この本は、主にカティリーナ弾劾についての資料である。どうやら、キケローがしゃべったことを誰かが速記したようである。所々に欠落した部分があるのは、残念だが、それでもキケローの雄弁さが分かる(彼が自分のことを雄弁家と述べたことはない)。それでも、彼の能力はすばらしい。犯罪に走っていた諸々の人を弾劾し、人民の心をいとも簡単に掌握してゆく。そこにはヒトラー以上の才覚が容易に見て取れる。否、ムッソリーニすら、足元に及ばないであろう。
ところで、日本には修辞学はあるらしいが、弁論術はない。これは由々しき事態である。古代ギリシャ時代のように、互いの弁論を練磨し、相手の弁論能力を推し量る。まさに、これが現代には存在していないのである。
さて、キケローの話に戻ろう。キケローは何よりも、私生活と公の場合の話し方を分けていた。これは、キケローの全書物を通観してみれば分かる。これがいかに重要かをお話しよう。まず、個人間の話し合いで公の場で話すように、話すとただ単に相手を威嚇するだけである。それは、強圧的で、客観的に見れば、単に横暴を
振るっているいるとしか見えない。その反対に、個人間での話し方を公の場で使ってはならない。なぜなら、民衆とは素朴な話し合いを公の場で使っている人に対して、猛烈に反発するからである。公の場で話す時には、いかにも圧政的で重圧感を加える話し方をしなければならない。所詮、弁論の意味とは、民衆を洗脳し、誘導することに目的がある訳だ。それが、良い方向にいくか、悪い方向にいくかは、指導者の思想如何に関わっている。
ところで、日本には修辞学はあるらしいが、弁論術はない。これは由々しき事態である。古代ギリシャ時代のように、互いの弁論を練磨し、相手の弁論能力を推し量る。まさに、これが現代には存在していないのである。
さて、キケローの話に戻ろう。キケローは何よりも、私生活と公の場合の話し方を分けていた。これは、キケローの全書物を通観してみれば分かる。これがいかに重要かをお話しよう。まず、個人間の話し合いで公の場で話すように、話すとただ単に相手を威嚇するだけである。それは、強圧的で、客観的に見れば、単に横暴を
振るっているいるとしか見えない。その反対に、個人間での話し方を公の場で使ってはならない。なぜなら、民衆とは素朴な話し合いを公の場で使っている人に対して、猛烈に反発するからである。公の場で話す時には、いかにも圧政的で重圧感を加える話し方をしなければならない。所詮、弁論の意味とは、民衆を洗脳し、誘導することに目的がある訳だ。それが、良い方向にいくか、悪い方向にいくかは、指導者の思想如何に関わっている。