その要素をとって、文の法則、文法の分析とすれば、そこには基本文型がわかればとらえやすくなるので、行われるように、主語述語の文型と、言語主体の述語文型となる。
国語教育で、文末にある表現形式を3種に分けて、文末の名詞と指定断定の形式による文、文末に動詞があってそこに形式には動詞の活用と、あるいはまた、語尾となるものが活用する文、そして形容詞による言い切りの文であるが、それを名詞文、動詞文、形容詞文と簡便な呼び方をしている。
日本語教育ではその文型に、言語の発話にもととなる存在の表現を動詞の文型としておくことと、単位文に分ける一つに複文構造を析出しておく。形式の名称で、…wa…ga構文とするものをおく。
この文型について日本語教育では強調の文として見ることもできるし、
 
夏は太陽がまぶしい

という言語主体の文に、夏は太陽がまぶしいのである という含意を持たせた、独立した用法を見る。


3 コメント

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Unknown (池尾宏記)
2020-05-25 23:59:24
今回のブログで、日本語は主語が省略可能な言語であると仰られていた。この事は、私たちの日常会話でも多々使用されている。しかし、非母語話者からするとこの事は非常に学習する上で困難であると推測する。
私たちの会話や文章でも時々主語を抜かしすぎると何のことか考えなければならない事が相応にしてある。
そのため、母語話者である私たちがどのようにして省略を用いているのか日頃から意識していきたいと考えた。
このような意識をする事で、日本語の指導者として非母語話者の視点を取り入れた指導を行う事が可能となるのではないかと考えた。
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必須主語 (🐼ksk_ym)
2020-06-03 23:40:05
主語を必須とする、これは、文の定義また説明で規則としている。文法規則がそうであるか、ないか、しかし、文に主語が必須であることは主語を明示することにかかわらないとすれば、主語のマーカーを文に、その一文だけに求めることでもない、つまり必須主語は文の説明に求めて現れるものである。日本語は、そうして、会話でも文章でも、主語を探す工夫をする、あるいは明示しないで、主語を示している表現法を持っているので、場面、文脈による言語と言われるゆえんである。学習者は言語による習得があるので、日本語の主語の省略はそのままに習得して表現を始める。ただ、最初の段階には母語との対照で主語標示をしながら学習するのがよい。
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「ある」ことと「表現されている」こと (Mr.Moto)
2020-08-15 15:11:40
「文(単文)」は述語から成っています。
で、「主語」というものは「述語から要求されている、『主格』という格を要求されている文節(あるいは語)」であって、必ずしも明示される必要はありません。
そもそも、主語は省略されがちなので、「主語を示す格助詞」というものが存在しません。「は」「が」は、「主格の格助詞」ではなく、「強調助詞」(強意の助詞)あるいは「とりたて詞」です。
それを言うと「象は鼻が長い」みたいな例を持ちだす人はいるわけですが、「鼻」が強調されて「長い」の前に来ただけの話であって、「象は長い鼻の(何か)(である)」と構文的には同義です。そのときの「何か」というのは、坂井秀寿さんが『日本語の文法と論理』で述べていらっしゃる「準体助詞の『の(ん)』」だと考えられます。べつに「象は長い鼻の奴だ」であっても、構文構造は変わりません。
非母語話者には、「日本語においては、強調することにおいて転置が起きるので、連用形であっても『その直前にある「は」「が」で強調された語に連体修飾としてかかっており、連用形であるのは「かかり受け」の関係を示すための便宜的な処置だと考えられる』とかいった説明をすれば足りる」と考えられます。
英語圏の人でも日記をつけるときは “I” を省略するそうですが、それを命令形だと思う奴はおらんわな。
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